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電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅
  大河内駅から富海宿へ  桜の道を歩く

プロローグ

このページは旧山陽道を山口県大河内駅から豊海宿まで歩いたページです。
山口県に入って初めて瀬戸内海の沿岸部を歩きます。

大河内駅からは山間部の久保市宿、花岡宿を歩き、徳山手前からは徳山宿、富田宿、福川宿、と沿岸部に続く道を歩いて豊海宿まで行って瀬戸内海に至ります。
途中、遠石八幡宮、景向岩、花岡八幡宮、川崎観音堂などを通ります。季節柄、街道沿いは桜が満開で華やかな道を浮き浮きしながら春の訪れを感じながら歩きました。
徳山宿(徳山駅周辺)、豊田宿(新南陽駅付近)、福川宿(福川駅付近) 周辺の海岸線は埋め立てられて工業地帯に変貌していますが、旧山陽道沿いから工場地帯が見える事は少なく旧街道らしい静かな道も残っていました。

都道
府県
区間 通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
山口 大河内駅-富海駅 久保市宿、花岡宿、花岡八幡宮、遠石八幡宮、徳山宿、川崎観音堂、富田宿、山崎八幡宮、福川宿、椿峠、富海宿 2022/04/01 33.5㎞

↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)



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大河内駅

車を富海(とのみ)海水浴場の駐車場に置いて、電車で大河内駅まで移動し6時半頃スタートです。
春の朝陽が桜に射し込み輝きを増していました。

久保市宿

久保市宿は切戸川沿いの周防久保駅が近くに在る小さな集落ですが、現在は周辺に大きな新興住宅地が開発されています。新興住宅地は山の方に開発されているので、元々の久保市宿が在った付近は昔の風情がそこはかとなく残っています。

写真左:周北八十八ヶ所 第四十五番霊場






花岡宿

太陽コレクション  京都・大阪・山陽道 (平凡社)には 江戸時代に書かれた中国行程記の記述として花岡宿の記述には、
『花岡といへるは昔 当所八幡山大きなる長き木有 花咲く比(ころ) 郷中より花岡と言し由 夫(それ)より しゆく(宿)の名とせし由 民間のせつなり』(中国行程記)
と記されています。

現在でも、花岡宿が在った周防花岡駅のそばの岡の上に花岡八幡宮が鎮座して、花岡八幡宮が鎮座する岡は、今より多くの花が咲き乱れていたのだと思います。美しい地名です。





末武川河岸

花岡宿を過ぎて山陽新幹線の高架橋を越えると、末武川の河岸に旧山陽道が続いています。末武川の土手には桜が植えられて満開の桜を見ながら歩きました。






遠石八幡宮

花岡宿(周防花岡駅付近)と徳山宿(徳山駅周辺)の中間くらいの所の海食崖の上に遠石八幡宮が鎮座しています。

由緒は
 昔々、にわかに暗雲が垂れ込み、人々が空を見上げると
 その中から一筋の光が差し込むや神馬(しんめ)が飛来し
 磯辺(いそべ)に忽然と現れた大きな石の上に降り立ちました。
 そして「吾(われ)は宇佐八幡大神(うさはちまんおおかみ)なり。
 この地に跡を垂れ国民を守らんとここに顕る。ああ遠し。」
 と告げられました。
 よって人々は、この地に八幡様をおまつりし、やがてこの地は
 「とおいし、といし」と呼ばれるようになりました。
(遠石八幡宮ホームページより転載)


景向岩(えいこういわ)
遠石八幡宮の由緒に書かれている、宇佐八幡大神が降り立った岩。

遠石八幡宮の境内から西に150mほど離れた所に在ります。

ところで、遠石八幡宮付近から徳山宿、富田宿、福川宿付近まで11㎞くらいはの旧山陽道の南側の海岸線は埋め立てられて工業地帯になっています。
境内から石油化学コンビナートの工場群が見えます。
かつては海岸線だったと思われる旧山陽道が通る海食崖の下と工場群の間は山陽新幹線と国道347号線が通り更に緑地帯が設けられているので旧山陽道の隣が巨大な石油化学コンビナートだと意識せずに歩く事が出来ました。

徳山宿

徳山宿は山陽新幹線の徳山駅に止まります。
徳山宿には東川の楊柳橋を渡って入ります。楊柳を調べたら、読みは ようりゅう で楊はカワヤナギで柳はシダレヤナギの事だそうです。昔は川沿いにヤナギが多く繁っていたのかもしれません。
現在は桜が植えられて、ここも満開の桜でした。


写真左:徳山市街
写真右:徳山駅前


徳山宿から福川宿まで

徳山の中心部を抜けても家並みがズット続いています。
ですが、やはり旧街道です、家は建て替わっていますが、少し狭い道幅、微妙に曲がりくねった道筋が旧街道だったと思わせてくれます。


川崎観音堂
街道沿いからこの風景が見えたとき、思わず 「ほっ~」と言ってしまいました。清く正しく華やかな日本の春です。


風景の違和感。  西日本と東日本は風景が違う!
何を言っているのだと思うかもしれませんが、3月30日から山口県の旧山陽道を歩き始めてから、なんとなく風景に違和感を感じていました。
ここに来てようやくその正体が分かりました。
下の写真を見比べて下さい。
同じ時期に写した山口県と山梨県の写真です。標高の違いはありますが、同じ様に桜が満開ですが、山口県の写真は桜が満開に咲いて山は緑色、片や山梨県は桜は満開ですが山は竹や杉などを除いて茶色です。
西日本は常緑樹の森が多く、東日本は落葉樹の森が多い事の違いです。
小学校で習ってはいましたが、この歳になって実際に西日本の風景を見て、初めて森林の違い、植生の違いを実感しました。ようやく小学5年生より賢くなりました。

写真左:山口県周南市富田付近
写真右:山梨県甲州市勝沼付近


富田宿

富田宿は山崎八幡宮の門前町として栄えた宿場です。五街道細見 には “富田村" と記載してあるので間の宿だったのかもしれません。

富田宿の手前で永源山の麓を通ります
この道が本当に旧山陽道なのか疑問ですが、宅地造成した結果 変貌してしまったのだと思いますが、こんな道を通りました。

山崎八幡宮
永源山の西端に鎮座しています。疲れていたので駐車場で休ませてもらいました。
主催神は応神天皇。
由緒は複数ありますが、『和銅2年(709年)、周南市富田河内にある神室山(みむろやま)に神が降臨され、これを奉斎したことが当社の起原。』(山崎八幡宮 ホームページより)

境内には亀を台座にした碑文(趺亀=ふき)があり、『古くは社の前は海辺であった。虎の形をした洲があり、これを虎の洲といった。その西には文水(あやのみず)という霊水が湧き、宝亀年間天使が来てその水を汲み、祭りを行ったという歌がある。』と刻まれているそうですが見落としてしまいました。


富田宿
趺亀の碑文には 『古くは社の前は海辺』 と刻まれている様に、富田宿はかつて海に面していた宿場で、門前町であると同時に海運でも栄えた宿場だったようです。現在は往時の面影はありません。


福川宿

富田宿と福川宿は2.8㎞ほどしか離れておらず近い宿場でした。

福川本陣跡
福川本陣が在った場所の住所は 周南市本陣町 です。本陣が町の中心的役割をはたしていた頃の名残なのでしょう。本陣門が残っています。説明板によると天保9年(1838年)に建て替えられたものを、昭和48年に改修したものだそうです。

福川宿の家並み
福川宿は本陣町の地名や本陣門が残っていますが、家は建て替わり宿場町の雰囲気は希薄になっています。

福川宿から豊海宿まで

夜市川河岸
福川宿を越えると夜市川に行き当たります。旧山陽道は夜市川を遡って続いています。
振り返ると、周南大橋と工業地帯の煙突が見えて工業地帯の直ぐそばを歩いていたのだと気が付きました。




山陽本線戸田駅手前で夜市川から離れて、山陽本線からも離れますし、山間の道を歩きます。


西徳山総合グランドの桜



戊辰戦争凱旋記念碑
周南市戸田(へた)地区の桜田八幡宮の参道の所にあります。
私は新潟県長岡市在住で、司馬遼太郎の『峠』に描かれている様に長岡は戊辰戦争では戦場になりました。少し複雑な気持ちですが、これも歴史の1ページなのだと思います。
碑文には
『戊辰戦争に参加し、東北を平定したので朝廷に報告した。天皇は軍人をご覧になり軍労をねぎらわれた。これも朝夕祈った氏神様のお守りのお陰と思い、ともに話し合い、鳥居に新額を寄進してお礼のしるしとする。』と刻まれているそうです。
戦争は、侵略する側も、される側も、戦うのは人で、その人々には、双方に無事を祈っている家族が居る事を思い起こさせてもらいました。

椿峠
旧山陽道が国道2号線と合流する付近の峠です。標高は100mくらいですのでそれほど急な峠ではありません。
峠を越すのは辛い登りが終わり、下り道になる安堵感がありますが、この椿峠は格別です。それまで登り道しか見えなかった風景が一転して眼下に富海の青い海が広がり解放感が半端ではないです。




富海(とのみ)宿

富海、豊穣の海を感じる良い地名だと思います。
インターネットで富海宿を検索すると、飛船(ひせん)の港町として栄え、富海宿の飛船問屋は、幕末の志士達を物心両面から支えたと書かれています。
それだけ、経済的に豊で先進的な気概を持った人々が多かった宿場だったのだと思います。

注:飛船(ひせん)=速度の速い船。帆と櫓を併用して風待ちをすることなく航行した快速の船。



清水家住宅
江戸時代から酒造業を営み、豊海村の庄屋をつとめた家。
明治11年(1878年)に建てられ、家屋全体が漆喰で塗られており重厚で気品を感じる建物です。登録有形文化財に指定されています。


富海本陣  天璋院篤姫御一行様ご休憩
説明板には、福川宿と宮宿の半分ほどの場所にあり、大名行列の休憩、長崎奉行やオランダ人、日田御用金運搬などの比較的小規模の人数の宿泊に利用されたと書かれています。
嘉永6年(1853年)9月には13代将軍 徳川家定に輿入れする天璋院篤姫が江戸に向かうときに休憩したとも書かれていました。

富海海水浴場
富海宿の前は500mほどの海岸が続き、遠浅の海が広がっています。
かつては避暑のリゾート地として人気だった時期もあるとの事です。
まるで湖かと思う様な穏やかさで、春の心地良いそよ風に吹かれて、ビールを飲みながらズット見ていたくなる様な海でした。


エピローグ

今日も一日満開の桜を見ながら歩きました。街道歩きは歩くだけでも楽しいのですが、満開の桜を見ながら歩くと心が浮き浮きとして、晴れやかな気持ちになります。街道はこの時期に歩くのが最高です。


END

2022年12月07日 作成

Column


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