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電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅
 本郷宿から安芸中野へ
  最高地点 松子山峠・大山峠越え

プロローグ
 

このページは旧山陽道(西国街道)を 本郷宿から酒都西条宿を通り安芸中野まで 2日かけて歩いたページです。
前ページの尾道を通り瀬戸内海を見ながら歩く道から一転して、山間部を通る道です。旧山陽道の魅力のひとつだと思いますが、大都市を通るかと思えば、瀬戸内海の穏やかな海を望み、かと思うと山間部の田舎道を歩き、道筋が変化に富んでいます。 この区間は山間部に古墳が点在していたかと思うと、西条町では古風な酒蔵が多く残り,街と街の間は懐かしいと思える田舎道を歩きます。そして旧山陽道で最も標高が高い松子山峠(360m)・大山峠(335m)を越える道です。 ですが、下の重要事項に記載しましたが、松子山峠・大山峠は歩く事が困難な区間です。迂回して頂くか、最善の注意をして歩いて頂きますようお願いします。

重要事項

1:松子山峠は迂回しました

国道2号線と国道375号線(東広島・呉自動車道)が交差する、広島市西条町上三栄の松子山大池や広島中央エコパークがある松子山峠付近の山中のルートは、 京都・大阪 山陽道(平凡社)の地図(かなり粗い地図)は破線で描かれています。また地理院地図には1m未満の徒歩道が複数描かれていますが入り組んでおり、途中で途切れている様な道もあります。旧山陽道のルートは不明瞭ですし、山中なので私は西側に出来ている新しい道を通りました。

2:大山峠のルートは土砂災害で道が崩壊・消滅しています
私が歩いた2021年11月の時点では、広島市八本松西から広島市安芸区上瀬野町に抜ける旧山陽道の難所のひとつ大山峠のルートは土砂災害により道が分断され崩壊・消滅し多くの流木で埋め尽くされていました。歩くのが危険と思える場所もありました。北側に国道2号線が通っていますのでそちらを迂回する事を強くお勧めします。 3:本郷駅から西条駅の間27.7㎞の区間は山陽本線から離れたルートになります。 1日で歩き切るか、途中で宿泊する必要があります。

都道 府県 区間  通る宿場等 歩いた日 GPS 移動距離
広島 本郷駅-西条駅 本郷宿、古墳群、田万里宿(間宿)、松子山峠、西条四日市宿 2021/11/28 27.7㎞
広島 西条駅-安芸中野駅 西条四日市宿、塚の峠、大山峠、吉田松陰詩詠の地 2021/11/29 22.0㎞
         


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本郷宿
 

本郷宿は沼田川のほとりの山間にあった宿場です。現在は山陽本線の本郷駅が最寄りの駅です。山陽本線は沼田川に沿って敷設されているので本郷から北西に延びていますが、旧山陽道は支流の三次川に沿って西に向かいますので、ここから西城までの間は鉄道路線から離れます。

本郷の家並み
昭和感が漂う家並みの中に 本郷醤油製造(株)の建物が在ったり、寂静寺の伽藍を見たりする事が出来ましたが、意外とこじんまりとした街でアッと云う間に通り過ぎてしまいました。




沼田川

本郷の旧宿場街を過ぎると直ぐに沼田川を渡ります。 京都・大阪 山陽道(平凡社)の本郷のところの記述には、『此川大渡と云う 川広さ七十間程 砂川 陸渡り 冬は壱つ橋有り船も有 満水には渡し留まる大川也』 と書かれています。砂川は川底に砂が多い川という事のようですので、流れて来た川がこの辺りでは水流は穏やかになるけれど、大水の時は渡る事が出来ないくらいの水量と川幅になったのだと思います。

本郷宿から竹原市西野町へ

沼田川を渡ると直ぐにコカ・コーラや東洋製缶の大きな工場があります。工場を越えると沼田川の支流 三次川の堤防沿いを歩きます。

水害復旧・河川改修竣工記念碑

旧街道を歩いて、風景や史跡を紹介しているホームページで河川改修記念碑?それも比較的新しい感じの記念碑?と思われる方もいらしゃるかと思います。
普段なら通り過ぎる河川改修の記念碑なのですが、『池田勇人書』 と書いてあったので足を止めて撮影しました。 多くの読者の皆さんもそうかと思いますが、この変化が激しい時代に生きた者としては、60年くらい前の人の名前にも既に歴史を感じます。 ご存じの方も多いと思いますが、『もはや戦後ではない』と書かれた1956年度の経済白書から4年後の1960年に安保闘争の責任をとって退陣した岸信介に代わり内閣総理大臣に就任して ”所得倍増計画” を目玉政策とした総理大臣です。 インターネットで調べたら池田勇人はこの記念碑が在る場所から直線距離で10数キロ離れた現・竹原市吉名町の出身で、同じ竹原市出身でニッカウヰスキー創業者のマッサンこと竹鶴政孝は同じ中学校の1年先輩だそうです。因みにこの記念碑は地理院地図に記念碑のマークが描かれています。 この改修記念碑を過ぎると直ぐに三次川は梨和川と尾原川が合流する地点に来ます。左側の尾原川方向に進みます。この付近から道は麓に続く雰囲気の良い道になります。



御年代(みとしろ)古墳・貞丸(さだまる)古墳・二本松古墳

歩いて行くと、1㎞にも満たない区間に3つ古墳への道標がありました。 御年代古墳は地理院地図に掲載されています。御年代古墳 貞丸古墳は訪れなかったのですが、インターネットで調べたら、麓の斜面に築造された古墳で損傷が大きく形式は定かではないけど円墳ではないかと推定されているそうですが、横穴式の石室が残されているとの事です。

御年代古墳 貞丸古墳 への道標


二本松古墳の石棺
さすがに3つも古墳があると興味が沸いてきます。二本松古墳は訪れてみました。南方神社の境内に石棺がありましたが、墳丘は見当たりませんでした。

説明版によると、かつてこの石棺は神社の踏石や手洗い鉢に使用されていたのを昭和58年に境内に復元したものだという事です。 蓋石には2個づつ縄掛突起があり、石棺本体は側石と底石 計5枚の板石を組み合わせて作られています。 そして、驚くのは石材の産地で、兵庫県高砂市産の龍山石との事です。この付近で龍山石の石棺は6個発見されているそうです。
龍山石は少し前に歩いた旧山陽道の加古川付近で見た古代から続く石切り場です。この地から直線距離で175㎞程ありますし、私が歩いた道のりでは225㎞離れた所です。その石材を陸路だけで運んだとも思えないので、古代の人達は海路を利用して交易していたのかなと思います。 二本松古墳を過ぎると、いよいよ人里離れた山間の道になってきます。 途中に、猪の罠が仕掛けられていたり、道を一面笹が覆っている様な道もありました。


石畳跡?




竹原市 西野町・田万里町

大畠地区付近まで来ると民家が見える様になります。

西廣島 東大阪道 道標
側面に 『明治三十二年四月』 と書かれています。 明治32年(1899年)この道標が建てられたとすると、山陽本線(旧山陽鉄道)の三原駅-広島駅間の開業が明治27年(1894年)ですので鉄道の開業から5年後に建てられた事になります。その当時は鉄道が開業してもまだ旧山陽道は往来する人達が多かったのかなと想像します。


田万里宿(間宿)

旧山陽道は田万里川に沿って続いています。地名も田万里という地名です。 ここは間宿で江戸時代には本陣、問屋、旅籠など35戸あまりの集落が形成されていたそうです。 その集落の中は風格のある古民家が数軒ありました。当時の賑わいを感じる事ができます。


一枚板の門!

その一画に古い門がありました。この門の扉を良く見ると一本の木から切り出したと思われる扉でした。こんな大きな一枚板を切り出す事が出来る樹木の大きさが想像できません。


なお、この付近の旧山陽道は田万里往還とも呼ばれていた様で、田万里町の町境付近に 『田万里往還』の標柱が建っていました。


それにしても、日本昔話に出てくるようなゆったりとした時間の風景が続く道です。


田万里町・西条町 町境

緩やかな峠になっている場所が田万里町と西条町の町境です。その峠付近に茗荷清水跡という石柱が建っていました。  ”音に聞こえし茗荷の清水 三原御前 酒におとるまい” と書かれていました。 往来が盛んだったときはコンコンと湧き出す甘露のような清水だったと思いますが、今は写真の様な状態で清水は枯れた状態でした。


西条町

峠を越えて西条町に入りました。

松子山峠は迂回しました
冒頭にも書きましたが、国道2号線が国道375号線(東広島・呉自動車道)と交差する、松子山大池や広島中央エコパークが在る、広島市西条町上三栄付近から西条宿に行く本来のルートは溜池が多くある山の中を通って、松子山大池付近で新しい道に接続しているのですが、旧山陽道のルートは地理院地図に描かれている道は不明瞭ですし、京都・大阪 山陽道(平凡社)の地図にもこの区間のルートは破線で書かれています。更に衛星写真を見ると山肌が崩落している箇所が多くありました。かなり不安なルートなので山の中を通らずに新しい道を通りました。


写真左:本来のルートですと、ここから入山します。
写真中:山肌が崩落している所が見えました。
写真右:本来のルートですと、ここで新道と出会うのだと思います。


西条四日市宿
 

新しい道を下って来ると西条宿の町が見えてきます。予想外に大きな町で少し驚きました。


西条四日市宿

西条は酒都とも言われて、灘・伏見と並び称される銘醸地です。現在でも多くの酒蔵が営業しています。街道を歩いていると多くの場合酒蔵の建物は大きく趣のある建物が多いのですが、西条宿は宿場中が酒蔵と言ったら大袈裟ですが立派で趣のある建物が並んでいます。




西条四日市本陣

説明板によると、西条四日市は重要な宿場だったので、本陣は藩の直営でつくられ、御茶屋と呼ばれていました。明治になると ”賀茂郡役所” として使われていましたが、建物は取り壊され、現在の門は復元されたものだとの事です。 説明版に 賀茂鶴酒造(株)と書かれていたので賀茂鶴酒造(株)の所有になっているのかもしれません。




今日は西日が差し込む西条駅まで歩いて行動は終わりです。



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西条四日市宿から

日にちは変わり西条駅からスタートです。 西条駅の東側は蔵元などが在り古の町という雰囲気ですが、西側は昭和感溢れる商店街が続いています。

街並みが途切れ田園風景が広がる道を進むと、塚の峠(たお)と言われている小高い山に行き当たります。 その登り道から西条市街を望む風景が幻想的で美しかったです。




峠を越えると西条町から広島市八本松東に入ります。 峠に建っている石柱には 旧山陽道飢坂(かつえざか) と書かれています。八本松東側の写真の坂は飢坂と呼ばれています。

飢坂
(かつえざか)
説明版には、江戸時代 飢饉の時に食べ物を求めて多くのこの坂を歩いてきたが、峠に辿り着くや力尽きて倒れ死ぬ人も出た為に飢坂と呼ぶようになったと書かれていました。


大山峠越え 道は崩壊・消滅しています

本ページの冒頭にも記載していますが、この区間は私が旧山陽道を歩いた2021年11月時点では土砂災害により旧街道の道筋が分断 崩壊・消滅している所があります。将来、復旧するかも知れませんが現時点では歩くのが危険と思える場所もありましたので国道2号線を迂回する事を強くお勧めします。

私は最初、道がこんな状態とは知らずに足を踏み入れました。 登りの道(八本松側)は所々表土がえぐられていたり、倒木があったりしましたが歩くのがそれ程困難という訳では無かったので登り続け大山峠に至りました。 問題は峠を越えてからの下りでした。大きく崩落している所があり、倒木が折り重なり道筋が分からない所が複数ありました。 道筋と思われる所の木にピンクテープのマーカーがあった事とスマートフォンの地図アプリにルートを登録しておいたのでかろうじて道筋から大きく離れる事はなくなんとか歩く事ができましたが、歩けそうなルートを探したり、土が剥き出しの斜面を登ったり、折り重なる倒木を回避したり、乗り越えるのに相当な体力と気力が必要でした。




大山峠


大山清水

大山峠から10m程西に下ったところです。 かつては名高い清水でしたが水が湧き出る事はおろか清水なのか雨水で山肌が削られたのかすら分からない状態でした。

道筋の斜面が崩落していました。


写真の木にピンクのテープが見えます。道筋だった所ですが道の痕跡は無く、倒木が折り重なっていました。 遠くにアスファルトの道が見えたときは、正直ホットして脱力感を感じました。



大山峠に掲示されていた説明版です。要約して私の駄文で掲載するより、良く書かれている説明版ですのでそのまま掲載します。

賀茂郡安芸郡境
賀茂郡安芸郡境はその名の通り、賀茂郡と安芸郡の郡境で、現在の東広島市と広島市の境界です。明治22年(1889年)に賀茂郡が制定されました。賀茂郡の賀茂はかつてこの地域が京都賀茂神社の荘園だった事が由来との事です。

代官おろし跡
大山峠が急登だった為、身分の高い代官もここで駕籠を降りて歩いて大山峠に向かった場所との事です。

山陽本線・国道2号線との出会い

大山峠から谷沿いに下って来ると、ここで山陽本線・国道2号線に出会います。 大山峠越えはここで終わりです。

安芸中野への道

吉田松陰詩詠の地
東北地方を歩くと、源義経主従の逸話と松尾芭蕉おくのほそ道に関する史跡や説明板が多いのですが、旧山陽道を歩くと吉田松陰の逸話の説明版を多く見かけます。 ここは、現在の広島市安芸区上瀬野町を流れる瀬野川のほとりで、江戸へ護送されるときに吉田松陰が詠んだ漢詩が掲載されていました。



*説明版に書かれた漢詩を転載させて頂いています。

説明版には、吉田松陰はこの道を4回通っていて、一回目は嘉永4年(1851年)参勤交代で藩士として通りましたが、あとの3回は罪人として通りました。 上の漢詩は最後の安政6年(1859年)5月29日、安政の大獄で萩の野山獄舎から江戸の伝馬町獄舎へ護送されるときに詠んだものとのことです。 その5ヶ月後の10月27日 享年30歳で処刑されました。 この漢詩は、まさに死出の旅路の途中で詠まれたものという事です。

大山刀鍛冶場跡・墓所

説明版によると、越えてきた大山では鉄が採れ、燃料の松・雑木も豊富にある事から、建武(1334~1335年)の頃、筑前の左守安が大山峠で作刀を始め、2代目重守のときに写真の場所にに移転し、以来約260年間この地で作刀を続けたとのことです。


*説明版の写真を転載させて頂いています。

広島・呉方面道標
右 海田市 廣島 左 熊野跡 ?呉 と書かれています。地図を確認すると、確かに海田町・広島方面と現在の熊野町・呉市に続いています。

街道沿いの風景




今日は安芸中野駅まで歩きました。 大山峠の荒れた道を歩いたので身体以上に精神的に疲れました。

エピローグ
 

旧山陽道で一番標高が高い松子山峠を通らなかったのは少し残念でしたが、賢明な判断だったと思います。水害で荒れ果てた大山峠を越えたのはかなり危険な行為だったと認識しています。 街道歩きは、お気軽な遊びの様ですが自然を相手にしたアウトドアの遊びの側面も大きい遊びです。特に今は殆ど使われていない山間の道を歩くときは人家から遠く離れる場合もありますし、携帯電話が通じない区間もあります、他に通行する人もほぼ居ないので、なにか事故があると多くの人達に迷惑をかける事になります。 自己責任で歩くから問題は無いと思っても、事故があれば結局地元の方達に大きな迷惑をかけてしまいます。 今回の歩きを教訓にして、危険を感じたら引き返して安全な道を歩く事を誓います。


END

2022年07月28日 作成

Column


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