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電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅
 山口 小月宿から赤間関(下関)宿へ ゴールです
 壇ノ浦 源平合戦最後の戦


プロローグ
 

いよいよ京都三条大橋から歩いて来た旧山陽道(西国街道)の最後の歩きです。このページは山口県小月宿から長府宿を通り赤間関(下関)宿まで歩いたページです。赤間関(下関)は旧山陽道(西国街道)の始終点です。いよいよゴールです。

赤間関(下関)は平家が滅亡した源平合戦の壇ノ浦、或いは幕末の文久3年(1863)と元治元年(1864)に起きた、長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強に間に起きた下関戦争の舞台になりました。
奇しくも古代から中世へ、近世から近代へ移行した2つの戦いが同じ地で行われました。

下関の元々の地名は赤間関、赤馬関、赤馬関を略して馬関と云われていた土地です。明治11年(1878年)郡区町村編制法によって赤間区が置かれ、明治22年(1889年)の市制施行時には赤間関市が発足し、明治35年(1902年)に下関市に改名されました。
現在、赤間関と云う地名は下関市赤間町として残っていますし、壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇や平家一門を祀った神社は赤間神社と云う名称です。
一般的に馴染みがある下関を併記しています。

都道
府県
区間 通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
山口 小月駅-下関駅 小月宿、長府宿、長府毛利邸、前田台場跡、壇ノ浦、赤間関(下関)宿 2022/04/06 20.4㎞


↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます
↑GPSログをGoogleEarthでツアーする方法

カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


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小月宿から長府宿へ


小月の言葉は標準語!?
小月駅からスタートです。
駅を出て歩いていると、二人のお婆さんが話し込んでいました。そのうちの一人から話しかけられました。何処から来たのか尋ねられたので「新潟県から来ました。」と答えたら、『あんた、標準語を話している‼』と驚かれました。新潟県から来たので私が方言を話すと思ったのでしょう。その後のお婆さんの言った言葉が秀逸でした。『うちらは、生れてからここに住んでいるけど、うちらの言葉が標準語だ。あははははぁ…』
お婆さんの言葉は独特なイントネーションはありましたが聞き取りにくいという事はなく、むしろ素朴な感じの言葉でした。
東北地方を歩いていた時も、老婆に話しかけられた事がありました。その時は聞き取り難い発音でしたが、その地方独特な言葉を聞いて、まだ独特な発音の言葉が残っている! 日本もまだ均質化していないのだと思いました。ですが、あと一世代、世代が回るとその地方独特な言葉や文化は希薄になり、日本中どこに行っても同じ様な食事を摂り、同じような発音の言葉を話す様になるのだと感じます。他とは異なっている部分は大切にしたいと思います。

孝行塚
小月駅から西に歩いて行くと1㎞弱の場所にあります。
説明板によると、正式名は “孝女政碑" で、政は幕末に生れ、幼くして父を亡くし、母と暮らしていて、非常に親孝行で、結婚してからも夫にもよく仕えたので、殿様から度々褒められたそうです。明治4年 46歳で病死しました。死後、生前の行為をたたえる者が多く、募金によりこの碑を建てたとの事です。

清末八幡宮
建武2年(1335)大分県宇佐八幡宮より勧進して創建。
海水面が今より高かった縄文時代なら、この場所は湾に飛び出した岬のような場所だったのだろうなと思える地形の所に鎮座しています。
境内からは瀬戸内海を望む事ができます。


橋本家長屋門
明治6年の清末藩邸を解体する時に買い取られてこの地に移築されたそうです。藩邸の第一裏門だったと云われているそうです。ここから北北東に直線距離で1㎞ほどの所に"清末陣屋"と云う地名があります。現在は下関市立東部中学校が建っています。元々はそこに清末藩の陣屋が在ったとの事です。

小月宿から長府宿への道は絶景とか有名な史跡はありません。
ですが平地の中に続く、少し細く微妙に曲がった道はなんとも長閑な道です。




長府宿
 


長府駅を過ぎると旧山陽道は宿場だった頃の雰囲気や昭和感が残る街並みに変わってきます。

煉瓦塀や土塀はブロック塀には無い風情があります。時間が経てば経つほど、古いという感じより、趣が増す様に思います。


宿場の中心地だった街並みは電線が埋設されています。
電線が無いと空が広く感じますし、街並みのごちゃごちゃ感が減ります。
その電線が埋設された道もすぐに終わり、昭和感があるアーケードの街並みに変わります。




その長府市街を南に歩いて来ると、枡形なのか突然西に進路を変えて長府毛利邸に向かう道になります。


昭和モダン館
長府毛利邸のそばにレトロな看板がかけられた家が在りました。商店の様でしたが中には入らずに通り過ぎましたが、今思うと中に入ってみれば良かったと後悔しています。

少し残念なお話ですが、毛利邸に向かう昭和モダン館がある通りの一本北側に "古江小路" と云われる風情のある通りがあります。歩く前に気が付いていたらそちらの道も歩いておけば良かったと後悔しています。

長府毛利邸
長府惣社町の一角にあります。長府藩14代の毛利元敏が、東京から長府に帰住し、この土地に建てた邸宅です。明治31年(1898)に起工して、明治36年に完成しました。大正8年(1919)まで長府毛利家の邸宅として使用されていたとの事です。入場料を払えば中を見学できますが、見学せずに通り過ぎました。


功山寺
毛利邸を過ぎるとすぐに道は南に曲がります。曲がると右手に功山寺があります。旧山陽道は功山寺の前を通っています。



高杉晋作回天義拳之所
説明板を読んでも、あまりにも格調高い説明で浅学の私には何のことかよく分かりませんでした。
インターネットで調べると、元治元年(1864)12月15日、高杉晋作はこの功山寺で長州藩俗論派討伐の為に挙兵した場所という事らしいです。
この挙兵は "功山寺挙兵”あるいは "回天挙兵"と呼ばれ 明治維新発祥の地 と云われるようになったそうです。
それにしても、長州藩俗論派 という名称は、本人達が名乗っていた訳ではないと思いますが、勝てば官軍の論理で戦いに勝った側がつけた名称だと思います。

長府宿から下関宿へ

功山寺を過ぎると道は暫く里山の中に続いています。


ゴールが見えた!
暫く歩くと、茶臼山の麓から関門橋そして九州が見えます。
いよいよ、下関、ゴールに近づいてきます。


旧山陽道は海岸線から少し離れた山の麓に続いています。
それにしても、子供の頃から何回も関門海峡の地図を見ましたが、関門海峡がこんなに狭くて、本州と九州がこんなに近いというのは新鮮な驚きでした。紙に書かれた事で得た知識と自分で体験して得る知識には大きな差があると実感しました。




長州藩下関前田台場跡
旧山陽道の道筋からは少し離れますがあまりにも有名な場所なので訪れてみました。下の写真は一度は見た事があると思います。

上の写真は前田台場跡に設置されていた説明板に掲載されていた写真を使わせて頂きました。

---下関戦争---
前田台場は長州藩が関門海峡に造った台場の一つです。
文久3年(1863)5月10日、対岸の九州側の田ノ浦沖に停泊するアメリカ商船ペンブローク号を砲撃し、ペンブローク号は逃走しました。その後23日フランスの通報艦キャンシャン号、26日にはオランダ東洋艦隊所属のメデューサ号にも砲撃。
その後、6月1日にアメリカの軍艦ワイオミング号が関門海峡に侵攻、下関港に停泊する長州藩の軍艦壬戌丸を撃沈。翌元治元年(1864)イギリスを主力とするフランス・オランダ・アメリカの連合艦隊が8月5日下関の台場に砲撃を開始。8日に長州藩から使者が派遣され、14日に講和が成立。
上記記事は (構成文化財:長州藩下関前田台場跡 | 日本遺産 関門ノスタルジック海峡 (japanheritage-kannmon.jp)  
を参考にさせて頂きました。)


教科書に載っているように、この下関戦争による敗北で長州藩は武力による攘夷を放棄して、海外からの新しい知識・技術の吸収を積極的に導入する様になります。

長州藩が外国船に砲撃した文久3年(1863)は、ペリー率いる黒船が浦賀に来た10年後の事。前年の文久2年(1862)は和宮降嫁の行列が中山道を通りました。

現在の前田砲台跡




左の写真は みもすそ川公園 に展示してあった当時の大砲の複製品です。かつてはこんな風に砲列が組まれていたのでしょう。
時代も場所も異なりますが
 夏草や兵どもが夢の跡

前田砲台跡をあとにして歩を進めると旧山陽道は前田2丁目17の角で山の斜面を登る九十九折の道になります。何故、昔の人がこの様な道筋にしたのかは分かりません。或いはルートの推定を間違えているのかもしれません。
ですが、高度が高くなるので関門海峡が良く見える様になります。




壇ノ浦古戦場


写真左:源義経
写真右:平知盛 (清盛の四男 平家軍大将)

多くの方達が壇ノ浦と聞けば、源平合戦最後の戦いの地、そして平家滅亡の地、と思い浮かべると思います。
ですが、鎌倉幕府の歴史書である "吾妻鏡" の壇ノ浦の戦いの段は驚くほど素っ気ない記述です。
壇ノ浦の戦いの戦闘部分を要約すると、

元歴2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)
長門国赤間関(下関)の壇浦の海上において、源平が出逢った。三町を隔てて舟船(しゅうせん)を漕いで向かった。平家方は500余艘を三手に分けて、源氏方の将に戦いを挑んできた。午の刻(午前11時~午後1時)になって平氏の敗戦が濃くなると、二品禅尼(にほんのぜんに=平時子 清盛の正室)は宝剣を持ち、按察局(あぜちのつぼね=時子の従者)は8歳の安徳天皇を抱いて海底に没した。建礼門院(平徳子 安徳天皇の母 父は清盛 母は時子)は入水したところを熊手で引き揚げられた。


およそ上記の通りです。

義経の "八艘飛び" の逸話や "途中から潮流が変わって源氏が有利になり勝利する事が出来た" などの記述は全くありません。
映画やTVドラマの描写が史実がどうかは分からない事ですが、いづれにしてもこの狭い海峡の壇ノ浦で平家と源氏の戦いがあり、8歳の安徳天皇はじめ多くの人々が亡くなった事は史実です。

義経と知盛の像がある みもすそ川公園  で源平合戦の紙芝居をやっていました。話者の方が最後におっしゃた事は、『当時の下関の人達は敗者の平家の人々を手厚く葬りました。敗者をないがしろにする事はなく、それは現在でも続いています。』

赤間神宮
壇ノ浦の合戦で入水した齢8歳の安徳天皇を祀る神社です。同じく合戦で落命した平家一門を祀る塚があります。
江戸時代までは阿弥陀寺で仏式のお寺でしたが明治の廃仏毀釈で神社になりました。


安徳天皇御陵
安徳天皇は77代後白河天皇と平滋子の子である80代高倉天皇と清盛の娘である平徳子の間に産まれた81代の天皇です。
当時の時代背景などは詳しく知りませんし、現代の価値観で考えてはいけないことかもしれませんが、時代がどうであろうと、今で云えば小学校低学年くらいの子供を政争の具として扱かい。あげくの果てに入水させるという行為は、歴史の1ページであるにしても悲しい話です。

平家一門の墓





耳なし芳一堂
平家一門の墓の隣にあります。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の耳なし芳一の怪談は多くの方が知っていると思います。明治以前、赤間神宮が阿弥陀寺だった頃を舞台にした怪談です。芳一は夜な夜な上の写真の平家一門の墓の前で琵琶を弾きながら平家物語を語ったという設定になっています。


赤間関(下関)宿
 


本陣伊藤邸跡  坂本龍馬・お龍生活の地
鎌倉時代から続く名家で、室町時代は朝鮮交易を行い、江戸時代は町政に関与し、本陣となり九州諸大名の休泊所となりました。

興味を引くのは、元々龍馬と交流があった伊藤家の一室 自然堂 を龍馬が借り受け、慶応3年(1867)2月10日から、坂本龍馬と妻お龍が生活していたとのことです。お龍さんの後年の回顧録では龍馬とお龍さんが結婚式したのは元治元年(1864)の事ですので、結婚して3年後の事です。

亀山八幡宮
かつては島だった小高い山の赤間関(下関)宿の沿岸に鎮座しています。
境内からは関門海峡そして対岸の九州が良く見えます。




下関市街


金子みすゞ  が暮らした町
金子みすゞの名前を明確に認識したのは、まだ小学生だった子供が朗読していた詩を聞いたときでした。

 私が両手をひろげても、
 お空はちっとも飛べないが、
 飛べる小鳥は私のように、
 地面(じべた)を速くは走れない。

 私がからだをゆすっても、
 きれいな音は出ないけど、
 あの鳴る鈴は私のように、
 たくさんな唄は知らないよ。

 鈴と、小鳥と、それから私、
 みんなちがって、みんないい。


山上文英堂支店(商品館)跡
現山口銀行本店営業部

金子みすゞは大正12年(1923) 20歳のとき、再婚していた下関の母のもとに移り住みました。
この場所にあった山上文英堂支店で働きながら、創作活動をしていました。そして26歳で夭逝しました。
没後100年近く経っても、全く古さを感じさせない、むしろ現在だからこそ金子みすゞの詩は輝きを増している様に思います。

旧山陽道(西国街道)始終点 ゴールです
 


京都三条大橋東詰から歩いてきて、いよいよ、ゴールです。

ゴールは 重関山 永福禅寺 前の一里塚跡です。
往々にして旧街道の始終点は絶景とは無縁の風景です。
ゴールは眼で見るものではなく、心で感じるものだと思います。





永福禅寺の本堂はあまりお寺らしくはないですが、ここから見える関門海峡と九州を見たら、次は九州を歩こうという気持ちになります。



注:始終点の永福禅寺前から下関駅へは路線バスに乗車しました。

エピローグ
 

2021年10月11日から10月23日 京都三条大橋東詰から岡山県三石。
2021年11月17日から12月3日 岡山県三石から山口県欽明路。
2022年3月30日から4月6日 山口県欽明路から下関。
3回に分けて旧山陽道(西国街道)611㎞を29日かけて歩きました。

旧山陽道は都市の中を歩く、里山を歩く、瀬戸内海沿岸を歩く、と非常に変化に富んだ道筋です。歩いていると、次はどんな風景が見えるのだろうか? とワクワクした気持ちになります。
そして、古代から続く道なので古代から現代までの歴史を感じる事ができます。ぼんやりと知っていた歴史がこの地で起きた事なのかと再認識する事もできます。

新潟県の雪国育ちの私は穏やかな瀬戸内海に憧れを持っていました。街道筋から見える瀬戸内海の穏やかな海面はある種の安らぎの様な感覚を感じました。


ふろく
 


今日、私は北海道・本州・四国に住んでいる全ての人の中で一番遅く夕日が沈むのを見ました。

歩き終わってから、下関駅から北北西に19㎞ほどの、本州最西端の毘沙ノ鼻に行き 玄界灘沈む夕日をみました。








END

2023年02月11日 作成

Column


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