Contact
admin


電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅
 備前三石宿から備前焼の町伊部へ


プロローグ
 

このページは旧山陽道(西国街道)を 兵庫県と岡山県の県境の備前三石宿から片上宿を通り、備前焼の産地伊部(いんべ) まで歩いたページです。
先回 10月11日から23日まで京都から三石まで歩いて一旦帰宅しました。今日から再開です。

この道は、三石から弟坂・兄坂と名前が付いた峠道を越えると、山間に点在する集落を通りながら緩やかに下って、瀬戸内海が深く切れ込んだ片上湾の奥にある片上宿に向かいます。残念ながら街道筋から海はあまり見えませんでしたが、吹いてくる風に海を感じました。

片上宿を過ぎて、葛坂には井原西鶴 『好色五人女』の お夏清十郎の物語 『姿姫路清十郎物語』 のモデルとされる ”お夏” の墓 と ”お夏茶屋跡” があります。

葛坂峠を越えると、備前焼の窯元や販売店が並ぶ風情のある伊部の町に至ります。

都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
備考
岡山 三石駅-伊部駅 三石宿-弟坂-兄坂-伊里中-片上宿-伊部 2021/11/17 14.2km

↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


三石宿
 


三石駅に降り立って三石宿を歩いていると、
『中国銀行』の看板が目に入りました。
「え!岡山の山里に BANK OF CHINA の支店が在るのか?」と目を疑いました。
勿論、この銀行が中国地方の地方銀行だと気が付くまでに時間はかかりませんでしたが、東日本に住んでいる者にとっては中国銀行という銀行は馴染みがないので、銀行の看板ひとつにも異郷の地に足を踏み入れたという感じます。
ところで、笑い話ですが、夜中に鳥取駅に降り立った若手芸人が、タクシーで宿まで行く途中、やたらと『とりぎん』という看板が掲げられた建物が目に入り、『鳥取って、なんでこんなに”立派な焼き鳥屋”が多いのだろう? でも、なんでみんなシャッターが閉まっているんだろう?』と思ったそうです。それが鳥取銀行だと気が付くまで少し時間がかかったそうです。

話は変わりますが、写真の奥に写っている山肌が階段状になっていますが、前のページに三石は耐火煉瓦の製造が盛んと書きましたが、階段状の山肌は耐火煉瓦か或いは備前焼の材料を採取する採取場だと思われます。

山陽本線橋梁
このトンネルは三石宿も外れに近づいた所にある山陽本線の橋梁です。
この区間の山陽本線は1891年(明治24年)の開通なのでその当時に作られた橋梁なのではないかと思います。
橋梁に限らず煉瓦造りの建造物は時間が経つと新しさな無くなりますが、色はくすんでも風格が増す様に思えます。

弟坂 兄坂

山陽本線を越して少し行くと、旧山陽道は国道2号線と道筋が同じになります。
その途中に地理院地図にも記載がある、弟坂・兄坂があります。
三石側から行くと、登坂が弟坂、下り坂が兄坂です。
現在は国道2号線の切通しの道になっていますが、おそらく昔は山を越える道だったのではないかと思います。


備前市八木山地区

坂を下って来ると、山陽道自動車道の備前ICがあります。その直ぐそばの八木山地区の家並みが続いています。高速道路が隣を走っているとは思えない静かな佇まいです。


家並みから少し離れて、国道2号線と山陽道自動車道が交差している所に、明治天皇八木山御小休所址の石碑、同じ敷地内に八木山一里塚跡の石碑がありました。
明治時代には立派な建物があったのだ思いますが、今は更地です。


四軒屋遠望
更に西に進むと、山間の小さな里と云う感じで、二軒屋、四軒屋という地名があります。如何にも旧山陽道が主要な道で往来が盛んだった頃の地名という感じがします。


広高下の風景


備前市伊里中・一本松付近

少し進んでくると、これまで旧山陽道が通っている細長い谷底平野に流れる川が伊里川に合流し、周辺の小さな川も伊里川に注ぐ、小さな盆地のような土地にでます。
伊里中の集落がありますが、これまで通って来た集落より少し大きな集落です。


藤ヶ棚 茶屋跡(一本松付近)
坂道を下る途中に 備前焼 桂花園 と書かれた白壁の塀の所に ”藤ヶ棚 茶屋跡” と書かれた木柱が建っていました。
写真を写していたら、右側の写真に写っている一輪車を押している男性が、『昔、ここには茶屋が在って、殿様もここで休んでいった。坂の途中で丁度休みたいと思う場所に茶屋があって繁盛していた。』と、まるでその当時を見ていたかの様に教えて下さいました。


片上宿
 

旧山陽道を下って来て、国道2号線と交差する歩道橋の上から片上湾の一番奥まったところの海が見えます。海が見える所に来ると何故か嬉しくなります。三石の兄坂からは標高で120m程下って来ました。


宇佐八幡宮
旧街道らしい坂道を下って市街地に入ると宇佐八幡宮が鎮座しています。
説明板によると、足利尊氏が多々良浜(福岡)の戦いで大勝し、九州制覇が出来たのは、豊前(福岡県東部)の宇佐八幡宮に参拝して武運長久を祈願したおかげだと、勧請して足利の守護神にしようとしたが、帰路おおしけに遭い、神のお告げで、潟神村(片上村 現:備前市)に祀ることとし、富田松山(注:上の写真 片上湾対岸の山麓付近)に祀った。その後、何回か変遷があって現在の地に遷宮したとの事です。


備前焼の狛犬
宇佐八幡宮の鳥居の前にあります。陶器で出来た狛犬を見たのは初めてではないかと思います。備前焼を見ると、いよいよ備前に来たなという感じがします。

右側の阿形には、『文政9丙戌年9月吉日 備前窯元 森五兵衛正統』 と刻まれています。文政9丙戌年は西暦1826年です。


左側の吽形には『伊部細工人 森五兵衛正統 服部章兵尚芳』 と刻まれています。


片上宿の風景
片上宿はあまり宿場だった頃の印象が残っていませんでしたが、所々どことなく宿場だったのかなと思える家並みがありました。



街中の道標
上の写真の家並みの中に天保六年(1836年)と銘がある道標がありました。

右 ゑびす道
左 渡海場
天保六未十一月世話人 ・京屋庄太夫

お夏の墓とお夏茶屋跡  井原西鶴 お夏清十郎の物語?


片上宿を過ぎ、葛坂峠に向かう坂の途中にお夏の墓があります。葛坂峠には お夏茶屋跡 が在ります。

お夏と聞いて思い出すのは、井原西鶴 『好色五人女』の お夏清十郎の物語 『姿姫路清十郎物語』 です。この墓と茶屋跡が『好色五人女』のお夏のモデルになったお夏なのかどうかは定かではありませんが、インターネットにはお夏のモデルになったお夏という記事がありました。

あらすじ
井原西鶴『好色五人女』の『姿姫路清十郎物語』は実際に有った事件を題材にしているとの事ですが、あらすじは以下のようです。

清十郎は室津の造り酒屋の息子で、訳あって姫路の米問屋但馬屋に奉公に出る。
但馬屋には美しい娘 お夏が居て、清十郎とお夏は恋仲になるのですが、2人の仲は許されず、駆け落ちするが捕えられる。
折り悪く、但馬屋の金が紛失する事件が起き、清十郎は盗みのぬれぎぬと、かどわかしの罪で処刑される。それを知ったお夏は悲しみのあまり発狂し、清十郎の姿を求めて彷徨う。  と言う物語です

お夏の墓 と お夏追悼碑




葛坂と葛坂峠にある お夏茶屋跡

お夏茶屋跡の説明板には『お夏は天性の美貌と知れ渡った評判の店は随分とはやった。』と書かれていました。

個人的な感想ですが、物語としては、お夏が発狂して清十郎を追い求める姿の方が涙を誘いますが、実際のお夏は一次的に取り乱したとしても、そこから立ち直って茶屋で働き、人生を全うした。という方がより人間らしく感じられて親しみが持てます。『何があっても、それでも日はまた昇る。』って事の方が人生に希望が持てます。
と、このお夏さんの墓がお夏清十郎のお夏さんかはともかく、歩いて旅をすると色々なものが目に入り、いろいな事を感じます。

葛坂峠
峠からは伊部の街並みが見えて良い風景です。


伊部(いんべ)

峠を下ると伊部の町に入ります。
伊部は備前焼の産地として有名な町です。窯元やギャラリー、お店が多く点在して、風情のある街並みです。旧山陽道はその家並みの中心部を通っています。






残念ながら私は陶器に疎いので、その美しさは良く分からないのですが、それでもシンプルで素朴な味わいの陶器は美しいとか奇麗とかは通り越してそこに存在している感じを受けました。

エピローグ
 

岡山県 備前に入りました。中国山地の山間の寂れた道を進んで、瀬戸内海に至る道は、なにがどうとは明確には答えられないのですが、これまで歩いた道とはどこか違った感じがします。

それにしても、歩いて旅をすると、移動速度が遅いので史跡を発見したり、風景をゆっくり楽しむ事ができます。”お夏の墓”や”お夏茶屋跡”も歩いていなかったら気が付かなかったと思います。

道の駅 一本松展望園
歩き終わって 道の駅一本松展望園 に行きました。高台にあり瀬戸内海を見る事ができます。
ちょうど夕日が沈む頃だったので美しい風景を見る事が出来ました。






END 

2022年04月30日 作成

Column


広告

広告

広告

広告

広告