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電子足跡:旧東海道歩き旅
  日本橋から川崎宿へ
    熊さん・八っつぁん が居た街


プロローグ
 

旧東海道歩き旅のスタートです。 初日は日本橋-銀座-品川宿-多摩川-川崎宿と歩きました。旧東海道沿いの街は仕事などで部分的に歩いた事はありますが、大名行列が通り、弥次さん北八さんが歩いた舞台になり、お伊勢参りの人達が歩き、幕末には新政府軍が進軍し、数々の歴史を感じる事が出来ますし、江戸っ子が毎日生活していた場所でもあります。 実際に歩いてみると、街道筋はほぼビルの谷間でしたが、所々に遺構が残り仕事で通った時は気にも留めないで通り過ぎていた場所が輝きを増して見えました。

都道
府県
区間 通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
東京/神奈川 JR東京駅
-JR川崎駅
日本橋、銀座、旧田町薩摩藩邸、泉岳寺、品川宿、六郷橋、川崎宿 2022/05/24 21.4㎞


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日本橋

旅の始まりは日本橋です。これまで日光街道、中山道、甲州街道を歩いたときも日本橋を訪れました。何回訪れても旅の始まりの高揚感は変わりません。


翌年に第一回東京オリンピックを控えた1963年12月21日に開通した首都高速都心環状線が日本橋の上を通り、空を遮ってしまいました。
現在、日本橋周辺の首都高速を地下に移設する工事が進んいます。

以前見た映画 『ALWAYS 三丁目の夕日』でCGで再現した首都高速が出来る前の日本橋の風景を背景に薬師丸ひろ子さんが演技をしていました、演技もさることながら、その風景が物凄く郷愁を誘う映像でした。

地下化が完成して2040年には現在の首都高速の高架は撤去される予定との事です。撤去されて、空が広がる日本橋の風景を見てみたいものだと思います。そのときまで歩いていられるかな?

日本橋魚市場発祥の地
日本橋北詰の東側に在ります。
日本橋川沿いは江戸で消費される魚を荷揚げする場所で、ここで取引もされました。関東大震災で被害を受け、築地に移転するまでのあいだ、江戸・東京の人達の食卓を飾りました。

下に掲載した安藤(歌川)広重の日本橋の浮世絵を見ると、『朝之景』ですので、空が朝焼けに染まっているので日本橋北詰から東側を描いたはずです。よく見ると、橋のたもとの人の頭のたらいに魚が描かれています。魚河岸で魚を仕入れて、これから江戸府中に売りに行く場面という事になります。

安藤広重 東海道五拾参次之内 日本橋 朝之景
出典: 国立国会図書館ウェッブサイト   https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/16
安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション


日本橋を渡って出発です。



日本橋1丁目



八重洲通り 日本橋三丁目交差点


東京駅八重洲口から伸びて、日本橋三丁目の交差点で旧東海道と交差している通りです。



慶長5年(1600)帆船リーフデ号の航海士としてウイリアム・アダムス(三浦按針)らとともに、現大分県臼杵に漂着したオランダ人 ヤン・ヨーステン の名前に由来していると云われています。
よく見ると、どこかで見た事があるマークがあります。東インド会社のマークです。東インド会社はヨーロッパの貿易会社の様な印象がありますが、貿易のみならず条約の締結、植民地の経営、軍隊の交戦権などが与えられた会社だそうです。ヤン・ヨーステン、ウイリアム・アダムス(三浦按針)らは東インド会社の船に乗って来たという事なのかと思います。
日本に漂着した後、徳川家康により外交顧問として重用されたとのことです。それにしても、作製した方には申し訳ないですが、ヨーステンの頭部の像は不気味です。

京橋

日本橋から京に向かうと最初に渡る橋だったので京橋と云われました。
昭和7年発行の東京東北部の地図を見ると確かにこの場所に江戸城の堀から続く京橋川と云われた堀割があります。
現在は川は埋め立てられ橋も無くなり親柱だけが残っています。
ですが中央区京橋として地名が残っています。そして、京橋が架かっていた上には高速道路の高架が通っています。


銀座

銀座は説明するまでもありません。日本で一番の繁華街です。
カメラをぶら下げて、キョロキョロ、ほとんどお上りさん状態で歩きました。




江戸は水路の都市!

昔読んだ事なので記憶が定かではないのですが、かつての江戸は水路の都市で,現在の山手線より東側、墨田川を越えた下町の方まで水路が張り巡らされていました。よく聞く水路と云うか堀としては 『八丁堀』があります。

写真は 東京タワー → 芝公園 → 竹芝埠頭 へと続いている掘割の写真です。ここも首都高速都心環状線が上を通って屋根がある係留地の様に見えますが、ここはかつては水運で幾多の船が行きかい、江戸の人達の暮らしを支えていました。そう思って風景を見ると、東京の片隅の高速道路の下の薄暗い川もどこか愛おしい感じがしてきます。


勝海舟・西郷隆盛会談の地 旧田町薩摩藩邸跡


ビルの建て替え工事をしていますが、ここは旧田町薩摩藩邸跡です。
本来ここに会見を顕彰する石碑があるのですが工事中はどこかで保管している様です。
慶応4年3月14日(明治元年 1868)ここで幕府側の勝海舟と新政府側の西郷隆盛が会見を行い、江戸城無血開城を決め江戸100万府民を戦火から守りました。
勝海舟は会談が決裂した場合に備えて、江戸城下に一斉多発的に放火・焦土化して新政府軍に対抗しようと準備しており、町火消の新門辰五郎にその実行を依頼したと云われています。

私が好きな勝海舟の言葉ですが
  『行蔵は我に存す。
    毀誉は他人の主張。我に与からず我に関せず』

ひらたく云えば、
『自分の行動は自分で決める、それを褒めるも貶すも人の勝手、褒められようと貶されようと俺の知った事ではない』 と云う様な意味でしょうか。

高輪大木戸跡


港区高輪2丁目19番 に在ります。付近にお住まい或いは通勤で見た事がある方も多いと思います。元々は宝永7年(1710)に銀座の芝口門にたてられていた木戸が享保9年(1724)にこの地に移されました。
旧東海道の両側に石垣を築いて門を設置して夜は閉めて通行止めにしていました。
西国から江戸に来る、京に上る、伊勢参りに行くなどの旅人の送迎もここで行われていました。長い間江戸の出入り口、つまり江戸という都市の境界だったという事です。

東海道中膝栗毛に載っている川柳ですが
  高なわへ来てわすれたることばかり
現代人も旅に出ると、鍵は閉めたか? 電気は消したか? ガスの元栓は閉めたか? と思う事と同じです。

泉岳寺  浅野内匠頭・赤穂浪士墓所


忠臣蔵
日本でこれほど多くの方達が知っている事件とそれを題材にした演劇は無いのではないかと思うくらい有名です。事の詳細はあまりに有名なので、省略します。



墓所は山門を通って左側の少し高くなったところにあります。



写真左:浅野内匠頭墓
写真右:大石内蔵助墓

かなり前、NHKの番組で赤穂浪士の行動は 『忠義か?』『犯罪か?』 を2つのグループに分かれて討論する番組がありました。細かな部分は忘れてしまいましたが、なかなか議論が固まらないなか、終盤になって70歳代と思える女性が発言しました。その方の論旨は『忠義とか犯罪とかではなく、人が人と殺し合う事に忠義も正義も無い、それは人としてやってはならない事だ。』というものでした。討論に参加していた会場の多くの人達が息をのみ静まり返った場面があった事を思い出します。

萱野三平について
墓所への階段を上がるとすぐ左に四十八人目の義士と云われた萱野三平の墓があります。萱野三平は早見藤左衛門とともに松の廊下の事件後すぐに早打駕籠にのり、155里(約620㎞)を4日半不眠不休で赤穂に一報を伝えました。
萱野三平の旧宅は大阪箕面市の旧山陽道沿いにあります。詳しくは私のホームページ 旧山陽道歩き旅の 萱野三平旧邸 もう一つの忠臣蔵 の項をご覧ください。

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品川宿

JR品川駅前を進んで行くと箱根駅伝の中継でよく映し出される八ツ山橋に差し掛かります。箱根駅伝のコースは国道15号線(第一京浜)ですが、旧東海道は品川駅から最初の陸橋 八ツ山橋を渡ります。
高欄の部分に『屋つやまはし』『大正3年』と刻まれています。かつては ”八” ではなく”屋” と表記していたようです。

さらに、説明板に書いてあったことですが、八ツ山橋は初代ゴジラが上陸した地点だそうです。

安藤広重 東海道五拾参次之内 品川 日之出

出典: 国立国会図書館ウェッブサイト  https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/18
安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション


鯨塚
上の広重の浮世絵でお分かりになるように、かつて品川宿は海岸がそこまで迫っていました。
街道筋から100mほど東に行くと現在の八ツ山通りに面した品川浦公園に鯨塚があります。
説明板によると、寛政10年(1798) 前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川の漁師によって捕らえられた鯨の供養碑です。
体長16.5m 高さ2mの鯨で、11代将軍徳川家斉も上覧する事になり、江戸中で大騒ぎになったそうです。
今年(2023年)淀川河口に『鯨の淀ちゃん』が迷い込み、連日報道されていましたが、江戸時代であればなおのこと騒ぎは大きかったと想像できます。
おそらく鯨塚がある付近がかつての海岸線だったのではないかと思います。


品川宿の家並み


品川宿 丸屋履物店の店先
慶応元年(1866)にこの地に店を構えた老舗です。




品川本陣跡
現在は品川区立聖蹟公園になっています。特に本陣の遺構はありませんでしたが、井戸があったのでそれが本陣のときからの井戸かもしれませんが確証はありません。


鈴ヶ森刑場跡

泪橋
浜川に架かる橋ですが、ここは鈴ヶ森刑場の手前にあり、処刑される罪人が江戸府中から鈴ヶ森刑場に護送されてくるとき、親族らがひそかに見送りに来て、この橋で涙ながらに分かれたことから泪橋と呼ばれる様になりました。
日光街道沿いの、南千住駅付近に在った江戸のもう一つの小塚原刑場の手前にも泪橋と呼ばれていた橋がありました。そちらは現在は橋はなく交差点の名称が泪橋交差点と呼ばれています。

鈴ヶ森刑場跡
下の写真の右側の道路が旧東海道です。
当時は間口40間(約72m) 奥行き9間(約16m)だったとの事です。
一般的に処刑場は 『見せしめ』 の目的もあったので宿場外れの街道に面した場所に在りました。
この場所で、歌舞伎などの演目になっている八百屋お七、丸橋忠弥、天一坊 らも処刑されました。




六郷の渡し跡

東京都と神奈川県の境でもある多摩川は、中世末から近世初頭にかけて何回か橋が架けられましたが、貞享5年(1688)の洪水で流されてから明治になるまで舟渡でした。近代的なコンクリート製の六郷橋が出来たのは大正14年(1925)で、昭和59年(1984)に現在の六郷橋に架け替えられました。(説明板を要約)


以前の六郷橋跡



出典: 国立国会図書館ウェッブサイト   https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/19
安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623






川崎宿


多摩川を渡ると川崎宿です。


万年屋の奈良茶飯
川崎宿は東海道中膝栗毛にも描かれている 万年屋の奈良茶飯が有名でした。万年屋は川崎宿の船着き場のすぐそば、現在で云えば六郷橋の南詰付近にあったようです。
弥次さん 北八さんもここで奈良茶飯を食べて先を急ぎました。

ところで、奈良茶飯はどんな料理なのかインターネットで調べました。
『米に栗、大豆、小豆、アワなどを入れ、お茶で炊いた炊き込みご飯。』で、これにシジミの味噌汁や奈良漬と合わせて提供されていたようです。

万年屋の絵図

説明板に掲載されていた絵を使わせて頂きました。

川崎宿の家並み
宿場の中心地だった所に『東海道かわさき宿交流館』があります。
他の宿場にも展示館が在ることがありますが、かわさき宿交流館は規模も大きいですし、展示も充実しています。歩きの途中に訪れてみると良いと思います。

写真右:東海道かわさき宿交流館


写真左:田中本陣跡
写真右:佐藤本陣(上の本陣)付近


JR川崎駅まで行って今日の歩きは終わりです。

エピローグ

仕事で歩いた事がある道でも、この年齢になり、仕事もリタイアして街道歩きとして道を歩くと街の印象が随分変わります。仕事のときは眼では街を見ていますが、頭の中はこれから始まる会議や打ち合わせの事を考えているので風景や史跡は脳に届かなかったようです。


END

作成:2023年03月07日
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