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電子足跡:京街道歩き旅トップページ
 東海道57次もうひとつの旧東海道を歩く
 京都山科 髭茶屋追分から大阪 高麗橋里程元標跡へ

京街道とは

このページは、京都山科の北部 旧東海道との追分『髭茶屋追分』 から 大阪市中央区 東横堀川に架かる高麗橋の東詰に在る『高麗橋里程元標跡』まで歩いた記録のトップページです。
宿場は 伏見宿-淀宿-枚方宿-守口宿 の4宿が置かれていました。

伏見宿は
豊臣秀吉が桃山に伏見城を築いてから城下町の側面と伏見湊の水運の物流の要所で大変賑わっていました。また伏見の酒で有名ですが大きな酒蔵が建ち並んでいます。

淀宿は
桂川・宇治川・木津川が合流して淀川になる流域に立地していて、豊臣秀吉の側室 茶々が 淀君と呼ばれるようになった城 淀古城跡がありますが現在は妙教寺になっています。
淀川になる手前で宇治川・木津川を渡ると、貞観元年(859)創建の石清水八幡宮が鎮座しています。石清水八幡宮に生茂る竹がエジソンが発明した白熱電球のフィラメントとして使われたことでも知られています。華麗な社殿に参拝すると清らかな気持ちになります。

枚方宿は
淀川水運と京街道の物流で栄えた宿場です。現在でも都会に在りながら宿場の雰囲気が残っています。宿場からは離れていますが、第50代桓武天皇の時代、征夷大将軍の坂上田村麻呂が東北地方に軍事進攻しましたが、軍事進行に抗い敗れた蝦夷(えみし)軍のリーダー 阿弖流為(あてるい)・母禮(もれ)が京に連行され処刑されたとされる『伝阿弖流為・母禮の塚』があります。

守口宿は
大阪の入口の宿場で商人や旅人にとって重要な宿場でした。文禄5年(1596)豊臣秀吉が築かせた淀川左岸の堤防=文禄堤 が京街道としても使われ現在でも歩く事ができます。

この様に、古代から幕末までの日本の歴史を強く感じる街道です。

旧東海道は57次
ブラタモリ "東海道57次の旅" でも紹介されましたが、
旧東海道は安藤(歌川)広重の東海道五十三次の浮世絵が有名なので、旧東海道は江戸から京都まで五十三次の宿場があったと思われていますが、豊臣家を滅ぼし大阪を掌握したのち、2代将軍秀忠は京都から大阪への街道整備に取り掛かりました。
三代将軍徳川家光のときに伊勢に庄野宿を設置して53宿になり、京都から大阪の間に 伏見-淀-枚方-守口 の4宿を置いて53宿+4宿で五十七次の街道として整備されました。
57の宿場とそれを繋ぐ道を江戸時代の人達は "東海道" と認識していたようです。

何故、京街道と言いながら、京街道が洛中を通らず、京の南端を通っているのかについては、ブラタモリでは天皇と参勤交代で通る西国大名を極力接触させないで、天皇家と武家が結びついて謀反を起こさないように徳川家が配慮した為と説明されていました。
注:旧東海道は日本橋から大阪まで57次の記述は【東海道57次 志田威  (株)ウェッジ】 を参考にさせて頂きました。

京街道 全行程ルート地図



上の地図が単独のウィンドウで開きます。
この地図を参考にして歩く場合はこちらをクリックしてください。



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京街道歩き旅の概要


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 1日目 2026年5月19日
滋賀県
/京都府 
東海道との追分 髭茶屋追分から伏見宿・淀宿 を通り石清水八幡宮へ 京阪京津線 追分駅 ~ 京阪本線 石清水八幡駅 26.0Km   (含む石清水八幡宮参拝)
髭茶屋追分、旧桓武天皇陵(谷口古墳)、藤森神社、伏見宿、黄桜カッパカントリー、寺田屋(竜馬暗殺未遂の舞台)、京橋、鳥羽口の戦い激戦地跡(鳥羽伏見の戦い)、伏見川湊、淀宿、淀古城跡(淀君の居城)、淀城址、桂川・淀川・木津川合流地点、御幸橋、石清水八幡宮、エジソン記念碑
2日目
       



初版作成:2026年11月01日


END

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