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電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅
 播磨高岡駅から相生駅へ


揖保川

プロローグ
 

このページは旧山陽道を播磨高岡駅から聖徳太子ゆかりの鵤宿を通り、正条宿、片島宿を経て、山陽新幹線の駅でもある相生駅まで歩いたページです。

この区間はとりたてて有名な史跡がある訳ではないのですが、所々街道沿いに旧家や何百年もそこにあると思われる道標が立っていたり、旧街道の静かな風景を楽しむ事が出来る道です。

都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
備考
兵庫 播磨高岡駅-相生駅 鵤宿-正条宿-片島宿 2021/10/22 20.4km


↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


播磨高岡駅から下毛野・青山付近

播磨高岡駅から西に進み、国道2号線から斜めに旧山陽道に入り、住所で言うと姫路市下手野および青山付近にには、特に保存しているという訳では無いようなのですが雰囲気の良い家並みや古い道標や常夜灯があります。



出雲街道起点の道標
出雲街道は播磨国(兵庫県西部)-美作国(岡山県北部)-伯耆国(ほうき 鳥取県西部))-出雲国(島根県東部)を結んだ街道で中国山地を北西に通っていました。古代日本の中心である大和と出雲を結ぶ道として、旧山陽道から分岐していました。

道標には
 『圓光大師二十五霊場』
 『明和四年丁亥十月 左 たつの道』
 『右 第一番みまさか誕生寺道』
と彫られています。明和四年丁亥十月とあるので1767年に建てられた道標と思われます。

本来は圓光大師二十五霊場を案内する道標で、圓光大師は浄土宗開祖の法然の事で、法然の生誕地の美作国にある霊場巡礼の第一番 誕生寺を案内しています。
(注:本記載内容は ホームページ 出雲街道を歩こう の記述を参考にさせて頂いています。)


常夜燈
上記の道標から100mほど西の夢前川のそばに大きな常夜灯が建っています。

姫路市が発行した 『播磨古道調査報告書 -物語のある道-』 に記載がある常夜灯だと思います。
夢前川は以前は舟渡しで、この付近が渡し場だったのではないかと言われています。常夜灯には『金毘羅大権現 常夜灯 文政十年丁亥八月吉日 願主当村桔梗屋 世話人』と刻まれていて、桔梗屋をはじめ9軒の宿屋があったと書かれています。

夢前川(ゆめさきがわ)
名前が印象的な川です。水が澄んだ流れです。


青山石造道標
夢前川を渡ると姫路市青山に入ります。渡ると道標が建っています。
背後は家に隠れていますが、随分とあちこちの方角を示しています。現代で言えば渋谷のスクランブル交差点のような賑わいだったのかもしれません。

写真左から
 『すぐ姫路 大坂 京 江戸往還』 (注:”すぐ” は真っ直ぐ の意)
 『左 備前 九州 金毘羅 宮嶋往来』
 『圓光大師二十五霊場』
 『因州 伯州 作州 雲州往来』 
と書かれています。


青山の家並み




鵤宿 (揖保郡太子町)
 


鵤宿には標高40m程の切通しになっている山田峠を越えて入ります。


桜井乃水
峠を下って太子町の中心部に入る手前、美原台という地名の所にあります。
播磨十水之一 に選ばれた清水です。
と、言っても選ばれたのは戦国時代に播磨を治めた赤松義村(あかまつよしむら)という領主です。
現在はコンクリートで蓋がされた井戸がありました。

行基菩薩作 太田の地蔵様
行基は天智天皇7年(668年)~天平21年(749年)に活動した僧侶。弟子と共に各地に橋や堤を造るなどを行い、聖武天皇の時代は奈良の大仏造立の実質的な責任者になりました。人々は行基菩薩と称する様になったとの事です。

太子町の中心部を通る旧山陽道は商業施設が立ち並び賑やかな街並みです。
現在の地名は太子町ですし、宿場名は鵤宿でした。お察しの通り、聖徳太子ゆかりの地です。町のなかには斑鳩寺もあります。
ですが、宿場の雰囲気は残っていませんでした。
太子町のホームページによると、推古天皇の時代、聖徳太子が天皇に経典の講義を行い、それに感銘を受けた天皇より、この地の水田を賜り、その水田を法隆寺に寄進したとの事です。その後法隆寺の荘園 ”法隆寺領播磨国鵤荘(いかるがのしょう)” となり、聖徳太子信仰の中心地となりました。

太子堂
斑鳩寺から南に真っすぐ伸びた道の、小高い太子山の麓にありました。
斑鳩寺はここから北に450mほどの所に在ります。参拝するか否か悩ましい距離でしたが結局参拝しませんでした。罰当たりですね。

たつの市

林田川を越えると たつの市に入ります。上記の下毛野に建っていた道標に刻まれていた 『左 たつの道』 の ”たつの” と思います。付近は田園が広がり路傍に石仏が並んでいました。


揖保川
揖保川は五街道細見(青蛙房 岸井良衛)には、正条川と書かれていて、幅80間舟渡しと書かれています。現在は国道2号線の揖保川大橋架かっていますので橋を渡ります。
左の写真は揖保川大橋から南側を写していますが、山陽本線と山陽新幹線の鉄橋が写っています。それにしても水底が鮮明に見えるほどの清流です。


ところで、揖保川と聞くと、ときどきスーパーマーケットの食品売り場で見かける ”揖保乃糸” という素麺を思い出します。”揖保乃糸” はこの地で作られる素麺です。揖保川の清流を見たら揖保乃糸も美味しい訳だと思いました。

<楽天市場で購入>



正条宿
 

揖保川を渡ると正条宿です。正条宿は宿場の雰囲気が良く残っています。

揖保川西岸の山陽本線の鉄橋近くのムクの大木の下に渡し場跡の木柱が建っていました。

郵便局の所に古い道標がありました。
『右ひめぢかうべ 左たつの山さき 道』
と書かれているそうです。
私はここまで崩された文字は読む事ができません。インターネット情報です。



写真左:本陣 井口家


片島宿
 

正条宿と片島宿は2㎞ほどしか離れていませんでした。
五街道細見の片嶋のところには、『文久図 此処宿場』と書かれており幕末頃になって、宿場として機能するようになったのかもしれません。

写真左:片島本陣跡




相生駅付近

本日のゴール相生駅が見えてきました。相生に山陽新幹線の駅が出来て、駅周辺が再開発されたのかと思いますが、駅周辺は旧街道の田舎駅周辺の家並みという感じはしません。小さな橋を渡って相生駅に行って今日の行動は終わりです。
小さな川の名前が ”鮎帰川” でした。街並みは変わっても、昔は自然に囲まれた土地だったのかなと想像させてくれる川の名前でした。


相生駅は瀬戸内海から深く入り込んだ相生湾の入り江から1.5㎞ほど北に行った所に在ります。相生湾の入り江に温泉と道の駅があるので歩き終わってから車で行ってみました。行く途中車窓から見えた家並みは、道が入り組んで、古くからある感じの家並みと言う感じでした。昔は漁業で賑やかな町だったのかなと想像しました。

エピローグ
 

この区間は急な坂道も無く歩きやすい道でした、冒頭に取り立てて有名な史跡がある訳ではないと書きましたが、有名な史跡はなくとも所々に残る道標や石仏あるいは旧家は街道歩きの楽しみを静かに味わう事が出来る道でした。

道の駅 あいおい白龍城(ぺーろんじょう)について
また、相生湾の奥に在る、道の駅あいおい白龍城は港の中にありました。つまり道の駅の前が海という事です。併設されている”ペーロン温泉” は施設の2階部分に作られているので浴槽から相生湾を見る事ができます。
海を見ながら風呂に入るって贅沢な感じがします。


END 

2022年04月17日 作成

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