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電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅
 山口県 厚東駅から小月宿へ
  吉田宿の近く高杉晋作の墓所があります

プロローグ

このページは旧山陽道(西国街道)を山口県厚東駅から小月宿まで歩いたページです。途中 舟木宿、西見峠、厚狭市宿、蓮台寺峠、吉田宿、小月宿を通ります。
小月宿は半宿で本宿と本宿の間、この場合は吉田宿と赤間関宿(下関)の間にあって、旅人に対して休息や人足・馬の提供していた宿場です。
この区間は山の中に道が続いています。瀬戸内海を見る事は出来ませんが、中国山地のなだらかな起伏の山々の中に道が続いています。

吉田宿のそばには、幕末 奇兵隊を組織して幕末を駆け抜け、27歳で亡くなった高杉晋作の墓所が在る東行庵があります。

都道
府県
区間 通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
山口 厚東駅-小月駅 舟木宿、西見峠、厚狭市宿、蓮台寺峠、吉田宿、小月宿 2022/04/05 28㎞



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厚東駅から舟木宿へ

厚東駅から舟木宿に行くにはほぼ国道2号線に沿って歩きますが、所々 2号線を外れて旧山陽道が残っています。


道が消滅していました。
厚東駅2㎞ほど歩いて山陽新幹線の高架を越えると道は、国道2号線の脇を通り、山の中に続いています。
ですが、道が消滅し行止りでした。
小川を渡河して斜面をよじ登ろうかと思いましたが足場が悪いので引き返して足場の良い所から国道2号線に戻りました。



舟木宿


峠道を下って来ると舟木宿です。舟木宿の手前で国道2号線は北側に迂回しています。小さな池の所から舟木宿に行く旧山陽道が続いています。

現在の舟木はあまり大きな町ではありませんが、国道が宿場内を迂回して敷設されたので、宿場の雰囲気が残っています。

写真左:舟木一里塚跡
写真右:舟木宰判御高札場跡


岡崎八幡宮
舟木地区の鎮守として尊敬されています。応永3年(1396年)に大内義弘が再興し、戦火にあいましたが、その後天正4年(1576年)杉重良が、更に毛利氏も修復して現在まで続いているそうです。
境内のクスノキは樹齢700年と云われています。

願生寺


旅人荷付場跡
説明板には旅人の世話をする為に馬15頭 人足10数人が配置されていたとの事です。一般的に云う問屋場の様な機能なのかと思います。



西見峠

船木宿からはほぼ国道2号線を歩きますが、国道2号線は西見峠の手前で旧山陽道の道筋から西南西にそれて厚狭の町を迂回しています。

千林尼の石畳
道がそれる手前は僅かな区間ですが旧山陽道の道筋が残っているそうです。
"そうです"と云うのは、歩いている時に看板は見ましたが、どこが石畳なのか気が付かず、写真を見て今気が付きました。


左の写真は随分と拡大したので画素が荒れていますが、アスファルトが剥げている様なところが石畳跡との事です。かつては、この坂全体に石畳が敷き詰められていたのでしょう。

西見峠
この峠を越えると宇部市舟木から小野田市厚狭に入ります。
峠を越えたからと云う事ではないと思いますが、木々に新緑が芽吹いていました。
それにしても  西見峠  と云うネーミングはどこか旅情を誘います。




厚狭市宿


西見峠を下って来ると池のほとりを通って厚狭(あさ)市宿に入ります。


本町付近の家並み
現在の厚狭の町は厚狭駅の北側まで広がっていますが、厚狭市宿の中心地は厚狭川の東側の本町付近でした。


皇后岩
厚狭川のほとり、鴨橋のところにありま。
説明板には、百済国第36代聖名王の第三皇子の琳聖太子(大内家の元祖)が都に上ったとき、その跡を母君(聖名王皇后妃)があとを追って大和に向かい出帆したが、御座船の楫(かじ)が折れて、厚狭川沿いに上ると、水際に岩がありその岩で休んだそうです。その岩がこの皇后岩だとの事です。
更に、刈り取られていた麻稭(あさかい)で庵を造り一夜を明かすと、履いていた履がなくなっており、探すと満潮に乗って上流の久津(沓)に流れ着いていたとの事です。
調べたら、この皇后岩から2㎞弱上流にの川沿いに 沓 という地名があります。

道しるべ
厚狭川を渡ってすぐの さくらほっとパーク と云う小さな公園の片隅にあります。
下の方は埋まっていますが  『右へ行けば あつ  左に行けば 下関』 と道案内をしています。防府を越えたあたりから 赤間関・下関 の地名を見る事が多くなって気がします。
同じ公園内に 『賀茂橋 』『鴨橋』 『明治四年辛未冬十一月造』と彫られた石柱が立っていました。河川改修か橋の架け替えでここに集められたと思いますが、かつて厚狭川は渡し船か渡し橋 で川を渡っていたそうです。



厚狭駅周辺の旧山陽道は消滅しています。
上記の道しるべがある公園から厚狭駅の方に向かいますが、山陽新幹線 厚狭駅が出来たこともあって街道筋は分断・消滅しています。


厚狭駅から吉田宿へ

厚狭駅を越えて少し進むと旧山陽道は吉田宿手前まで9㎞ほど山の中に続いています。駅から西に向かって歩いて行くと、これから歩く山並みが見えてきます。
少し前から時々見かけていたのですが、この地方は赤瓦の家が目立ちます。
赤瓦の家は黒瓦の重苦しさが無く華やかな感じがします。赤瓦の産地は島根県岩見地方の石州瓦が有名なのでそちらから運んでくるのかなと思います。

旧街道を歩いていて赤瓦の家を多く見かけたのは北陸街道の石川県と福井県の県境付近の加賀市が多かったです。


七日町付近の道標
『右吉田道  左はぶ道』 と刻まれています。
はぶ道は瀬戸内海方面の埴生に向かう道で、吉田道は旧山陽道を進んで吉田宿に向かう道です。右に進んで本格的に山の道を歩きます。

その山の中の道なのですが、有名な史跡や景勝地と云うものは在りませんが、懐かしい静かな落ち着いた風景が続いています。

山野井地区




石炭(いしずみ)地区附近
地図を見ているときに  石炭  と書いてあったので炭鉱が在った場所かと思っていました。
調べましたが、かつてこの地で石炭が採掘されていたのかは分かりませんでした。

福田地区




蓮台寺峠付近


蓮台寺への道が枝分かれしていますが、蓮台寺には寄りませんでした。
社伝が書かれた説明板には、1000年前に一條帝の勅使が関門海峡で嵐に会い、一心不乱に祈願したところ、この山の上空に白蓮の花が咲き嵐が収まったそうです。報告を受けた花山(かざん)法皇が調べたところ山上に白蓮の花が咲いていて、法皇は観世音の化身だととして、この地に蓮台寺を建立して十一面観音像を安置したとの事です。



吉田宿


山間の道が終わり、平地になると吉田宿に入ります。
人家が見えてくると心なしか、ホッとした気持ちになります。
吉田宿は代官所や本陣も置かれ宿場町として栄えていました。
また、幕末には高杉晋作率いる奇兵隊が駐屯して訓練したゆかりの地です。600mほど離れた東行庵に高杉晋作の墓が在ります。


下の写真の様に、旧山陽道はこの付近では 『吉田街道』或いは『上方道』とも呼ばれていたようです。また左に曲がると北東に向かって秋芳台付近を通り 萩 に行く萩街道が通じています。


写真左:萩街道
写真右:旧山陽道=吉田街道=上方道  京方向を望む


三界萬霊塔・一里塚跡


東行庵   高杉晋作・騎兵隊墓所

上記の三界萬霊塔・一里塚跡がある場所を南に曲がって600m程進むと東行庵があります。

東行庵について
『東行』は高杉晋作の雅号のひとつです。
高杉晋作は慶応3年(1867)4月13日に27歳8か月で結核の為に下関で亡くなっています。遺言により奇兵隊の本拠地であったここ吉田清水山に土葬されたたとの事です。

幕末の戦争で亡くなった奇兵隊の隊士は10代20代の若者で、多くは子孫がなく、墓は無縁仏になる場合が多かったそうです。
これを嘆いた東行庵三世谷玉仙は昭和46年各地から隊士の墓を集めてこの地で供養したとの事です。

幕末・明治維新は教科書に載る様なヒーローの話を小説・ドラマなどで多く見聞きしますが、奇兵隊隊士の墓は、その時代に生きた多くの人達の希望や葛藤や挫折や喜びがあり、生と死のドラマがあったと思い起こさせてくれました。


写真左:高杉晋作(東行)墓
写真右:高杉晋作像


山縣狂介(有朋)像
高杉晋作が結核の為に退いた後に奇兵隊を引き継ぎ、軍監として戊辰戦争を戦い、元勲として明治を支えました。

私は新潟県長岡市在住です。長岡は司馬遼太郎の小説『峠』に描かれている様に戊辰戦争では戦場になりました。山縣有朋率いる軍勢は日本海側の北国街道を進軍し柏崎(柏崎刈羽原子力発電所が在る)を占領したのち越後長岡街道を進軍して長岡に攻め入りました。長岡藩家老 河合継之助が率いる長岡藩軍勢が抵抗するも、長岡藩は新政府軍に敗れました。歴史の1ページです。

 越後長岡街道歩き旅へ  山縣有朋軍が進軍した道です。

司馬遼太郎文学碑
  長州は奇兵隊の国である。
 
   『街道をゆく』より

吉田宿から小月宿へ

木屋川に架かる吉田大橋を渡って吉田宿を後にします。


木屋川の山陽新幹線の鉄橋の手前の道は僅かな区間ですが旧山陽道のルートが残っているようです。と云っても法面はコンクリートで固められているので、法面の上の犬走の様な所を歩きます。

旧街道を歩いていると感じるのですが、一般的に旧街道は水害があっても水没しない様に極力水面より高い所に道を付けた様なのでこの付近も元々は麓の少々高い所を旧山陽道が通っていたのではないかと思います。

小月宿


小月宿の入口付近には小月神社が鎮座しています。珍しい名前の神社ですが、元々は若宮神社と上の宮神社をご合祀して小月神社と改称したとの事です。
小月神社から150m程進むと随分と大きな庚申塔が建っています。この場所は小月神社の御旅所(おたびしょ:神体を乗せた神輿が休憩や宿泊する場所)で、庚申塔は各地に数多く建っていますがここまで大きな庚申塔は珍しいです。高さ2.6m 周囲3.4m 重さ7tあるとの事です。



小月パン工房
HPによると旧清末藩を移築した古民家の敷地内にあるパン屋さんとの事です。築100年ほどの屋敷と日本庭園があり、年何回か一般公開しているとの事です。

小月の道しるべ
右 かみがた道
左 とよた道
と刻まれています。
かみがた道は旧山陽道の事ですが、とよた道は木屋川上流に豊田町という地名がみえるので豊田町を通って長門に向かい 萩 に通じている道と思われます。別の名称では『赤間関街道北道筋』と云われている街道と思われます。

旧山陽道の道筋はどちら?
さて、説明板には道路の改修工事の為に一時撤去して、昭和49年に元の位置より西に3mの歩道に移したと書かれています。この道しるべが元の位置とほぼ同じだとすると、本来の旧山陽道は私が歩いたピンクのルートではなく、青い道の方が道しるべが示している方向に近いと思いますし、道標に 『右 かみがた道   左 とよた道』 と刻むのであれば、小月パン工房が在る追分に建てた方が道が分かり易いように思います。
ただ、他の方達が歩いたルートをインターネットで調べると私が歩いたピンクのルートを歩いていました。
調べましたが結局どちらが旧山陽道の道筋なのかは分からずじまいでした。


見廻り通り
小月宿は宿場としても歓楽街としても栄えていたので、武士が庶民の暮らしや治安を見て廻ったとのことです。現在は当時の面影はありません。




今日は小月駅まで歩いて行動は終わりです。

エピローグ

地理院地図には吉田宿の南側に『高杉晋作墓』と書かれています。旧山陽道のルートからは少し離れているので行こうかどうか迷ったので、歩き終わってから車で行きました。
高杉晋作や奇兵隊の事は少しは知っていましたが、ここに墓所がある事も27歳で亡くなった事も知りませんでした。
そして、何より10代20代で亡くなった奇兵隊隊士の墓が同じ場所に集められて供養されている事は初めて知りました。幕末・明治維新を通して、けして教科書や小説には載らない多くの人達のドラマがあったのだと思いました。

旧街道を歩くと、昔からの道標や石仏を見る事が多いのですが、道標や石仏を見ると、多くの場合 教科書に載っている歴史より、この道標を見て京に上った、江戸に行った、お伊勢参りに行った多くの人達がいた事を想像します。そして苔むした石仏を見ると、この石仏に手を合わせて、おそらく自分の旅の安全より故郷に残してきた家族の無事を祈った人達がいたのだろうなと想像します。


END

2023年01月23日 作成

Column


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