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電子足跡:旧東海道歩き旅
 府中宿から六合駅へ
  丸子宿でとろろ汁を食べて宇津ノ谷峠を越す道


プロローグ
 

旧東海道を府中宿(静岡市)から島田宿の手前 JR六合駅まで歩いたページです。

府中宿では駿府城を訪れ、安倍川を渡り、丸子宿、宇津ノ谷峠、岡部宿、藤枝宿 と歩きました。
丸子宿では江戸時代から評判だった とろろ汁 を頂きました。
そして、宇津ノ谷峠はその下を4車線の国道1号線が通っているとは思えないくらい、江戸時代の面影が色濃く残る家並みと、古道を歩きました。旧東海道を通して歩かなくても、宇津ノ谷峠周辺だけを歩いても充分に旧街道歩きの魅力を堪能できると思います。


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歩きデータ
都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS移動距離
静岡 JR静岡駅-JR六合駅 府中宿、駿府城址、安倍川、丸子宿、宇津ノ谷峠、岡部宿、藤枝宿 2022/11/16 29㎞


GPSログをGoogleEarthで
ツアーする方法


府中宿
 


駿府城

駿府城は静岡市の中心地と云うべきか、駿府城を中心にその城下町である静岡市街が出来たと言った方が適切です。戦国時代、今川氏の府中館が在りましたが、武田信玄の駿河侵攻で今川氏の館は焼失。その後、武田氏が織田・徳川勢力により武田氏が滅びた後の天正13年(1585)に徳川家康により近代城郭として築城。徳川家康は2代将軍秀忠に将軍職を譲り、駿府城を隠居所としたのは有名な話です。


市街は城下町や宿場の風情はありませんが、街並みが何処となく洒落た感じがしました。


安倍川

安部川を渡る前に東海道中膝栗毛の話です。
弥次さんは、府中宿の知り合いからの借金に成功し意気軒高に伝馬町の旅籠に戻ってきました。
借金とはいえお金が出来ると気が大きくなるのは昔も今も変わらないようで、伝馬町から25丁(約2.7㎞)ほど離れた、安倍川東岸にあった二丁町の遊郭に登りました。ここでもドタバタ劇が描かれ、夜は更けていきました。
それにしても東海道中膝栗毛には遊郭や飯盛女(旅籠の遊女)、あるいは夜這いと、多くの房事の話が出てきます。房事の話ですが、あっけらかんとした健康的で明るい感じの話です。江戸時代は、房事はことさら隠すものではなく、おおらかに考えていたのかなと感じます。

安倍川餅
安倍川と云えば "安倍川餅" 橋のたもと に老舗という感じのお店がありました。朝早かったので準備中だったの残念です。
東海道中膝栗毛にも、昨夜の騒ぎで寝ぼけまなこの弥次さん北さんも朝帰りで伝馬町の旅籠に向かった道を、今度は反対向きに歩いて安倍川に向かって行きました。『まっすぐに行くと、弥勒というところにつく。名物が安倍川餅の両側の茶店は、いずれも小奇麗で、色里二丁町にほど近いせいか、はなやかな様子であった。』と描かれています。

安倍川
安藤広重 東海道五十三次之内 府中 安部川

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/40

広重は府中の浮世絵を宿場内や駿府城を描くのではなく安倍川の渡しを描いています。
他の宿場でも渡しの風景を描いているので、渡しは見る人達の大きな関心事だったのかも知れません。

さて、勿論、当時は安倍川は橋は無く徒歩渡りでした。
渡し賃は川の水位により変わり、東海道中膝栗毛には、水かさの高い所を肩車で渡って64文支払ったと書かれています。
ですが、弥次さん北さん達を対岸に渡した後、川越人足は直ぐ上流の浅い所を渡って府中側に帰って行って、弥次さん北さん達は悔しがったと描かれています。


それにしても、今日は富士山が奇麗に見えます。





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丸子宿
 

丸子宿は元々は鞠子と表記していました。
あまり大きな宿場ではなかったのですが、安倍川の川止めの時は賑わったそうです。

写真左:丸子宿本陣跡
写真右:丸子宿脇本陣跡


丁子屋 名物とろろ汁
丸子宿と云えば、多くの方が下の浮世絵に見おぼえがあるのではないかと思います。浮世絵以外にも東海道中膝栗毛にも描かれ、松尾芭蕉もここで俳句を詠み、昔から有名なお店でした。

まだ戦国時代だった慶長元年(1596)の創業。400年以上、この地で営々と営業を続けています。
諸説ありますが、この浮世絵は天保4-5年(1833-34年)の出版とされ、創業してから200年以上経ってからの丁子屋です。

安藤広重 東海道五十三次之内 丸子 名物茶屋

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/41


この店舗は昔からの建物ではなく、古民家を移築した建物だとの事です。鉄筋コンクリートの建物にしないで、浮世絵の様な建物を移築した経営者の方のセンスの良さを感じます。

旧東海道を歩くからには とろろ汁 は食べたいと思っていました。
シンプルな味わいは子供の頃に食べたとろろ汁を思い出しました。

そして、東海道中膝栗毛には、雨に降られた弥次さん北さんが、とろろ汁が名物の茶屋に駆け込み、とろろ汁を注文するも、亭主と女房が夫婦喧嘩を始めてしまい、散々な目にあう姿が描かれています。

それにしても、ご先祖の姿が浮世絵になって残っているって、歌舞伎役者と丁子屋くらいではないかと思います。
その上、ご先祖様の夫婦喧嘩の様子まで描かれているのは、ご先祖様を身近に感じられるのではないでしょうか。

宇津ノ谷峠

宇津ノ谷峠は
東海道名所記 萬治元年版(1659)に
『宇津山の峠は道せばく、難所なり。峠に地蔵堂あり。又下り坂口にも地蔵堂あり。清水ありて夏旅をたすく。蔦の細みち、左右は高き山にて、その間を通る。』
と書かれています。
東海道名所記に書かれた風景そのものの道が残っています。

ここに書かれている "蔦の細みち" は宇津ノ谷峠を越える道では最も古く、"伊勢物語" にもその名が出てくるそうです。平安時代から使われ、豊臣秀吉が小田原攻めで蔦の細みちの西側に新たに道を開削するまで使われていました。現在ではハイキングコースとして利用されているそうです。
旧東海道は豊臣秀吉が開削した道をベースに整備されたそうです。
更に、明治になると峠の下にトンネルを掘り、大正時代には旧東海道を迂回してトンネルが掘られたので、旧東海道の雰囲気が色濃く残されています。

写真左:旧国道1号線(現県道208号線)
写真右:現在の国道1号線


宇津ノ谷は間の宿でもありました。道沿いに風情の良い家並みが続いています。




家並みが途切れると宇津ノ谷峠への道が始まります。






宇津ノ谷峠


宇津ノ谷峠を越すと岡部宿はもう少しです。
安藤広重は岡部宿は宿場内を描かず、宇津ノ谷峠の風景を描いています。昔から有名な場所だったのでしょう。

安藤広重 東海道五十三次之内 岡部 宇津之山

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/42


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岡部宿
 

宇津ノ谷峠の山に挟まれた細い道を歩いてきて、岡部宿に着くと南側の空が開け明るく開放的と感じます。
岡部宿は所々に宿場だった頃を彷彿とさせる建物が残っています。なかでも、旅籠柏屋(かしばや)は国の登録有形文化財に登録されています。

写真左:大旅籠 柏屋  有料ですが公開されています。
写真右:岡部宿本陣跡




岡部宿の松並木
道の西側に約400mほど松並木が続いています。松並木があると、旧街道の雰囲気が格段に上がります。



岩村藩領・田中藩領傍示石

従是東巌村藩領傍示杭
国道1号線 藤枝バイパスを越えて、東海道中膝栗毛にもその名が出てくる朝比奈川を渡ると横内地区に入ります。ここに "従是東巌村藩領横内" と書かれた傍示杭が建っていました。岩(巌)村藩は美濃国(現在の岐阜県)の藩ですがこの地に飛地領が在り、陣屋が在ったそうです。


そこから道を挟んで反対側には "従是西田中藩領傍示石" が建っています。

従是西田中藩領牓示石


私が在住する新潟県長岡市の隣の柏崎市には、桑名藩の飛地領が在ったので飛地領はそれほど珍しい事ではなかったののかもしれません。

須賀神社のクス

樹齢およそ500年  樹高23.7m  根廻15.2m  目通り10.9m
圧倒的な存在感です。卑小な自分が恥ずかしくなります。



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藤枝宿
 


  街道の松の木の間に見えたるは
     これむらさきの藤えだの宿
   弥次郎兵衛

弥次さんも詠んだ様に、藤枝の地名の由来は、源義家(八幡太郎義家)が後三年の役(1083~1087)で奥州に下るとき、若一王子神社(にゃくいちおうじじんじゃ)に立ち寄り、そのとき裏山の松に藤のつるが絡み藤の花が咲き誇っているのを見て

  松に花咲く藤枝の一王子
     宮居ゆたかにいく千代をへん
   源義家

と詠んだ歌が由来だそうです。
藤枝は田中藩の中心地で、田中城は街道の東側に在りました。

藤枝の街並み
藤枝市は静岡市に次ぐ人口で、街並みも都会的な感じがします。一般的に大きな都市は宿場の雰囲気は希薄ですが、藤枝もその例にもれません。


安藤広重 東海道五十三次之内 藤枝 人馬継立

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/43

問屋場跡
広重が描いた問屋場の風景は現在では交番になっていました。
馬の代わりにお巡りさんのバイクが置いてありました。

写真左:問屋場・下本陣付近の風景
写真右:下本陣跡


田中藩領を越しました


田中藩領牓示石蹟

瀬戸川を越して2㎞弱の所に在ります。
前述の従是西田中藩領牓示石と対をなす史跡です。
田中藩の領域がどの程度の広さだったのかは分かりませんが、東と西の藩境の間は東海道を歩いて17㎞ほどで意外と近いです。

古東海道蹟
藤枝駅から西へ1㎞ほど離れた、藤枝市立青島小学校付近に在ります。かつての東海道は今は藤枝ゴルフクラブが在る山の方に道が続いていたそうです。

六合駅へ

古東海道蹟 が在る付近から西へ断続的に松並木が残っています。一本しか残っていない場合もありますし、10本単位で残っている場合もあります。歩いて行く先に松が見えると、一日歩いて疲れた気持ちが少しだけ高揚します。
ちょうど夕暮れになり、マジックアワーの中を歩きました。




エピローグ
 

かなり前、静岡を旅行していたとき、国道1号線の 道の駅宇津ノ谷峠 で食事をしたことがあります。その時は、そこに旧東海道が通っていて、宇津ノ谷峠が在るとは知らず通り過ぎてしまいました。

歩く前は、宇津ノ谷峠の道はさして期待していた訳ではありませんが、実際に歩いてみると、観光地化されている訳ではなく、旧街道のなかでもかなり良い雰囲気でした。

車で移動するのと、歩いて移動するのでは見える風景が全く異なります。


END

2023/07/13 作成


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