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電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅
相生駅から三石宿へ
難所 有年峠を越して備前に入る道
プロローグ
このルート地図は旧山陽道(西国街道)を兵庫県相生駅から難所 有年峠・船坂峠を越えて岡山県に入り三石宿まで歩いたページです。この区間は、京都側から歩いて来ると、最初の本格的な峠で且つ旧山陽道の難所と言われている有年峠を越える事になります。
有年峠を越え船坂峠を越えると播磨国(兵庫県南部)から備前国(岡山県南東部)に入ります。
2つの峠は中山道の碓氷峠や和田峠、東海道の箱根ほど高くはなく、標高200m弱の峠です。坂道がきついか?と問われればそれ程では無いと思いますが有年峠は道がかなり荒れています。
重要:
2021年10月 実際歩いて有年峠を越えましたが、歩ける事は歩けましたが、倒木が多数在ったり、道筋が不鮮明な部分がありました。
また、有年峠の出入り口には、獣害対策の柵が設置されており、道筋にも猪の砂浴び場と思える場所が複数確認され、猪と思える足跡も多数在りました。
GPSにルートを登録して道を間違わない様にして頂く事と、しっかりとした靴を履く、クマよけの鈴やホイッスルなど音が出る物を携帯して歩いて頂く事をお勧めします。
都道 府県 |
区間 | 通る宿場等 | 歩いた日 | GPS 移動距離 |
備考 |
兵庫/岡山 | 相生駅-三石駅 | 有年宿-有年峠-船坂峠-三石宿、 | 2021/10/23 | 22.5km |
↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます | GPSログをGoogleEarthでツアーする方法 | |
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)
相生駅からの道
相生駅からの旧山陽道(西国街道)は国道2号線と山陽本線にほぼ沿っています。これまで旧山陽道を歩いて来ましたが、旧街道から山陽新幹線、山陽本線が見える場所が幾つもありました。
古代から続く旧山陽道の道筋は現代になっても、道路や鉄道を敷設し易い地形、つまり高い峠・山が無い、あまりカーブしなくても良い、幅の広い河川が少ないなどの土地を選んで作られていたのだと思えます。
相生市若狭野町入野 付近
すぐそばに国道2号線が通っています。旧山陽道はこの路地の様な狭い道です。
旧街道を歩くとこのような生活を感じる道に度々出合います。 最近出来た広く新しい道には無い魅力のひとつです。
相生市若狭野町福井 付近
柿の実を見ると秋を感じます。
有年駅 付近
有年駅が遠望できる所まで歩いてきました。
有年駅の向こうにこれから越えて行く山々が見えています。
有年駅から西は山陽本線が有年峠・船坂峠を迂回して敷設されているので三石駅まで鉄道駅はありません。有年駅から三石駅までは13.8㎞の歩きです。
有年宿
堂ノ元(塚ノ元)の道標
有年駅を過ぎて少し進むと、三叉路に堂ノ元(塚ノ元)の道標が建っています。
『左 岡山道』
『御大典記念』
『右 上郡 鳥取道』
と読み取れます。
比較的新しく御大典と刻まれているので、昭和天皇が即位した時の記念に建てられたのかと思います。勿論 左に進み岡山に向かいます。
千種川
有年宿には千種川を渡って入ります。川幅が広く緩やかな流れの河です。江戸時代は舟渡しでした。
有年宿に入って右側の山に沢山の幟が見えました。
”太陽コレクション 京都・大阪 山陽道” には 『此古城山は八幡山城と云う 城主は戸田采女正 居城と云う』という記述があるので八幡山城という山城が在ったのだと思います。
城主の戸田采女正(とだ うねめのしょう)を検索すると、忠臣蔵の浅野内匠頭の母方の従兄弟で大垣藩藩主と書かれていました。
有年宿の家並み
街道沿いの家の塀に 『有年宿本陣跡(旧柳原邸跡) ⇒』 と書かれた看板が建っていたのでそちらに行ってみました。
有年宿本陣跡(旧柳原邸跡)
立派な石碑に 『明治天皇 駐輦記念碑』 と書いてあり、隣の小さな木柱に 『有年宿本陣跡(旧柳原邸跡)』とありました。
駐輦(ちゅうれん)とは、
天皇が行幸の途中で車をとめること。輦は天皇が乗る車。の事だそうです。
有年宿番所跡(旧松下家宅跡)
説明板によると、『寛永年間(1624~44年)に現在の東有年に有年宿が移され、赤穂藩役人は出張の際は、ここに宿泊し、前庭を白洲にして番所として利用した。』と書かれていました。
元々の有年宿は西有年地区に在ったのが千種川に近い現在の東有年地区に移転したそうです。
説明板から有年宿は赤穂藩の管轄だったと分かります。赤穂城とは直線距離で9㎞程度の距離ですし、赤穂城とは千種川で繋がっているので、もしかしたら赤穂浪士の誰かが有年宿に来ていたのかもしれません。
有年家長屋門
有年家は ”うね” と読まず ”ありとし”と読みます。
有年宿の繁栄を偲ぶ事が出来る立派な長屋門です。
築年は文化年間(1804~1818年)と推定されており、有年家はこの地域の大庄屋を務めていたとのことです。
有年家の長屋門を過ぎると東中野、西中野、西有年地区を通って有年峠の麓に向かいますが、その風景は、日本の原風景のような、どことなく懐かしい様な風景が続きます。
この付近には縄文遺跡や古墳群などの遺跡が多数発見されていて、古くから人が住みついていた事が分かっています。それだけ住みやすい土地なのでしょう。
写真右:淳泰寺
写真右:西有年宝篋印塔 製作年代は鎌倉時代末期または南北朝初期
写真左:一里塚跡
有年峠
冒頭にも書きましたが、有年峠の道は荒れていますし、野生動物が多く生息している場所です。また、この道を2008年10月17日に歩いた ”シングルおやじの気ままな一人旅” には地元の方の話として『9月、10月はマムシが最も危険な時期なので、(中略) 先日もご近所の方がマムシに咬まれたばかりだ。』と紹介されています。
GPSにルートを登録して、しっかりとした靴を履き、ホイッスルやクマよけ鈴など音が出る物を持って行く事をお勧めします。不安を感じたら国道2号線を通って迂回した方が良いと思います。
西有年地区を過ぎ、坂折池から山道になります。坂折池のほとりに獣害対策のゲートが設置されていますが、開けて入る事が出来ました。勿論開けた後はかんぬきをかけてゲートを閉じておきました。
最初は未舗装で快適な道です。
シングルおやじの気ままな一人旅のかっちゃん氏はその快適さを 『つい鼻歌が出てくる。』 と表現しています。
この案内板がある付近から徐々に様相が変わってきます。
いつ頃作られた排水路か分かりませんが、排水路が在るという事は大雨の時は雨水が道を流れるという事ではないかと思います。
倒木があったり、下草が伸び道筋が不鮮明な所がありました。
道の痕跡が確認できたので草を押し分けて進みましたが、下草が広い範囲で生い茂っている場所は道なのか沢なのか分からなくなる事があります。間違えて沢に進むと迷ってしまいます。
猪の砂浴び場と思われます。複数の足跡が確認できます。
倒木というか、倒竹がゆく手を阻んで歩き難い事この上ないです。
有年峠
無事、峠に到着しました。正直に話しますが、この様な道は街道歩きの魅力を強く感じると同時に物凄い不安感が心を支配します。
峠を越すと気持ちも少し軽くなります。
ところで興醒めする様な事を書きますが、人里離れた廃道の様な道を歩き、チョットした冒険気分を味わいましたが、実は有年峠の北側、僅か50m程はゴルフ場の敷地です。
石畳の痕跡?
有年峠から150m程歩いた所に石畳の跡と思える敷石がありました。説明板などは無かったので、昔の石畳かどうかは確証はありません。
峠から400mほど下って来ると、ここにも獣害対策のゲートがあります。
このゲートを過ぎると梨ケ原の集落が見える様になります。人の住む家が見えるとホッとした気持ちになります。
BreakTime
有年峠を越して、チョットひと休み。
Instagramが開きます。
音楽が流れます。音量注意!
梨ケ原地区
梨ケ原宿遺跡路傍に ”梨ケ原宿遺跡”と書かれた説明版がありましたが特に遺構らしきものは確認できませんでした。
説明版には 中世~近世の集落跡で掘立柱建物跡や井戸跡などが発掘され、遺物として備前焼、青磁、白磁、宋銭などが出土した。と書かれていました。
写真左:船坂神社
地名が神社名になっていました。祭神は天照皇大神、春日大神、誉田別命、秦河勝 との事です。幟や提灯が立っていたのでこの日は例祭日だったのかもしれません。
写真左:梨ケ原一里塚跡
写真右:明治天皇駐輦之碑
船坂峠
梨ケ原地区を越えると、もう一つの峠、船坂峠に向かいます。船坂峠への道は国道2号線、山陽本線にほぼ沿っています。道は舗装道路ですが、車は2号線を通るので車と出会う事はありませんでした。登坂もきつくなく簡単に越える事ができました。船坂峠
峠の向こうに西日が傾き、峠道を演出しています。
峠の向こうは備前国です。
縣界の石柱
峠に県界を示す石柱がありました。
東宮殿下行啓記念と刻まれているので、昭和天皇がまだ皇太子だった頃にこの地を訪れた記念に建てられたと思われます。
写真左:岡山縣 和気郡三石
写真中:縣界 東宮殿下行啓記念 岡山縣
写真右:兵庫縣 赤穂???
このあとは備前国の坂を下り三石駅に向かうだけです。
写真左:船坂峠を越えて、三石側から船坂峠を遠望。鞍部に所に国道2号線の船坂トンネルが見えます。
三石宿
三石は耐火煉瓦の製造が盛んなようで、街道沿いに複数の耐火煉瓦関連と思われる建物がありました。煉瓦なので明治になってからの創業と思いますが、付近に煉瓦に適した 土 が採取出来るのだと思います。歩いているときは採取場らしきものは見えなかったのですが、GoogleEarthで見ると町の西側に大きな採取場が確認できました。
産総研の地質図ナビで地質を確認すると、デイサイト・流紋岩・大規模火砕流 と書かれていました。この地質は付近一帯に広く分布しています。歩いて来た、有年峠・船坂峠の道沿いも同じ地質でした。
宿場の風景
三石一里塚跡
宿場内を少し歩いた後、三石駅まで戻って今日の行動は終わりです。
エピローグ
有年峠・船坂峠を越え、備前国 岡山県に入って一安心しました。『有年峠は旧山陽道の箱根』と書かれていたのをどこかで見たのですが、さすがに箱根の峠越えほどきつくはなかったですが、道が荒れていたのは少々心が折れそうになりました。
この道もいづれ廃道になり歩く事が出来なくなるのかと思うと寂しい感じがしますが、なんら経済的効果を期待できない道に税金を使う訳にはいかないので致し方ない事と思います。
END
2022年04月21日 作成
Column
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