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電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅
備中呉妹から備後赤坂へ
旧山陽道の宝石箱 矢掛宿
プロローグ
このページは旧山陽道(西国街道)を 備中呉妹(くれせ)から備後赤坂まで 2日かけて歩いたページです。この間に備中国と備後国の国境を越えます。この国境は現在でも岡山県と広島県の県境です。この道は本陣と脇本陣の両方が残る矢掛宿を通ります。矢掛宿は伝統的建造物群保存地区に指定されています。これまで他の地区の伝統的建造物群保存地区を訪れた事はありますが、それぞれに個性が異なります。
矢掛宿は水運で栄えた商業の町と宿場で賑わった町の両方の側面を感じる事ができます。また町全体で保存と観光地化を推進している様で、電線の埋設を行い、街並み全体が江戸時代を感じる事が出来る様に整備されている様に感じます。
そして、更に神辺宿では、延享3年(1746年)に建てられた神辺本陣がほぼそのままの状態で保存されています。これまで幾つか本陣・脇本陣の建物を見ましたが、これほど大きくまるで寺院の様な本陣を見たのは初めてです。
都道 府県 |
区間 | 通る宿場等 | 歩いた日 | GPS 移動距離 |
岡山 | 備中呉妹駅-高屋駅 | 吉備大臣宮、矢掛宿、七日市宿、高屋宿 | 2021/11/23 | 24.9㎞ |
岡山/広島 | 高屋駅-備後赤坂駅 | 備中・備後国境、神辺宿、横尾の渡り | 2021/11/24 | 19.6㎞ |
↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます | GPSログをGoogleEarthでツアーする方法 | |
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)
備中呉妹(くれせ)
高瀬川の支流である小田川上空がまだ朝焼けに染まっている、7時少し前に井原線 備中呉妹駅からスタートです。旧山陽道は、小田川が高瀬川に合流する川辺宿から七日市宿(井原)までほぼ小田川に沿って続いています。
古代四文明を引き合いにまでもないですが、川の水・土壌により農業が発達し、人が集まり、川により物資・人が移動して四大文明が形成したと言われる様に、この地方も小田川に沿って人が集まり集落が形成され、水運により物資・人が行きかっていたのだと思えます。
吉備大臣宮
地理院地図にも記載がありますが、妹山と猿掛山に挟まれた幅数100mの平地部分に吉備大臣宮跡がありました。前ページの 備前一宮から備中呉妹へ にも書きましたが、この地は奈良時代遣唐使として中国に渡り貴重な文物を持ち帰り、右大臣に上り詰めた吉備真備を祀った神社です。
下道氏墓
ここも地理院地図に記載がある場所です。
写真の場所は墓所の入口らしく、山を登った所に墓所があるようです。
和銅元年(708年)の銘文がある銅製骨蔵器などが発見されたそうで、銘文から被葬者は吉備真備の祖母と判明したとの事です。
詳しい事は分かりませんでしたが、下道氏は備中を本拠地とした氏族で、古事記には若日子建吉備津日子命の後裔の氏族として名前があるそうです。吉備真備はその氏族の一人という事の様です。
旧山陽道は小田川の段丘涯というか自然堤防の上に続いています。小さな石仏がみられ、古くからの道だと思わせてくれます。
矢掛宿(やかげ) 宝石箱のような宿場
矢掛宿は小田川河畔の自然堤防の上に発達した宿場です。2020年に伝統的建造物群保存地区に指定されました。街道歩きが好きな者にとって、ここは、旧山陽道の宝石箱の様な宿場です。
宿場内に現在でも本陣と脇本陣の両方の建物が残る日本の宿場でも稀な宿場です。
矢掛宿本陣 石井家住宅
説明版によると、旧山陽道に面して間口20軒(36m) 敷地面積約1000坪 東から母屋、座敷、御成門で構成されている。昭和44年に重要文化財に指定されました。
石井家は代々庄屋を務め、元禄頃から酒造業も営んでいたとの事です。
五街道細見の矢掛のところには、本陣 石井源次郎 と書かれています。
江戸時代は家屋に掛かる税金は間口の広さで決まると聞いた事があります。
間口の広さで決まるので、街道沿いの家は間口が狭く、奥に長い、ウナギの寝床の様な構造の家が多くなった訳ですが、間口20軒の建物の税金が如何ほどだったのか興味があります。
矢掛宿脇本陣 高草家住宅
こちらは間口17間(33m) 敷地面積600坪で本陣に次ぐ規模の建築物です。
こちらの建物も昭和44年に重要文化財に指定されています。
問屋(矢掛ビジターセンターといや)
問屋は宿場から宿場へ貨客を運ぶ馬や人足などの輸送の手配を行っていた場所です。江戸時代の屋号は因幡屋という問屋だったとの事です。
本陣や脇本陣に比べれば間口は狭いですが、奥行きは深く、奥には庭がしつらえてありました。
それにしても、太い柱と梁で、現代こんなに太い柱と梁で家を建てたらいったいどれだけの費用が掛かるのだろうかと思いますし、集成材では無く無垢のこんなに太い柱と梁が現代は入手できるのか?とも思います。
矢掛宿の風景
本陣や問屋のみならず民家も江戸時代さながらの風情です。
嬉しい事に矢掛宿の中に、少し小さいですが道の駅 山陽道やかげ宿(大型10台 小型27台)があります。
七日市宿への道
矢掛宿を過ぎると道は田園風景の中を進みます。車も少なくゆったりとした気持ちで歩きました。
1592年豊臣秀吉設定の一里塚跡
途中、早雲の里荏原駅を越えて馬越橋付近に一里塚跡が在ったのですが、石柱に 1592年豊臣秀吉設定と書かれていました。
1592年は豊臣秀吉の朝鮮半島侵略が始まった年なので、それと関係があるのかどうかは分かりませんでした。
七日市宿
七日市宿は現在の井原線 井原駅付近の宿場です。小田川を渡った西岸付近が中心地だったようです。その七日市宿へは枡形と思われるカーブを通り、小田川に架かる日芳橋を渡って入ります。
七日市宿 本陣跡
宿場の面影はほとんどありませんでしたが、本陣跡の大きな石碑が建っていました。この石碑が無かったら、宿場が何処に在ったのか分からなかったと思います。
井原デニム
七日市宿がある井原は江戸時代が始まった1600年代から初頭から、綿花・藍の栽培が行われていて、藍染織物が盛んでした。その伝統と技術を活かしてデニム地の生産が盛んな土地です。『日本のデニムの聖地』と言われているそうです。
井原駅の駅舎の中に 井原デニムストアがありました。駅の中にデニム製品を扱うお店が在るのは初めてみました。新品のときの深い藍色も勿論良いのですが、徐々に色が落ちて着古した感じが出たジーンズも風合いが良く、化学染料で染められた衣類とは一味違います。
途中、一里塚跡や現在も住んでいると思われる古民家を見ながら歩きました。
今日は井原線 高屋駅がゴールです。
高屋宿 子守歌の里
日付は変わり 高屋駅からスタートです。中国地方の子守歌発祥の地
高屋宿の最寄駅は井原線高屋です。駅の名前が 『子守唄の里 高屋駅』 と書かれています。
駅前に説明板があり、由来が書かれていました。昔、一度は聞いた事がある 『中国地方の子守唄』の発祥の地との事です。
高屋宿は特に保存活動をしているという事ではない様ですが、古民家が残り、家並みが趣があります。旧街道沿いの街は明治維新後、急激に増える人口にインフラ整備が間に合わなかった為か、それまでの街に付け焼き刃的に電気・水道を整備したのだと思いますが、ゴチャゴチャとした街並みの印象は免れません、そのゴチャゴチャ感が,
幾何学的に整然と整備された街並みと異なり人の生活を感じさせてくれます。
備中国・備後国 国境 岡山・広島県境
下の地図をご覧ください。旧山陽道が通る、現在の岡山県と広島県の県境の地図です。現在も県境ですが、かつても備中国・備後国の国境でした。普通なら川があったり、峠が在ったり地形的な理由で分ける事が多いと思いますが、ここは特に地形的な理由で分けた様ではない感じがします。
カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)
前ページの 『備前一宮から備中呉妹へ 古代日本を感じる道』 で紹介した 備前/備中の国境を示す ”従是東備前國 ” の石柱も地形との関連性が薄い場所に唐突に建っていました。
そこで、インターネットで調べたら、『古代の直線国境について 服部昌之』 という文書がヒットしました。要約すると、”直線的な国境は条里制による地割の影響を受けていて、ここの岡山と広島の国境付近は異なった地割の境界で、国境の線は備中側の地割の線と一致している。”と書かれていました。
条里制は古代から中世後期かけて行われていた土地区画管理制度で、分かり易い例では奈良盆地の平城京の様な直線的で1町(約109m)間隔で方形状の区画整理を特徴としているとの事です。
これが事実とすると、7,8世紀頃に実施された地割が現代まで続いて岡山県と広島県の県境になっているという事になります。
前説が長くなりましたが、
現在の風景はどうなっているのかというと、新しい感じの県境の石柱が建っています。
この地から、岡山と広島の道路元標までの距離と七日市宿と神辺宿への距離が書かれていました。
ここからが本項の本題です。
旧山陽道を歩く為に色々なホームページを参考にしましたが、その時、もっと古い境界石の写真を見た記憶がありました。(今、そのページを探しても見つかりませんが)
記憶違いかな? 少し離れた別の所に在るのかな? 国境はその時代の為政者によっても変わるのでここではないのかな? などと思いながら周辺をキョロキョロしていました。その時、写真の渡辺ストアのご主人がお店の前でお仕事をされていました。
思い切って、「このあたりに古い国境の境界石はありませんか?」と尋ねたら、なんと!なんと! いきなり、足元の鉄製の蓋を開けて、『これが、昔の境界石』ですと言って見せて頂いた写真がこれです。
おそらく、周囲を宅地化した時か道路を舗装したときに道路面が高くなったので、このような形で残したのでしょう。古いものだからと言って撤去しないで、その場所にそのまま残したのだと思います。その判断に敬意を表します。もしかしたら奈良時代から現代まで続く境界だったのかも知れないのですから。
ご主人と別れるとき、気になった事がありましたので質問しました。渡辺ストアの店舗は岡山県と広島県に跨って立地しています。
私:「税金はどの様にして治めているのですか?」
ご主人:「それぞれに収めています。」
私:「納税に2倍の労力がかかりますね。面倒くさいし、大変ですね!」
ご主人:「あっはははは。」
注:未確認ですが、古い境界石は、もしかしたら渡辺ストアの私有地に在るのかもしれません。
神辺宿への道
ここから備後国 広島県に入りました。旧山陽道は平野部の北側の山麓に沿って続いています。
街道を歩いていると、神社はよく見かけますが、この道は随分と神社が鎮座しています。高屋宿から国分寺付近の平野部に出るまでの4.5㎞ほどの区間に、地理院地図に記載されている神社記号が7つあります。それも全て山麓に鎮座しています。
上御領八幡神社
動機が不純な気がしますが、コンクリート製のバルコニーは見えたのですが、社殿が見えなかったので、どういう構造の神社なのだろうと思って参拝してみました。
社殿はバルコニーの上に在りました。地形的には山の谷筋の所に建っています。大雨の時は雨水が流れ込むのではないかな?と心配になります。
ここの八幡宮だけではないのですが、この地域では古くて大きな常夜燈を幾つも見かけました。
日吉神社
私は、参道の石段を見て、参拝は諦めてしまいました。
”シングルおやじの気ままな一人旅”のかっちゃん氏は参拝したのですが、170段あってかなりきつかったと書かれています。
ここまで歩いてくる途中、石垣の中に随分と風化した石仏がありました。
元々ここに在った石仏を石垣を作るときに組み込んだのだと思います。
石仏が敷地を守ってくれている様な感じがします。
それにしても、何故こんなに神社が多いのだろう?と疑問が残ります。
備後国分寺跡
備後国分寺跡川辺宿から矢掛宿、七日市宿、高屋宿 まで旧山陽道は長い谷筋の中の谷底平野のなかに続いていました。長くて直線的な谷底平野なので、もしかしたら断層が走っているのかな?と思って調べましたが分かりませんでした。
で、その谷底平野が終わり、盆地が始まる付近に備後国分寺跡が在りました。
この国分寺跡には江戸時代に福山城主水野勝種により再建された伽藍があるとの事ですが参拝はしませんでした。
古代と近世の交差点
南大門跡の所に説明版がありました。この場所は今 私が歩いて来た近世山陽道(西国街道)と古代山陽道(石州銀山道)が交わる場所との事です。
横切っている道が古代山陽道、右側から右下に続いている道が近世山陽道。
松並木の先が備後国分寺です。
神辺宿
神辺宿(かんなべじゅく)は盆地の山側の高屋川に沿って発達した宿場です。神辺宿へは、高屋川の堤防を歩いて入ります。これまで道の両脇は山が続いていたので、解放的な感じがする道です。
神辺宿は古民家や史跡が多く残り雰囲気が良い宿場です。
廉塾 および 菅茶山旧宅
説明板によると、廉塾(れんじゅく)は天明元年(1781年)頃 菅茶山(かんちゃざん)が開いた塾で、京都で朱子学を学び、ここ神辺に塾を開き、全国から学生が集まったそうです。
酒蔵 天寶一
創業 明治43年(1910年)です。2階と言うか屋根裏部屋と言うかが低く伝統的な造りです。街道を歩いていると、明治期の洋風建築の郡役所が残っている事があります。西洋化を急いだ明治政府ですが、明治が終わる頃になっても一般にはまだ西洋化の波は波及していなかったのかなと思います。
ところで酒樽に 『広島清酒』 と書かれています。広島県に入ったんだと実感しました。
余談ですが、先日法事があって親戚と会食したのですが、偶然にもメニューに ”天寶一” がありました。勿論注文して飲んでみました。
冷で飲んだのですが、さっぱりとした飲み口で飲み易いお酒でした。いくらでも飲める感じでしたが、法事でベロベロになるまで飲むわけにもいかないのでほろ酔い程度のところでやめましたが、今度ゆっくりと静かに飲んでみたいものです。
神辺宿の家並み
神辺驛跡
建っていた石柱に、宿場驛の跡と書かれており、太閤秀吉が朝鮮役の帰途に立ち寄った館跡と書かれていました。
文禄・慶長の役は天正20年(1592年)から慶長3年(1598年)の太閤秀吉の死去をもって日本軍が撤退して終結した2度の朝鮮半島出兵です。
神辺本陣
これまでに見た本陣・脇本陣のなかで最も大きく、最も良く保存された本陣ではないかと思います。通りかかったとき、本陣と思わず寺院かと思ったほどです。
神辺宿には西本陣と東本陣の2つが在りました。東本陣は取り壊され、こちらは西本陣です。
随分と大きく、重厚な造りです。建物は延享3年(1746年)に建てられた当時の姿そのままとの事です。
パノラマで撮影した本陣全体の写真です。道路に面している敷地の長さは60mくらいあります。左側の門は御成門で殿様など身分の高い方が出入りする為の門です。
横尾の渡り
神辺宿を過ぎて南西に進んで行くと 大渡橋 を渡ります。現在は芦田川と言われている川です。参考にしている平凡社発行の ”京都・大阪 山陽道” にはこの川の部分に
『此川大泊りと云 横尾の渡り共いへとも』 と書かれています。
また、地理院地図に今も中津原、郷分という地名が書かれていますが、 ”五街道細見”(岸井良衛 青蛙房)には 中津原村から郷分村に行くところは川を渡る事になっていて、 『水出には船渡り、川広さ五十間ほど この川徒歩渡り、横尾の渡りとも云へり。』 と書かれています。
カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)
地図を見て頂くと分かるかと思いますが、付近の北側は盆地で低湿地になっており、複数の河川が中津原、横尾付近で芦田川に合流しています。みるからに水害に悩ませられた土地という感じがします。
現在は芦田川に大渡橋が架かり難なく渡れますが、かつては ”横尾の渡り” と言われ、普段は徒歩渡り(かちわたり)で水が出たときは船渡りだった場所です。
備後赤坂への道
横尾の渡りを過ぎると、旧山陽道は芦田川の西側の山の麓に沿って続いています。有名な史跡は在りませんが、今でも大切にされていると思える注連縄が巻かれた石柱や他の街道ではあまり見ない形の常夜燈などがありました。写真右:一里塚跡 塚は在りませんが榎が植えられています。
今日は山陽本線備後赤坂駅まで歩いて行動終了です。
エピローグ
矢掛宿、七日市宿(井原)、神辺宿を通りました。これらの宿場は瀬戸内海から少し山間部に入った所に在る宿場です。ですがどの宿場も大きな町で、かつては小田川、高屋川の水運で活況を呈していたのだろうと思う町でした。
現代では、水運と聞いても殆どイメージも沸かないですし、水運と言えば観光客相手の川下りくらいしか思い浮かびません。
川面を多くの川船が行きかい、川湊では多くの人達が荷物を積み下ろし、そこから荷車や馬に積まれて更に奥地に物資が運ばれて行ったと想像すると、現代以上に活気がある世の中を想像する事が出来ます。
END
2022年06月23日 作成
Column
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