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電子足跡:旧東海道歩き旅
 戸塚宿から平塚宿へ
  相模国を感じる道


プロローグ
 

旧東海道を戸塚宿から平塚宿まで歩いたページです。
この道は権太坂に続くもうひとつの坂、大坂を越します。
大坂を越すと広大な平地が広がります。印象としてですが、川崎圏・横浜圏は神奈川という感じがしますが、ここからは相模国と云った方が適切な感じがします。
途中、箱根駅伝でよく耳にする "遊行寺の坂" を通り、藤沢宿では、"義経首洗井戸" を見て遥か800年以上前の出来事に思いを馳せる事ができます。
辻堂付近には少しの区間ですが松並木があり旧街道の雰囲気が増してきます。

都道
府県
区間 通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
神奈川 JR戸塚駅-JR平塚駅 戸塚宿、大坂、遊行寺坂、藤沢宿、義経首洗井戸、茅ヶ崎、南湖の左富士、相模川(馬入川)、平塚宿 2022/05/28 22.1㎞


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戸塚宿
 

JR戸塚駅からスタートです。駅の西側の広い道路が旧東海道でした。戸塚宿のかつての中心地は駅の西側で、本陣、脇本陣、問屋場が集まっていました。 戸塚宿は歩いて来た権太坂とこれから歩く大坂に挟まれた谷の部分に在りました。江戸まで10里ほどの距離に在り、当時の旅人は1日10里くらい歩くのが普通でしたので、江戸側からも京側からも戸塚に宿泊する事になり賑わっていた宿場だという事です。

写真左:戸塚駅前
写真右:この交差点付近に内田本陣が在りました


写真左:問屋場跡
写真右:澤邊本陣跡


上方(京方)見附跡
戸塚宿の西側の出入口で、写真は説明板に掲載されていた古い写真ですが、現在でも石の囲いが道の両側に残っており、京に向かって左に松の木、右に楓の木が植えられています。



大坂

上方見附を過ぎると少し登り坂になります。大坂の始まりです。
大坂は距離・高さともに権太坂と同じ程度の坂ですが、印象としては大坂の方が少し緩やかな感じがします。


お軽勘平戸塚山中道行の場面碑
私は見た事がないのですが、仮名手本忠臣蔵でお軽と勘平が戸塚の山中を逃避行で通り、勘平がお軽に足は痛まないか?と労わる場面の碑との事です。この場面は創作らしく、実際にその場面の逸話がここであったという事ではないようです。

坂の登りきると、広大な平原が広がっています。と云っても家やビルが立ち並んでいますが、解放的な気分になります。天候によっては大山や富士山が見えると思います。


ここからは藤沢宿に向かって下り坂が続きます。

遊行寺

遊行寺坂
この坂も箱根駅伝で有名な坂です。下り坂になってから藤沢宿の手前の境川まで2㎞弱続く坂です。


時宗総本山 遊行寺
説明板によると、清浄光寺が正式な名称ですが、遊行上人の寺という事から遊行寺と呼ばれています。
宗祖 一遍上人(遊行上人)はお札を配りながら遊行して踊り念仏を行いました。この遊行寺は正中2年(1325)遊行4代呑海上人によって開かれたたとの事です。

奥州街道芦野宿にある、

   田一枚植えて立ち去る柳かな   芭蕉

の俳句で有名な柳は 遊行柳 と云われていますが、これは時宗 十九代尊皓上人が、かの地を訪れたときのエピソードに由来しています。

写真右:大イチョウ 樹高:21m 根廻:710㎝  藤沢市天然記念物




振り返ると藤沢市街が良く見えます。



藤沢宿
 

遊行寺を過ぎると坂は終わり、境川にかかります。境川に架かる遊行寺橋(旧大鋸橋)は江の島弁財天道との追分でした。
安藤広重が描いた 『藤沢 遊行寺』 はこの付近の風景です。


出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623         https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/25

下の写真は広重の構図に近いと思われる場所で撮影しました。
境川は河川改修され、川沿いには家が立ち並び、遊行寺を見る事は出来なくなっていますが、地形はほとんど変わらない感じがします。


江の島弁財天道標
この場所は遊行寺橋を渡ったたもと付近から、江の島方向を見た写真です。
道標は小さな公園の中にあります。

正面に『ゑのしま道』、右側に『一切衆生』、左側に『二世安楽』と彫られています。写真は左側面が見えています。勿論現在でも国道467号線が江の島に通じています。

東海道中膝栗毛にも、"藤沢ヨリ平塚へ三里半" の段にこの場所の描写があります。藤沢宿の茶屋で休んでいる弥次さん北さんに、通りがかりの旅人が江の島に行く道を聞く場面です。

弥次「・・・、この道をまっすぐに行って、遊行様のお寺の前に橋があるから」
(中略)
弥次「橋の向こうに鳥居があるから、そこをまっすぐに」
と、広重の浮世絵と同じ風景が記載されています。

藤沢宿
遊行寺橋付近は 枡形(道を意図的に曲げて敵の侵入を防ぐ)になっていて、道の方向が南西から北西に90度変わります。藤沢宿の中心地はこの枡形を越えた付近でした。道沿いに宿場の面影が残る趣のある民家が残っていました。


伝 義経首洗井戸
街道沿いに標識が建っています。少し奥まった所に井戸が在ります。
この井戸が伝義経首洗井戸です。
奥州藤原氏を頼り平泉に行って匿われますが、安息の日々も束の間、平泉の衣川で打ち取られます。
その後、首実検の為に鎌倉に首を送られ、首実検後、浜に捨てられた義経の首は潮にのって川を遡り、村人に拾われてこの井戸で清められたとの事です。首洗井戸の北200mほどの所に義経を祀る白旗神社が鎮座しています。


藤沢宿 京見附跡
小田急江ノ島線の藤沢本町駅を過ぎてすぐの場所にあります。ここが藤沢宿の京側の出入り口です

藤沢宿から平塚宿へ

おしゃれ地蔵
引地川を渡るとすぐに小さな祠と云うか雨除けの中にひっそりと鎮座しています。
『女性の願い事なら、何でもかなえて下さり、満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼をする。』と伝えられています。
写真を見てお分かりの様に、実際にお顔に白粉や口紅で化粧され、お供え物もあるので、現在でも信仰されていて、満願かなった女性が多く居るという事なのでしょう。
お地蔵様と云うより、中山道でよく見る 双体道祖神 の様に思いますが、謂れなどは分かりかねますが満願かなった女性が多く居らしゃる事の方が嬉しい出来事です。

辻堂付近の松
この付近まで来ると、道沿いに松が見られるようになります。昔からの松なのか、植え替えられた松なのかは分かりかねますが沿道に松があると街道の雰囲気が格段に上がります。


茅ヶ崎一里塚
JR茅ヶ崎駅のそばにあります。こんな繁華街によくぞ一里塚が残った事に率直に驚きます。
茅ヶ崎の街を歩いていたら頭の中で 『勝手にシンドバッド』の歌詞が流れ続けています。と、これを読んで何の事か分かる方はかなりのサザンファンです。


南湖の左富士
茅ヶ崎と相模川(馬入川)の中間くらいの所で旧東海道が突然北西に進路を変えます。この区間は、それまで富士山は右手に見えていたのが左手に見えるようになるので左富士と云われています。と云ってもこの日は富士山は見えませんでした。

鶴嶺八幡宮
南湖の左富士の碑が在る鳥居戸橋南詰から橋を渡ってすぐの所に大きな鳥居があります。鶴嶺八幡宮の鳥居なのですが社殿は1㎞ほど北に行った所に鎮座しています。相模国茅ヶ崎の総社との事です。康平年間(1058~1065)の創建との事です。

相模川(馬入川)
神奈川県の中央部を流れる川で、源流は山梨県の山中湖です。都留市、大月市、上野原市を過ぎて神奈川県相模湖に入ります。
大月市、上野原市、相模湖の流域に甲州街道が通っています。

河口付近では馬入川とも呼ばれていました。
馬入川と云う名前を聞くと、源頼朝が重臣稲毛重成が亡き妻(北条政子の妹)の供養のために馬入川に架けた橋の落成記念式典の為にこの地を訪れ、帰り道で落馬して命を落としたと云われています。

更に、現在の馬入川の東1.5㎞ほどのかつて水田だった場所に、大正12年(1923)9月1日 関東大震災による液状化現象で橋脚が現れ、その橋脚が
頼朝が訪れた橋の橋脚と考証されました。その橋脚は史跡として保存されています。この事を知ったのはここを歩いた後でしたので訪れる事はかないませんでした。


平塚宿
 

相模川(馬入川)を越すとすぐに平塚宿です。

馬入一里塚跡
京まで、まだまだ 111里です。




今日は平塚駅まで歩いて行動は終わりです。

エピローグ

実は、2年弱ですが藤沢に住んでいた事があります。天気の良い休みの日はアパートから江の島までジョギングをして、江の島を見ながらビールを飲み、帰りは江ノ電でアパートに帰るという、お金は掛かりませんが、ある意味贅沢な生活をしていました。
江の島周辺の風景は心のどこかにひっそりと残っていて、郷愁の様なものを感じます。

ベタな写真ばかりですが、海に浮かぶ 江の島、烏帽子岩、そして雪を頂く富士山 湘南を感じる風景です。











END

作成:2023年4月27日
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