Contact
admin


電子足跡:旧東海道歩き旅
 平塚宿から小田原宿へ
  大磯の松並木を通り富士山が見える道


プロローグ

旧東海道を平塚宿から小田原宿まで歩いたページです。

この道は相模湾沿いに旧東海道が続いています。途中、大磯では松並木が残り雰囲気の良い道を歩きます。
小学生のとき江戸時代の旧街道の事を習いましたが、『街道沿いに松を植え、暑い日差しから旅人を守った。』と先生が話していましたが、その話が何100年も経った今でも現実に目の前に存在している事に驚きを禁じえませんでした。

また、大磯には街道から少し路地を入りますが、島崎藤村が最晩年を過ごした家が現存しています。公開されていますので訪れてみると良いと思います。

街道筋からは富士山が見え隠れしますし、相模湾そして伊豆半島が望める場所もあります。
旧東海道らしさを感じる区間です。


 Melancomic physical shop open‼ 実店舗開店‼ @渋谷
 西部渋谷店パーキング館 1階
  CHOOSEBASE SHIBUYA内
 渋谷区宇田川町21-1
 map
 ONLINE shop はこちら。click
 HIROKI YAGI 現代アート作家による実店舗です。 Melancomic=melancholy(憂鬱)+comical(可笑しみ)

 


都道
府県
区間 通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
神奈川 JR平塚駅-JR 小田原駅 平塚宿、大磯宿、島崎藤村邸、大磯の松並木、新田義貞首塚、小田原宿、ういろう店舗 2022/05/29 23.3㎞


kmz形式のGPSデータがリンクされています。
GoogleEarthがインストールされているとGoogleEarthで表示されます。
GPS LogをGoogleEarthでツアーする方法




advertisement

 


平塚宿

平塚宿の中心地はJR平塚駅から少し西側に行った付近でした。
旧東海道はメインストリートになっていて、宿場町だった頃の面影はありませんが、家並みの間から富士山が見えました。


写真左:高札場跡
写真右:本陣跡 間口約30m 奥行き約68m の敷地だったそうです。


上方見附跡
旧東海道と国道1号線が出逢う所にあります。
想像ですが、国道1号線を敷設するとき、旧東海道沿いは家屋が密集していたので、国道1号線を迂回して敷設し、家が疎らになったこの付近で旧東海道に接続したのではないかと思います。

平塚宿から大磯宿へ


安藤広重 東海道五十三次 平塚 繩手道
唐ヶ原(もろこしがはら)の繩手道(曲がりくねったあぜ道)から西側の富士山・高麗山を描いているそうです。
道標の様な木柱には『ここから東は平塚宿』と記されているとの事です。道標や構図から推測すると上記の上方見附跡付近から富士山方向を見た風景で、もしかしたら遠くに見える橋の付近は花水川かもしれません。

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623       https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/26

こちらの写真は現在の花水橋から花水川を400mほど遡って高麗橋付近から高麗山と富士山を撮影した写真です。広重の絵の様に高麗山の後ろ側に富士山が顔を覗かせている風景が見えました。




花水橋を渡るとすぐに、茅葺の民家がありました。

化粧坂
花水橋を渡ると旧東海道は高麗山の麓を通ります。麓の坂道が化粧坂と呼ばれています。説明板によると、高来神社との関係も考えられるが、鎌倉時代大磯の中心地はこの付近で 鎌倉時代の『曾我兄弟の仇討』に登場する 大磯の遊女で、兄 十郎祐成の妻である 『虎御前』 はこの付近に住み、化粧坂にある井戸水で化粧をしたので、化粧坂と云われるようになったとのことです。
ですが、化粧坂と云う地名は他の土地にもあり由来も似た様な話や "けわしい坂" が訛ったという説などもあります。





advertisement

 


大磯宿
 


安藤広重 東海道五十三次 大磯 虎ヶ雨

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623    https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/27

広重の浮世絵に "大磯 虎ヶ雨" と題名が付いています。
"虎ヶ雨" は季語で陰暦5月28日(太陽暦では6月下旬から7月上旬)に降る雨の事だそうです。
これは、上記の "曾我兄弟の仇討" に由来し、曾我兄弟が仇討を果たすも、兄 十郎祐成は 鎌倉幕府の侍に返り討ちにあい5月28日に落命。それを知った"虎御前" が涙にくれた事に由来するとの事です。

広重の浮世絵に 『大磯 虎ヶ雨』と題名がある事は、前述の坂に虎御前が住み、化粧坂と呼ばれた由来と無縁ではない様に思います。

江戸見附付近
JR東海道本線の踏切を渡ると江戸見附跡があります。ここからが大磯宿でした。広重の絵には江戸見附が描かれていますのでこの付近から見た大磯宿の風景と云う事になります。

大磯小島本陣跡
大磯宿には小島、尾上、石井と3か所本陣が置かれていました。
写真は小島本陣で現在はレンタル着物のお店になっていました。

大磯宿の古民家


鴫立庵(しぎたつあん)と湘南発祥の地
鴫立庵は寛文4年(1664)小田原の崇雪が、西行寺を建てる目的で草庵を結んだのが始まり。
その標石に "著盡湘南清絶地" と刻んだのが湘南の呼称の始まりとのことで、湘南とは中国にあった、"長沙国湘南県の湖南省を流れる湘江の南部"をさしていたとの事で、大磯がそこに似て美しかった事から "著盡湘南清絶地"  と刻んだとされているそうです。

島崎藤村邸
鴫立庵を過ぎてすぐ、北側の路地を入った所に在ります。
ご存じの様に島崎藤村は中山道馬籠宿の島崎本陣出身ですが、晩年はこの地で過ごして、この地で亡くなりました。


最晩年の昭和16年2月から18年8月まで71歳で逝去するまで静子夫人とともに暮らしました。もともとは貸別荘住宅の一軒で質素な建物です。私が訪れたときは説明員の方がいらして説明を聞きながら見学をしました。有難うございました。


大磯宿から小田原宿


大磯の松並木
島崎藤村邸を過ぎてほどなく大磯の松並木が続いています。日本橋を出て初めての本格的に残っている松並木です。
日光街道の杉並木もそうなのですが、街道筋に並木があると雰囲気が格段に良くなり、歩いていて心地よいです。




上の左に掲載した写真もそうなのですが、大磯の松並木付近まで来ると富士山が良く見える様になります。
街道を歩いていて、目の前に富士山が見えると気持ちが高揚します。

下の写真は二宮駅を越え中村川を渡った付近の風景です。
街道から相模湾が見え、その先には伊豆半島の山々が連なっています。


暫く進みJR国府津(こうづ)駅を越え森戸川付近から見えた富士山と酒匂川から見えたこれから越す箱根方面の山々です。


新田義貞公首塚
新田義貞は鎌倉幕府討幕の功労者で、稲村ケ崎方面から鎌倉に侵入を試みるも、海に阻まれ侵攻できず、新田義貞が黄金の太刀を海に投じたところ海が引き稲村ケ崎を突破できた。と云う逸話で知られています。

首塚は酒匂川を越すとすぐに在りますが、街道から数10m離れて家並みに隠れているので場所が分かりずらいです。
新田義貞の首塚は他にもありますが、この首塚は鎌倉幕府討幕後足利尊氏と対立して、現在の福井県で討ち死に。足利尊氏によって首級を晒されていました。義貞の家臣宇都宮泰藤により、首塚を奪い返し、義貞の領国である上野国(群馬県)に届けるため東海道を下っていたが、ここ酒匂川のほとりで病にかかり、仕方なくここに埋葬したと云われています。



advertisement

 


小田原宿
 


安藤広重 東海道五十三次 小田原  酒匂川

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919.
国立国会図書館デジタルコレション   https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/28


現在の酒匂川と小田原・箱根方面
広重の絵は右側に小田原城が描かれているので、この写真よりもう少し左側を描いているようです。


江戸方見附と一里塚跡
広重の浮世絵には小田原という事で酒匂川の渡しが描かれていますが、宿場としての小田原は酒匂川から1.5㎞ほど離れた江戸方見附が入口でした。

下図は小田原宿なりわい交流館の説明板に掲載されていた、東海道分間延絵図の小田原宿です。原本は東京国立博物館が所蔵しています。


小田原宿は小田原城と海岸に挟まれた南側と東側に発達していました。
小田原宿には4軒の本陣と4軒の脇本陣が在り、旅籠も90軒前後ありました。、箱根峠を控えているので大名も庶民も小田原で宿泊する事が多かったという事かと思います。

写真左:清水金左ヱ門本陣跡
写真右:久保田本陣跡


小田原宿なりわい交流館
昭和7年に建てられた旧網問屋を改築して、休憩や市民活動の発表の場として整備されています。入場無料でしたので、中で休ませて頂きました。

小田原名物 透頂香ういろう
"ういろう" は元々は外郎(ういろう)家が作る薬の事です。江戸時代にも既に混同されていたようで東海道中膝栗毛には

北八「おやおや、この家の屋根は、角々がやけに凸凹しているのう」
弥次「これが名物、八ツ棟のういろう屋だ」
北八「ひとつ買ってみよう。ほんとうに旨えか」
弥次「旨えのなんのって、ここのは顎が落ちらあ」
北八「おう、変だぜ。ういろうは餅かと思ったら、クスリ店だぜ。透頂香御調整所と、書いてあらあ」
弥次「はははは、こりゃどうじゃ」
  ういろうを餅かとうまくだまされて
     こは薬じやと苦い顔する


と描かれています。
(上記 東海道膝栗毛は 現代語訳 東海道中膝栗毛(上) 伊馬春部 岩波書店 から引用しました)

弥次さん北さんも見た、八ッ棟造りの ういろう本店


さて、江戸を発った旅人は2泊目は小田原に宿泊する事が多く、弥次さん北さんも小田原宿で宿泊しています。
投宿した弥次さん北八さんは、五右衛門風呂に下駄を履いて入り、風呂を壊してしまうエピソードが描かれています。

今日は小田原宿まで歩いて行動終了です。

エピローグ

これまで他の街道の松並木も歩いた事がありますが、大磯の松並木は少し雰囲気が異なりました。どこか風格があるような、威厳があるような、そんな感じがしました。
旧街道の松並木と云うと、やはり旧東海道の松並木がTVや雑誌で取り上げられる事が多いので、松並木=東海道と云う等式が頭にインプットされているからなのでしょう。


END

作成:2023年5月11日


advertisement

Column


広告