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電子足跡:旧山陽道歩き旅
 曽根から播磨高岡へ 姫路城下を通る道


プロローグ
 

このページは旧山陽道(西国街道)をJR曽根駅から姫路城下を通って播磨高岡駅まで歩いたページです。
そこに住んでいる方達は当たり前の風景だと思うのでしょうけど、旅行者から見ると、それほど高くはないのですが独特な雰囲気の山を見ながら歩きます。そして市川を渡り姫路城下に入ります。
日本の城といえば姫路城を思い浮かべる方も多いと思います。
今回城下を歩いて、少し痛い足を引きずりながら姫路城を訪れると美しさが際立つように感じました。つくづく雄大で美しい城だと感じます。

都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
備考
兵庫 曽根駅-播磨高岡駅 御着宿、姫路城下 2021/10/20 14.4km


↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


阿弥陀付近

昨日のゴール地点JR山陽線曽根駅からスタートです。
この付近は高砂市阿弥陀町と言いますが、五街道細見の阿弥陀村のところには 『浄土阿弥陀寺』 と記載されています。
地図を見ると、町の大きさには不釣り合いと思えるほどのお寺の記号があります。

街道筋の家並み


別所町付近


六騎塚の亀跌(きふ)
説明板には児島範長主従6名の自害を弔って建立されたと書かれていました。
建立の由来もさることながら、亀が墓石を背負っているのが目にとまりました。
この亀形の台座を 亀跌(きふ) というそうです。初めて見ました。

調べると、中国、韓国では石碑の台座を亀の形にするのが一般的だそうで、日本では江戸時代に流行ったとインターネットの記事がありました。
何故、亀の形なのかは、インドでは女神の乗り物と言われているそうですし、読者の方も一度は眼にした事があると思いますが、古代インドの宇宙観では、大きな亀の背中に大きな像が3頭乗り、その像の背中に半球状の大地(地球)が乗っているという絵を見たことがあると思いますが、その宇宙観に近い感じがします。
また、よく耳にする 贔屓(ひいき)という言葉も、中国の伝説では龍が産んだ9頭の神獣のひとつが亀の形をしていて、重い物を背負う事を好んだ神獣だという事で、そこから柱の下の台座を亀の形にする事が多かったそうです。
ですので元々、贔屓は『代わりに重い物を背負う』とか『支える』とかの意味から転じたそうです。

その六騎塚の隣に朽ち果てゆくお堂がありました。絢爛豪華なお寺や神社も勿論良いのですが、役割が終わり、もう少し時間が経てば自然に帰る建物を見ると、愛しみを感じます。『お疲れ様でした。』 『ご苦労様でした。』と声をかけたくなります。


家並みが途切れることが多くなって、山並みを見る事が出来る様になります。

この山並みは、独特な感じがします。
普段見る山並みは、森に包まれ、水害で所々山肌が見える場所も基本的には土である事が多いです。或いは日本アルプスの様な切り立って人を寄せ付けない雰囲気の山脈を見る事もあります。
ですが、ここの山並みは標高は高くないですが、所々見える山肌が土ではなく、岩盤で、稜線も独特なカーブを描いています。普段生活している土地の山々とは雰囲気が異なっています。ほんの僅かな風景の違いなのですが、遠くの土地まで来たという感じがします。

御着宿
 

御着宿の街道筋は、所々古民家が残り雰囲気の良い道筋です。

写真右:井内家住宅(内部非公開)
 姫路市都市景観重要建築物に指定されています




四郷町山脇

山脇という地名の通り標高100m程の八重鉾山の麓に旧山陽道が続いています。

十字路に道標がありましたが、『右や・・ぞ』と書いてあると思われますが良くは読めません。インターネットで調べたら、 姫路市教育委員会が発行している ”『四郷町』をたずねて” という文書の”旧山陽道と山脇道標”の項に、

(正面)  右 やかじぞう是より一り
(左側面) 右 ヒメジ 安政六年 □□
      左 神戸  正月吉日 国□□
と刻まれているとの記述がありました。

それでは、”やかじぞう”とは何か? という事ですが、
海岸沿いの姫路市的形町福泊 にある 八家地蔵 の事ではないかと思われます。
八家地蔵は海岸に鎮座していて、播磨灘を行きかう船舶の安全祈願のため鎌倉時代に造られ高さは台座を含め2.1mあるそうです。




山脇を過ぎて市川を渡ると姫路市街に入ります。

姫路城下
 

姫路城のホームページによると、姫路城は元弘3年(1333年)赤松則村(円心)が京に兵をすすめる途中に砦を築いたのが始りで、天正8年(1580年)羽柴秀吉の中国地方攻略の時、城を秀吉に献上し、秀吉が3層の天守を築いて翌年完成。
慶長5年(1600年)関ケ原の合戦の後、池田輝政が姫路城主になり、城の大改築を開始して、9年後に完成。大天守は慶長14年(1609年)に建築されたそうです。
平成5年(1993年)に法隆寺と共に日本で最初の世界遺産に登録されました。

注:上の写真は平成の大修理後に訪れたときの写真です。漆喰の白さが際立っています。



姫路城の西側、備前門の所に掲げられていた地図です。東を上にして描いてあったので90度回転させて北を上にして掲載しました。

左の地図をクリックすると大きな画像が開きます。

外京口門付近
特に遺構は見当たりませんでしたが、地名が京口町で、付近の駅は京口駅です。
そして、歩いている時は気がつきませんでしたが、”外堀川” という小さな川が流れています。現在は中学校の校舎が建っていました。


姫路市街
旧山陽道は現在でもメインストリートで店舗が多く並んでいました。
アーケード街から一歩外にでると、中の門址の石垣が残っています。都市の中で石垣を見ると意外な感じがします、おそらく現在と数100年前が混在した風景なので頭が混乱するのではないかと思います。


備前門橋跡
姫路城の外堀として機能した船場川に架かっていた橋です。写真左の姫路城絵巻の左下に当時の備前門橋が描かれています。微かに発掘された遺構が残っています。
昔の旅人はこの橋を渡ると、姫路城下を過ぎて備前国に向かって旅立つという気持ちになったのでしょう。


え! ビルの中に街道?
備前門橋を渡って北に200mほど進んだ、国道2号線沿いのビルの写真です。
左の地図をご覧頂けると 「あれ?」と思うと思いますが、旧山陽道はこのビルの中を通っています。

住所は姫路市米田町15-1 船場東ビル です。賃貸物件になっているようで、検索すると、築1972年と記載されていました。
旧中山道を歩いた時、埼玉県熊谷市の八木橋百貨店の中に旧街道が通っていて驚いた事がありましたが、このビルも有難い事に旧街道を残してビルを建ててくれていました。当時の関係者の皆さんに感謝の気持ちを伝えたいです。

上のビルの中を通って北に進むと、直ぐに西に曲がります。国道2号線の北側に旧山陽道が続いています。その道筋は特に保存活動をしているという訳ではない様なのですが、雰囲気の良い佇まいの民家が残っていました。

初井家住宅
明治33年(1900年)に生れて、昭和51年(1976年)に没した、姫路を代表する歌人 故初井しづ枝さんの家です。
姫路で見た古民家の中では一番良い佇まいでした。

東今宿付近の民家
電柱が目障りですが、新しく建てられた家の中に、この一角は昔の風情を残した家並みがありました。リホームして現在もお住まいなのだと思います。


播磨高岡駅まで歩いて今日の行動は終わりです。

エピローグ
 

姫路城を訪れました。以前にも車で姫路城を訪れましたが、歩いて訪れると、”異様に天守閣が高い”と言うように印象が変わりました。それと以前訪れた時は平成の大修理の後でしたので、あまりに白くて人を寄せ付けないような雰囲気がありましたが、今回はそれから数年経って、雨風に晒されて為、どこか親しみやすい色合いに変わっていたのが印象的でした。人も潔癖過ぎると近寄り難いという事に近い感じですかね。

本日の道の駅
瀬戸内海に面した小高い場所にある、 道の駅みつ で休みました。
寝ようと思ってトイレに向かうと空には満月が登り、瀬戸内海はシルエットに浮かんでいました。 静かな風景です。


END 

2022年03月15日 作成

Column


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