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電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅
山口県 富海宿から四辻駅へ
橘坂・浮野峠を越え防府国衙跡・毛利氏庭園を通り佐野峠を越える道

プロローグ

このページは旧山陽道(西国街道)を2022年4月2日に瀬戸内海沿岸の山口県富海宿から山陽本線四辻駅まで歩いたページです。

この区間は富海宿からすぐに、旧東海道の薩田峠に似た中国山地が瀬戸内海に落ち込む風光明媚な 橘坂・浮野峠 を越して、防府市街の 防府国衙跡、毛利氏庭園、周防国分寺 そして防府天満宮前の宮市宿を通り、佐波川を渡り中国自動車道の佐波川SAのすぐそばの佐野峠を越えて山陽本線四辻駅まで歩きました。人も稀にしか通らない山道と古代から続く防府市街の遺跡や伽藍を見ながら歩く変化に富んだ道です。

都道
府県
区間 通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
山口 富海駅-四辻駅 富海宿、橘坂、浮野峠、浮野半宿、周防国衙跡、多々良大仏、毛利氏庭園、宮市宿、佐野峠、長沢池 2022/04/02 22.3㎞


↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)



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富海宿

富海駅から歩きはじめました。宿場の中心は富海駅の東側だったようで駅から西に向かって歩きましたが、宿場らしい遺構は残って居ませんでした。
  注:富海宿の写真は前のページに掲載しています。

昨日も訪れた富海海水浴場の海岸を再度訪れました。朝陽が登り昨日見た海とは、また違った風景でした。


橘坂(きっさか)から浮野峠(うけのたお)へ


橘坂

橘坂は富海宿の西端を過ぎて山陽本線の踏切を渡ると直ぐに登坂が始まります。浮野峠(うけのたお)に続く坂道です。

この坂は旧東海道の由比宿と興津宿の間に在る薩田峠の道に似ています。薩田峠と云ってもピンと来ないかもしれませんが、安藤(歌川)広重の東海道五十三次 由比 薩陀峠 の浮世絵は見た事が有るのではないかと思います。
注:写真は旧東海道薩田峠の説明版に掲載されていた写真を使用させて頂きました。

現代の薩田峠は、旧東海道、国道1号線、東名高速道、東海道本線が薩田峠に集中していますが、橘坂周辺には旧山陽道、国道2号線、県道58号線、山陽本線が集中しているところも良く似ています。

私だけではなく先人も同じ様に感じたようで、享和元年(1802年)にこの地を訪れた尾張の菱屋平七は筑紫紀行に
『・・・さて、山路にかかる。右は岩山けわしく屏風を立てたる如く、左は海岸水をさる事 数丈にして其様東海道の薩捶峠によく似たり・・・』
と書かれています。(注:筑紫紀行の文章は説明板に書かれていた文章を引用)

『さて、山路にかかる。・・・』


『右は岩山けわしく屏風を立てたる如く・・・』


『左は海岸水をさる事 数丈にして・・・』




『薩捶峠によく似たり』


こちらの写真は旧東海道 薩田峠です。
 雲間に微かに富士山が見えています。


手懸岩
旅人はこの付近に来ると、眼下の瀬戸内海の絶景に足を止めて、この岩に手をかけて休んだそうです。それで手懸岩と云われているそうです。

茶臼山古戦場
説明板を要約すると、永禄12年(1569年)、毛利氏と大友氏の戦いのさなか、大内輝弘が大内氏の再興を願って山口占拠を目論み、一旦は山口の旧大内氏の居館を占拠したが、それを知った毛利軍は筑豊を放棄して山口に急行。大内輝は逃げ場を失い、この地で最後の抵抗をするも自害したとあります。
この石祠は大内輝弘の石祠と云われています。

石畳の道
茶臼山古戦場から1㎞ほど進むと僅かな区間ですが石畳が残っています。
旧街道を歩くと、かつてこの石畳の上を大名行列も、戦場に向かう兵士も、商人や伊勢参りに行く人々も同じこの石を踏みしめて歩いたのかと想像が膨らみます。


浮野峠改修碑


説明板の絵図を見ると、改修工事は元々等高線に沿ってU字型に通っていた道をショートカットする様に付け替えたようです
ですが、新しい道の方を細く描いてあるので、細い道の方が古い道と勘違いしてしまいます。


改修前の旧山陽道の方に向かって道標が立っていました。試しに先に進んでみましたが、道らしい痕跡が確認できましたが、不鮮明な道ですし、そもそも改修前の道は地理院地図には記載がありませんので、安全を期する為に引き返しました。


浮野峠
標高は90mほどの峠です。竹林の中に旧山陽道が通っています。


国道2号線 防府第2トンネルからの風景


浮野駕籠立場跡
九州の諸大名は旧山陽道が整備され利便性が良くなると、それまで海上交通で参勤交代の旅をしていたものが、陸路に変える大名が多くなったとの事です。この駕籠立場は浮野峠を越す前にここで駕籠を下りで休息した場所との事です。


浮野駕籠立場跡付近から防府平野を望む


富海宿の橘坂から浮野駕籠立場跡まで2.4kmほどの道のりですが旧山陽道の雰囲気が良く残り歴史を感じる道でした。

浮野半宿

浮野峠麓からは防府市街の平坦な道に変わります。

こんひらみち と あじなみち 道標
説明板によると、江戸時代末期に記された『防長風土注進案』に浮野村山に金毘羅社が法連寺山に阿品社が在った事が記されており、この社への道を示す為に建てられたと思われる。と記されています。金毘羅社と阿品社が現在の何処なのかは分かりませんでした。

浮野半宿
浮野峠麓の地名は "浮野" で江戸時代は浮野半宿として人足と馬を用意して隣の宿場まで継立をしていたとの事です。
本宿である富海宿と宮市宿の間は2里18丁(約10㎞)と離れているうえに浮野峠も控えている事から半宿として機能したのではないかと思います。
写真は浮野から浮野峠方向を写したものです。

周防国衙跡(すおうこくがあと)

周防国衙跡は奈良時代から平安時代の周防国の行政を司る役所(国府)が置かれたところです。場所としては防府の多々良山の南側、毛利氏庭園の前に在ります。
他の多くの国府は平安時代後期から鎌倉時代初めに衰退していったのですが、周防の国府は文治2年(1186年)に東大寺造営料国となった事から現在まで比較的原型が保たれているそうです。
確かに、奈良時代に建立された国分寺の遺跡は各地で良く見ますが、国府は地名に『府中』と残っているものの遺跡を見る事はあまり無い様に感じます。




注:東大寺造営料国
平安時代になると東大寺は大仏や伽藍は損傷が激しく修復する事が多くなったのですが、その財源を確保する為に荘園が営まれていたのですが、平安時代末期になり、武士が台頭し封建制に移行し始めると、荘園をめぐって紛争が起きる様になり、寺院運営の財源の確保が難しくなりました。
更に、追い打ちをかける様に源平合戦のさなか平重衡らが奈良の寺院を焼き払い、東大寺は大仏殿を含め主要な伽藍を焼失してしまいました。
その為に鎌倉幕府成立途上の文治2年(1186年)に復興資金の調達の為に周防国が東大寺造営料国とされ、東大寺の復興に努めた重源にその運営が任されたとの事です。
現代風に言えば、地域限定で寺院の復興の為に税金を徴収されるような事なのかなと想像します。当時の人達の宗教観や寺院に対する思いは分かりませんが、周防国の人達はそれを名誉な事と思ったのか? 或いは迷惑な事と思ったのか?は計り知れませんが、お陰で現在、東大寺の大仏は勿論、荘厳な伽藍を見る事が出来るのは当時の周防国の人々のお陰という事なのでお礼を言いたいです。

多々良大仏

周防国衙跡の北側の毛利氏庭園との間に在ります。
元々は奈良を模して造られた辻福寺に置かれたていたのですが、明治25年(1892年)毛利氏庭園の建設が始まった時期に現在の場所に移されました。作者は上記の東大寺造営料国を運営し東大寺の復興に努めた重源上人と伝えられたいます。(説明板より)


毛利氏庭園

多々良山の麓にあります。旧山陽道は毛利氏庭園の前を通っています。
ですが、庭園を見ずに通り過ぎました。




宮市宿

宮市宿は毛利氏庭園の西側、周防国分寺旧境内付近から天神山の麓に鎮座する防府天満宮の前付近が中心地だった様です。
旧宿場内の家並みは保存に努めている様で電線は埋設されスッキリとした家並みに所々レトロな建物が保存されています。

周防国分寺




防府天満宮
祭神は勿論菅原道真ですが、防府天満宮は日本で最初に創建された天神様との事です。
防府天満宮のホームページの写真を見たら、朱色に輝く立派な社殿が掲載されていました。歩き旅の残念な部分なのですが、階段を登るのは辛いので階段は避けているのですが、防府天満宮は階段を登って社殿まで行って参拝すれば良かったと公開しています。
右側の写真は寛保2年(1742) に書かれた 御国廻御行程記 の宮市宿の絵図ですが旧山陽道と萩往還が宮市宿で交差し、防府天満宮を中心に宿場が栄えていた事が読み取れます。
注:国廻御行程記の絵図は参道に掲載されていた説明板の絵図を使用させて頂きました。

宮市本陣兄部(こうべ)家
鎌倉時代からの商人兄部家が本陣を務めていました。
隣は防府市生まれの自由律俳句の俳人 種田山頭火を記念する "山頭火ふるさと館" になっています。

本陣跡は本陣門と思われる門が残っていましたが、建物は無く更地になっていました。
よく参考にさせて頂いている シングルおやじの気ままな一人旅 のかっちゃん氏はここを2008年12月11日に歩いているのですが、その時に撮影された写真には本陣門と本陣が写っています。
また、こちらも良く参考にさせて頂いている 街道歩き旅.com  のアンドーさんは2013年6月3日に歩いているのですが、アンドーさんのホームページには本陣門は写っているものの本陣の建物は写っていません。2011年7月に出火して全焼したと書かれています。

宮市宿の家並み




宮市宿から四辻駅へ

宮市宿を過ぎると佐波川に行き当たります。往時は舟渡と思いますが、現代は大崎橋を渡ります。


佐渡川を渡ると防府市街から一転して田園風景に変わります。


玉祖(たまのおや)神社の石灯籠
玉祖宮と書かれています。渡ってきた大崎橋の北詰付近にある玉祖神社の石燈篭です。
Wikipediaによると、玉祖神社の祭神は玉祖命(たまのおやのみこと)で玉祖命は天照大神が天岩戸に隠れた際に勾玉を作った神様だそうです。この事から宝飾関係やレンズ製造の関係者の信仰を集めているそうです。

西国三十三所霊場 興禅寺
私の浅い知識では西国三十三所霊場は近畿付近に集中していると思っていたのですが、何故ここに西国三十三所霊場 があるのか分かりませんでした。想像ですが、本来の西国三十三所霊場を巡礼するのは難しいので、近場にそれを模した霊場を作ったのかなとも思いますがあくまで想像です。

佐野峠へ
上記の西国三十三所霊場 興禅寺を過ぎると直ぐに池があります。旧山陽道は池のほとりに沿って山の中に向かって続いています。この道は旧山陽道の雰囲気を色濃く残しています。放光老人クラブが設置した案内板がありますので道は間違わないと思います。


佐野峠駕籠立場
大名行列で殿様を運ぶ駕籠を下ろして休息した場所。多くは見晴らしの良い場所に設けられ、駕籠を置く台、雪隠(トイレ)、腰掛 などが設けられていました。

佐野峠から見える風景
遠くから 小浜山、大海湾、防府新大橋、佐波川河口、河口の小高い丘は小島山(通称ポンポン山)




ところで、佐野峠の道は山陽自動車道 佐波川SA のすぐそばを通っています。地理院地図をみるとSAから旧山陽道に接続している山道があるようですので、佐波川SAを訪れたときに旧山陽道にも足を踏み入れてみたら如何でしょうか。


長沢池周辺
周囲約6㎞ある大きな池です。
慶安4年(1651年)頃に灌漑用に造られた人工の池です。干ばつのときも長沢池の水を利用する村は干ばつを免れたそうです。


国道2号線は長沢池の南側のほとりを通っていますが、旧山陽道は長沢池を避けるように更に南の山側を通っています。
山陽本線の踏切を渡ると風景が一変します。




四辻駅
もう一度山陽本線の踏切を渡って国道2号線に戻って四辻駅に向かいます。
この写真の道が旧山陽道か否かは分かりませんが、四辻駅前の新しい道と線路の間に細い道が在って踏み跡が残っていたのでこの草道を歩いて四辻駅に行きました。

エピローグ


山口市阿知須にある山口湾(周防灘)の干拓地にある道の駅 きららあじす で出会った風景です。
遠くに見える山は山口湾を挟んだ対岸の山(おそらく岩屋山)です。





END

2022年12月15日 作成

Column


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