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電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅
 備前一宮から備中呉妹へ
  古代日本を感じる道

プロローグ
 

このページは旧山陽道(西国街道)を吉備津彦神社が鎮座する備前一宮から備中呉妹(くれせ)まで歩いたページです。

この道は古代日本を強く感じる道です。
備前一宮は大和朝廷の征西が元になっているとされる桃太郎伝説が残る、吉備津彦神社 吉備津神社 が鎮座しその壮大な社殿を参拝して散策できます。一宮から8㎞ほど歩くと仏舎利塔が建っている備中国分寺跡に至ります。周辺には造山古墳群もあるので古代そのものの風景です。更に、西に進むと奈良時代天平期の学者であり高級官僚である吉備真備の出身地とされる吉備町を通ります。
1日の行程のなかで古代の風景と歴史を強く感じる事ができる道です。

そして、旧山陽道から数㎞北に羽柴秀吉の水攻めで知られる備中高松城があります。本能寺の変を聞いた羽柴秀吉が後に中国大返しと言われる行軍をして、明智光秀と大阪と京都の国境、山崎の地で戦い、天下人の道を駆け上がっていくきっかけになった地です。


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都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
岡山 備前一宮駅-備中呉妹駅 吉備津神社、板倉宿、備中国分寺跡、川辺宿、真備公廟 2021/11/21 22.6km


↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
旧山陽道 備前一宮から備中呉妹
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


なんともレトロな列車
今日は井原線の備中呉妹(くれせ)駅に車を駐車して、列車で備前一宮駅まで移動して歩き旅のスタートです。
呉妹駅のホームで列車を待っていたら、随分と古めかしい列車(一応、古めかしいと表現していますが、別の言い方をすると、昔 国鉄時代に使われていた古い列車をリサイクルして使っている。という雰囲気の外観でした。)がやって来たなと思いました。
ところが車内に入ったら、目を疑う様なレトロな内装の列車で、このまま、ズット乗り続けて旅をしたいという気持ちになりました。


備前一宮
 

備前一宮には 吉備津神社 が鎮座しています。旧山陽道から吉備線を渡った吉備中山の東側の山麓に鎮座しています。また、吉備中山の西側の山麓には 吉備津神社 が鎮座して、その間は直線距離で1.4㎞程です。ともに桃太郎伝説と関係がある神社です。

桃太郎伝説
子供の頃、一度は桃太郎の鬼退治の昔話は耳にした事があると思います。
桃太郎の鬼退治の昔話は、吉備津彦命 が吉備の国に居た温羅(うら、うんら、おんら)を平定する為にこの地にやって来たという故事がベースになっているとの事です。
Wikipediaの記載によると、古事記や日本書記には吉備津彦命は第7代孝霊天皇の皇子で、その当時の吉備の国を平定する為に犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)・楽々森彦命(ささもりひこのみこと)・留玉臣命(とめたまおみのみこと)の3人の家来と共に吉備の国に派遣されたとされたと書かれています。

また、吉備津彦神社のホームページには、『大和朝廷の命により吉備の国を平定した大吉備津日子命と、吉備の国に製鉄文化をもたらした温羅命との戦いが、「桃太郎の物語」として今に伝承されています。』と書かれています。
吉備津彦神社のホームページの文章には、温羅≒鬼≒悪者 とは書かれておらず、『吉備の国に製鉄文化をもたらした』と書かれています。一般的に考えれば、当時の最先端技術である製鉄技術を保有し、それを吉備の国にもたらしたとすれば渡来人の集団が、この地に住みつき製鉄技術をベースに大きな経済圏をつくっていた。と考えるのが自然な気がします。
既に指摘されている事ですが、桃太郎の昔話は、その集団を大和政権が侵略して略奪した物語という事になるのかなと思います。
普遍的で万人が認める 悪≒鬼 と言うものが存在するのも事実と思いますが、この物語の場合は、勝者である大和政権側から見た物語で、この場合は 悪≒鬼 とは大和政権側から見た 悪≒鬼 という事になるのかと思います。桃太郎伝説も『勝者が歴史を残す。』という事なのだと思います。それにしても、子供の頃 寝物語で聞いた昔話の真相をこの歳になって知るとは思いませんでした。

いずれにしても、大和朝廷と吉備地方の勢力との戦いが桃太郎の昔話のベースであるようです。

吉備津彦神社
吉備津彦神社のホームページには、祭神は 大吉備津日子命で、元々は吉備の国を治めた屋敷跡に社殿を建てたのが吉備津彦神社の始りと書かれています。


境内には ”桃太郎茶房” と看板が掲げられた茶店がありました。やはり、きび団子を売っていました。


吉備津神社
吉備津神社は比翼入母屋造りの本殿・拝殿も有名ですが、約400mにも及ぶ回廊がある事でも知られています。主神は吉備津彦神社と同じく大吉備津日子命です。






吉備津彦神社も吉備津神社も歩いて行った訳ではなく、歩き終わってから車で訪れました。

従是東備前國  備前/備中国境


備前一宮駅から歩き始めて、吉備線の吉備津駅の東500mほどの所、住所では岡山市北区西辛川と吉備津の境界付近にさりげなく立っていました。これまで歩いてきた道は備前國でこれから歩く道は備中國という事なのだと思います。

真金一里塚
上記の道標から少し離れた所に在ります。地理院地形図にもその名が記されている、岡山城下から数えて2番目の一里塚です。

ところで ”真金(まがね)” という名前ですが真金村に在ったので真金という名前なのですが、”まがね”をパソコンに入力して変換すると、漢字の候補に ”鉄” が出てきます。”まがね”とは”鉄”の事なのだと知った次第です。上記の桃太郎伝説のところに 『温羅命が吉備に製鉄文化をもたらした。』と書きましたが、この吉備津神社周辺はかつては鉄の産地だったという事が地名からも推測できます。

吉備津神社参道
吉備津神社は随分と大きな神社です。
その参道は旧山陽道を南に曲がり社殿に続いています。その距離は約600mあります。写真の奥の方に吉備津神社が鎮座しています。

板倉宿
 


板倉宿は吉備津駅を越え、踏切を渡ったあと、小さな川を渡った付近からが宿場だったようです。五街道細見(岸井良衛 青蛙房)にも三間の土橋を渡たると板倉宿と書かれています。

現在、板倉宿は特に宿場の景観を保護している訳では無いようなのですが、街道筋に所々趣のある建物が残っています。
蔵やうだつが上がった建物も残り経済的に豊な宿場だったのかなと思わせてくれます。



備中高松城水攻め

少し寄り道します。
五街道細見の板倉宿のところの記述に 『羽柴の城跡ある。此の城より高松の城主清水宗治郎水攻めす。』と書かれています。
板倉宿から北西に3㎞ほど離れた所に備中高松城址があります。羽柴秀吉が天正10年(1582年)の中国攻めで、高松城の水攻めを行った城です。
高松城水攻め史跡公園が整備され、資料館も開設されているので行ってみました。

備中高松城城址
高松城は低湿地の中に築城されていました。低湿地であるという事は攻める側からすると攻めにくい城と言えます。

城址は田園の中にありました。あまりにも平坦な場所だったので、備中高松城址と知らなければ少し広い公園としか思えなかったです。


水攻めの土塁
高松城の南側を北西から南東に向かって、ほぼ現在の吉備線に沿った付近に全長4㎞もの土塁を築き、足守川の水で高松城周囲を水没させて孤立させる作戦でした。その土塁工事は着工からわずか12日で完成し、水没した高松城で戦意を失った備中高松城主・清水宗治郎軍と和睦交渉が行われてました。

中国大返し
そして、
天正10年6月2日(1582年6月21日)
備中高松に羽柴秀吉、京都亀岡に明智光秀が、そして京都本能寺に織田信長が居るなかで本能寺の変が起こりました。

6月3日(1582年6月22日) 明智光秀が毛利に送った密偵を秀吉軍が捕らえて、持っていた書状で本能寺の変を知った羽柴秀吉は、本能寺の変を敵方に知られない様に、すぐさま和睦を締結。
6月4日(1582年6月23日) 高松城主清水宗治の切腹を見分。
6月5日(6月24日) 秀吉軍は高松城を撤退。
6月6日(6月25日) のちに中国大返しと言われる行軍を開始。先陣隊が姫路城に到着。
6月6日(6月25日)~8日(6月27日) 姫路城に帰還
(この頃、姫路城は秀吉軍の中国攻略の為に、秀吉に献上され、中国攻めの本拠地になっていました。)
6月9日(6月28日) 姫路城を出立。
6月12日(7月1日) 富田(大阪府高槻市)に至る。宿営。
そして、
天正10年6月13日(1582年7月2日)
天下分け目の 山崎の戦い が摂津国と山城国の国境 山崎(京都府乙訓大山崎町)で開戦しました。

羽柴秀吉軍がどの様な道で進軍したのか詳細は分かりませんが、数万と言われる軍勢が旧山陽道を進軍したとすると、全軍が団子状態で進軍したとは考えられず、先陣からしんがりまでは数日のタイムラグが有ったと思われます。

私が歩いた旧山陽道は備前板倉宿から山崎宿付近まで220㎞くらいあります。
その道程を5~7日で移動したとすると1日44~31㎞行軍した事になります。
時代は異なりますが、大日本帝国陸軍の歩兵部隊が、戦闘がない状況での一日の移動距離の目安が24㎞だったそうなので、それと比べるとかなり早いスピードで移動したことになります。
しかし、中国大返しのとき、甲冑や鉄砲などの軍備は船で送ったのではないかと言う説を聞いた事があります。食料などの補給路は、備中高松城攻めで東側からの補給路は確保出来ていたはずなので問題は無かったと思われます。
そして、ちょうど夏至の頃なので日が最も長い時期でもあるので、もし鎧、兜、鉄砲などを持たずに行軍したとすると、昔の人は1日40㎞くらい移動するのが一般的だったので、勿論のんびりとした行軍の訳はないですが、けして極端に無理な行軍では無かったのではないかと思います。
ただその当時は大きな川は橋が掛けられていなかったはずなので、梅雨時で増水した川を数万人とも言われる兵士がどうやって川を渡ったのか?兵士は徒歩渡しで渡った?急遽川船を集めた?などの疑問が残ります。

寄り道が長くなりました、旧山陽道に戻ります。

注:行軍の日程は諸説ある部分もありますが、主にWikipediaの記述を参考にしています。

鯉喰神社

なんとも不思議な名前の神社です。板倉宿から西に2㎞ほど進んだ倉敷市矢部に鎮座しています。
桃太郎伝説には続きがあります。昔話の桃太郎には出てこない話なのですが、『吉備津彦軍と戦い、力尽きた温羅は鯉に化けて逃げようとしました。吉備津彦は鵜になり、この神社の場所で温羅を捕まえた。』と言うものです。
村人は温羅を祀る為に、この地に鯉喰神社を建立したとの事です。


備中国分寺
 

この地が遠くから見えたとき、奈良に迷い込んだというか、奈良時代に迷い込んだ様な錯覚を覚えました。
仏舎利塔がある国分寺跡は珍しく、仏舎利塔が在るだけで空気までも古代に戻ったような雰囲気を感じました。

Wikipediaの記述によると
他の国分寺と同じく聖武天皇の詔により建てられ天平13年(741年)の創建です。
一度は廃寺になっていた国分寺を天正年間(1573~1592年)に備中高松城主・清水宗治が再興しましたが衰退して、江戸時代中期の宝永年間(1704~1711年)に再び再建されたとのことです。

再興した備中高松城主・清水宗治とは上記の備中高松城水攻めのときに切腹した城主です。現在は真言宗の寺院で山号は日照山で、本尊は薬師如来です。





備中国分寺の周辺には国分尼寺跡や幾つもの古墳が存在しており、古代備中の中心地だった雰囲気が色濃く残っています。

造山古墳群
説明板の記載では、5世紀前半の前方後円墳で、全長約350m、後円部は径約224m、高さ27~32.5mで全国第4位の大きさとの事です。


千足古墳(造山第5号墳)
造山古墳のすぐ南側に在ります。写真を見ると円墳の様に見えますが、全長約81mの帆立貝式の前方後円墳で後円部径60m、前方部幅約25mの大きさです。




備中国分寺跡付近は ”総社市宿” という地名です。
江戸時代の正式な宿場では無く間宿だったのかと思いますが、国分寺が在り古来より人の往来が盛んで門前町としても栄えたのではないかと思います。

備中国分寺跡を過ぎると道は田園地帯の中に続いています。


川辺宿
 

川辺宿には高梁川を渡って入ります。勿論当時は舟渡しでした。

川辺宿は倉敷市真備町にあります。平成30年7月の西日本豪雨は記憶に新しいと思います。ここ川辺宿がある真備町も水害で大きな被害を受けた町です。
今日のゴールの備中呉妹駅付近でも小田川の堤防が決壊し、これから歩く旧山陽道の道筋一帯は浸水し多くの尊い命が失われました。

五街道細見(岸井良衛 青蛙房)には 『河辺川 舟渡り』 『川幅大水の時200間となる。』 と書かれています。現代でも大きな洪水被害が起きる地域です。ましてや治水が不完全な江戸時代であれば、なおの事大きな水害に見舞われた事は想像に難くないですし、現在、高梨川に架かる新河辺川橋の長さは500m弱ですので五街道細見の記述は誇張した記述ではないと思います。

更に 『此の川上松山までは川船登る。』 とも書かれています。地図を確認すると高梁市付近に備中松山城があるので、その付近まで水運で物資を運んでいたのではないかと思います。現在の高梁川の流路で30㎞弱上流の場所です。橋の上から当時の川湊を復元したと思われる石組が見えました。


川辺本陣跡
説明板によると、本陣はこの付近にあったのですが、明治26年の大洪水で流出し資料も残っていないと書かれていました。
治水がしっかりしていない時代では、上記の様に『川幅大水の時200間となる。』となれば宿場全体が浸水あるいは流失してもおかしくはないと思います。

という事で、現在の河辺宿周辺は比較的大きな町ですが、宿場時代の遺構は見かけませんでした。

真備町

吉備真備
川辺宿から4㎞ほど歩くと真備町になります。真備という町名から分かる様に吉備真備が生れたとされている地です。吉備真備は名前は聞いた事がありますが、奈良時代の学者で官僚だったくらいしか知りませんでした。
まきび公園に掲げられていた説明版には、この地の豪族の子で若くして霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、阿部仲麻呂らとともに長安(現在の西安)に赴き、19年間、儒学、歴史、政治、経済、法律、数学、天文学などあらゆる分野を学び多くの貴重な書物を携えて帰国したとの事です。驚くのは、その後再度遣唐副使として唐に渡り、鑑真和上らとともに帰国したとの事です。
その当時、唐に赴くのは命懸けだった事を思えば、2度も唐に行って帰って来るだけでも驚きます。

まきび公園
昭和61年 中国西安の環状公園内に吉備真備の記念碑とその周囲に日本庭園が完成したのを記念して、真備町に中国風のまきび公園を建設したとの事です。



公園の敷地内に 『吉備公廟(吉備様)』と書かれた案内板が在ったので行ってみました。石段を登ると社殿があり、その裏側に『吉備さま』と崇められる宝篋印塔があるそうです。真備の墓とされる場所は複数あるので、ここがどの様な由来を持った所なのかは分かりかねますが、吉備真備は菅原道真と並び学問の神様として崇められています。


まきび公園から山沿いの道を歩いて西に進みます。
実はこの付近のルートはあまり自信がありません。普通に考えるとそのまま山沿いを進んで行くように思えるのですが、京都・大阪・山陽道(平凡社)の地図では尾崎付近で現在の486号線を歩くルートになっています。

一応、京都・大阪・山陽道(平凡社)の地図に従って尾崎の熊野神社の所から486号線を歩いて車を止めた備中呉妹駅まで歩いて本日の行動は終了です。

エピローグ
 

下調べをしているとき、旧山陽道の道沿いに備中国分寺跡がある事は分かっていましたが、多くの場合、国分寺跡は当時を彷彿とさせる伽藍は無く、緑が多い更地の公園と言う雰囲気の事が多いです。
今回、期待もしていないなかで、突然遠くに仏舎利塔が見えた時は、一瞬にして奈良時代に迷い込んだのかと錯覚しました。


END 

2022年06月15日 作成

Column


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