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電子足跡: 京街道歩き旅
 東海道との追分 髭茶屋追分から
  伏見宿・淀宿 を通り石清水八幡宮へ

プロローグ
 

このページは京街道を東海道との追分がある山科の北側 髭茶屋追分から桂川・宇治川・木津側が合流して淀川になる所の南側の山麓に鎮座する石清水八幡宮まで歩いたページです。
淀川の合流地点の北側は羽柴秀吉軍と明智光秀軍が戦った山崎古戦場があります。

この道は京都市街の南側にある伏見宿・淀宿を通ります。
伏見宿は
安土桃山時代に豊臣秀吉が伏見城を築城してからの城下町の側面と伏見湊による物流の一大拠点の側面があり、安土桃山時代、江戸時代を通して賑わった宿場です。
また、良質な地下水に恵まれ、日本酒の醸造が盛んで有名な日本酒の蔵が建ち並んでいます。幕末には坂本竜馬暗殺未遂事件の舞台となった寺田屋もあります。

淀宿は
桂川・宇治川・木津川が合流して淀川になる流域に立地していて、豊臣秀吉の側室 茶々が淀君と呼ばれるようになった城 淀古城跡がありましたが現在は妙教寺になっています。

本日のゴール地点は石清水八幡宮です。深い森に囲まれた朱に彩られた社殿は厳かな雰囲気の中にも華麗さを感じる社殿です。一度は参拝してみたいと思える社殿です。
また石清水八幡宮に自生する竹は、エジソンが発明した白熱電球のフィラメントに使われたことでも知られています。

歩きのデータ
都道府県 京都府
区間 京阪京津線 追分駅 ~ 京阪本線 石清水八幡駅
歩いた日 2026年05月15日
GPS移動距離 26.0km   (含む石清水八幡宮参拝)
通るビューポイント 髭茶屋追分、旧桓武天皇陵(谷口古墳)、藤森神社、伏見宿、黄桜カッパカントリー、寺田屋(竜馬暗殺未遂の舞台)、京橋、鳥羽口の戦い激戦地跡(鳥羽伏見の戦い)、伏見川湊、淀宿、淀古城跡(淀君の居城)、淀城址、桂川・淀川・木津川合流地点、御幸橋、石清水八幡宮、エジソン記念碑

歩きの地図



↑詳細ルートとポイントの写真が掲載された地図が単独ウィンドウで開きます。
GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
青:全行程   ピンク:本ページで歩いた行程  

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髭茶屋東海道追分から伏見宿へ
 

髭茶屋追分
スタートは京阪京津線追分駅のすぐそば、旧東海道と京街道の髭茶屋追分です。

写真の右に進むと旧東海道を通って京三条大橋へ、左の京街道を進むと大阪高麗橋です。
現在は、旧東海道を境に北(写真右側)が滋賀県、南(写真左側)が京都府の県境です。
髭茶屋の由来は、この地に髭が生えた老人が営む茶屋が在ったからと言われています。

実は髭茶屋追分の住所は滋賀県大津市になります。髭茶屋追分から京街道を歩くと100mほどの区間は滋賀県を歩きます。




   東面(正面):みぎハ京ミち
   南面:ひだりハふしミみち
   北面:柳緑花紅 法名 未徹
   西面(背面):昭和廿九年三月再建
と刻まれています。

この道標は昭和29年(1954年)に再建されたもので、元の道標は江戸時代中期に建てられて、現在は滋賀県立安土城考古博物館に保管されているそうです。
隣の『蓮如上人』と刻まれた石柱には明和3年(1766)と刻まれています。

振り返って髭茶屋追分方面を見ると、道筋のカーブが旧街道を思わせます。


名神高速道路の京都東IC
歩き始めて400mほどで名神高速道路の京都東ICの高架をくぐります。越屋根が付いた古民家と近代的な高速道路のコントラストが面白いです。

岩屋神社鳥居
京街道の東側に大きな鳥居があります。岩屋神社の鳥居です。御神体の陰陽岩はここから1㎞ほど東の山の麓付近に鎮座しています。
山科でも特に古い神社で、社伝では仁徳天皇31年(344)には御神体の陰陽岩を崇拝していたとされています。

山科川
山科盆地を北から南に流れるの宇治川の支流です。
この川に架かる勧修寺橋を渡ります。

勧修寺(かじゅうじ)前の道標
橋を渡ってすぐの突き当りに勧修寺があります。真言宗山階派の大本山です。突き当たった所に道標が建っています。



奥の道標の南面には
   右 大津 是より一丁 ??
 南
   左 京道 すべり石越 大??

手前の道標の東面には
   右 坂上田村麻呂公墓 山科滑石方面
   左 深草 小栗栖方面

手前の道標の南面には
   右 醍醐大津方面

昔の道標の精度を検証する
上記の道標の記述に刻まれた地名を現代の地図の地名から推測して場所と方向をプロットしたのが下の地図です。

第一印象は「昔の道標は随分と大雑把」という感じがします。
「こんな大雑把な道標で良く歩いて目的地まで行けたな⁉」とも思いましたが、現代の道路案内標識も地名と方向・距離を表示しているだけなので何も変わっていないのか、と思い直しました。

そもそも、かつて街道を歩く人達は、そこが初めて歩く道でも、旅人、馬方、駕籠かき、茶店など多くの人達が居たのでその人たちに道を尋ねる事が出来た為、それほど困る事は無かったのかも知れません。
現代になって、車という閉鎖空間の中で高スピードで移動している時代ではカーナビに頼ったり、スマホで調べたりしながら旅をする。時代が進んで便利ではあるけど、むしろ旅先でコミュニケーションの少ない孤独な旅になってしまったのかとも思いました。

山科区から伏見区へ
勧修寺付近から道は登り道になり、京都東山の南端、稲荷山付近の峠を越します。峠と言っても標高70mほどです。
この区間は名神高速道路に沿って続いています。
峠付近が山科区と伏見区の区境です。


伏見宿  "日本酒の街" "安土桃山時代の街"

現在は『伏見』と表記していますが、江戸時代は『伏水』と表記することもありました。
読んで字のごとく、良質な地下水に恵まれた土地で、言わずと知れた『伏見の酒』で有名です。
伏見の東側の丘陵は『桃山町』で "安土桃山時代"の "桃山" です。豊臣秀吉が晩年をすごした伏見城がありました。

伏見宿は伏見城の城下町から発展し、宇治川水運の伏見湊が在り物流の要所だったことから、
幕末 天保14年(1843)には
 伏見宿 人口:24,227人     家数:6,246戸
 大津宿 人口:14,892人     家数:3,650戸
 府中宿 人口:14,071人      家数:3,673戸
と他の宿場を引き離して大きく発展しました。

旧桓武天皇陵(谷口古墳) 浄蓮華院
伏見区に入って、峠を下った麓付近に旧桓武天皇陵があります。
なぜ "旧"と言われるのかという事ですが、現在宮内庁が桓武天皇の陵墓としている伏見区桃山町にある「柏原陵」とは別の場所です。かつて桓武天皇陵とされていた場所であり、明治になって「柏原陵」が桓武天皇の陵墓と比定された為にこの場所は旧桓武天皇陵と言われるようになりました。。

桓武天皇 天平9年(737)~延暦25年(806) は第50代天皇で、『鶯794平安京』で覚えた方も多いと思いますが、平安京(京都)に遷都した天皇として有名です。
さらに現在の東北地方に軍事侵攻し支配地を拡大しました。
このとき歴史の授業で習う 坂上田村麻呂 が征夷大将軍として東北地方に赴き、当時、蝦夷(えみし)と言われていた、阿弖流為(あてるい)・母禮(もれ)をリーダーとする先住の蝦夷軍と戦いを繰り広げました。
降伏した、阿弖流為と母禮は京に連行されて、この京街道沿いの、駅で言うと京阪本線の牧野駅のそばの牧野公園の『伝阿弖流為・母禮の塚』で処刑されました。

更に旧桓武天皇陵の北側100m程の所には仁明天皇陵があります。
よろしかったら足を延ばしてください。

藤森神社

平安京の守護、武運・勝運、そして馬の守護へと信仰を広げてきた、伏見・深草の古社です。

社伝では、創建は神功皇后(じんぐうこうごう)が新羅から凱旋した摂政3年(203)とされています。
神功皇后は『古事記』『日本書記』に登場する女性ですが『記紀』の記述は神話的な要素が多く史実かは不明です。

延暦13年(794)に平安京に遷都されると、朝廷との関係が深くなり、桓武天皇から『弓兵政所』の称号を授けられ、武運長久・平安京を守る神社として信仰されるようになりました。
5月5日には藤森祭が行われ、馬上でさまざまな技を披露する『駆馬神事』が行われ、競馬の勝利祈願や馬の健康・安全を願って参拝する人も多く訪れます。

旧山陽道と同じ街道筋です
藤森神社の西側の黒染駅前の道は2021年に歩いた旧山陽道で、ここから淀宿までは旧山陽道と京街道は同じ道筋です。

御駕籠町の道標
伏見板橋児童館前にある道標です。
 東 左り ふねのり場
 南 右 京大津みち

と刻まれています。
『左り ふねのり場』というのは意外な感じがしますが、伏見は宇治川の水運の川湊があり、物流の中心地でした。

伏見の中心部
宇治川の水運の川湊があり物流の要所でもあり、豊臣秀吉が築城し晩年を過ごした伏見城の城下町という側面もあったので伏見宿は現在でも大変な賑わいです。


日本酒の街 伏見

伏見には日本を代表するような蔵元が多く在ります。
そのひとつ黄桜に行ってみました。



黄桜と言えば、私たちの世代ですと子供の頃、白黒のブラウン管テレビから流れる『♪かっぱっぱー るんぱっぱー』のCMソングとともに、小島功さんが描いたカッパのキャラクターを思い出します。ギャラリーには小島功さんが描いたカッパの絵が複数展示されていました。
    

寺田屋
黄桜カッパカントリーの裏手には、幕末、慶応2年1月23日(1866年3月9日)に起きた坂本龍馬暗殺未遂の舞台になった寺田屋があります。

注:寺田屋の建物は鳥羽・伏見の戦いで消失したため、現在の建物は再建されたものです。





鳥羽口の戦い激戦地跡
寺田屋の前の道路の南側は豪川から分かれて宇治川に続く運河になっています。
その運河に架かる京橋の北詰に石碑があります。
日本史の授業で必ず習う戊辰戦争の端緒となった鳥羽伏見の戦いの激戦地です。

慶応4年(1868年)1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日の夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大阪から船でここ京橋に上陸。伏見御堂を陣地として戦い、劣勢になるや伏見奉行所に陣を構えた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの民家が焼けたそうです。このとき竜馬が襲われた寺田屋も焼けました。

三十石船乗り場跡
京橋の下の運河には、舟乗り場がありました。現在は伏見みなと公園として整備されています。

三十石船は米30石(約4.5トン)を積載する事が出来る船で、全長は約17m、幅は約2.5mほどの大きさで、現在で言えば屋形船のようなイメージです。
この川湊から、三十石船に乗船して大阪や琵琶湖方面に行く旅人、或いは伏見の酒樽を積んで江戸に出荷された事でしょう。

淀川両岸一覧 伏見京橋 刊行:文久3年(1863)
 伏見湊周辺を描いています。川に架かる手前の橋が京橋です。

  国立国会図書館デジタルコレクション

豪川=琵琶湖疎水
左側の写真は京橋から歩いて600m付近の豪川に架かる肥後橋の上から撮影した豪川の写真です。
右の地図は明治42年(1909)に測量した伏見付近の地図です。撮影した写真は地図の赤い三角形の位置から撮影しました。

文字が読み難いですが、地図に琵琶湖疎水と書かれています。
琵琶湖疎水は琵琶湖の南端の大津付近から山科の北側を通り、南禅寺の水路閣を通って京都市内に通水している事で知られています。琵琶湖で分かれた水は琵琶湖疎水として京都市内を潤して、ここ伏見で琵琶湖から流れ出た宇治川と合流しています。


注:地図は『今昔マップ on the web 埼玉大学 谷謙二』で提供されている地図をコピーさせて頂きました。

京街道は新高瀬川で分断しています。
伏見の街を過ぎると宇治川のほとりに出ます。
左の地図の様に本来の京街道は宇治川に沿って続いていたのですが、新高瀬側で道が分断しています。以前は通行止めになっている橋が架かっていましたが、現在は老朽化の為に撤去されています。
新高瀬川に沿って北上し、京阪本線の鉄橋の下を潜って迂回してください。


淀宿

戊辰役東軍戦死者埋骨地
淀宿の手前の京都競馬場の側に 『戊辰役東軍・西軍激戦の址』の木柱が建っており、『戊辰役東軍戦死者埋骨地』 と刻まれた石柱がありました。"東軍戦死者" と刻まれているところをみると、鳥羽伏見の戦いで戦死した会津藩・桑名藩・新選組隊士など幕府軍兵士の墓という事だと思います。
想像ですが、故郷の会津や桑名を離れ、この地で時代の波に翻弄され散って行った兵士は家族や親族がこの地に居ない為、供養する人もなく、哀れに思った方々が建立したのだと思います。
2021年に旧山陽道としてこの道を通ったとき、生花が供えられていて驚いたのですが、今回も生花が供えられて供養されています。

淀宿の家並み
淀宿は桂川と宇治川が合流して淀川になる合流域にあります。
と言っても安土桃山時代や江戸時代初期の地形は現在とは大きく異なり、東側には巨椋池(おぐらいけ)があり、淀宿周辺は大きな中州が集まっていました。
注:この絵地図はhttps://sen-it.net/の
『発掘調査(平安京左京五条三坊)、三川合流、平安末期の巨椋池、奈良時代の京都』のページに掲載されていた絵地図を使わせて頂きました。赤の楕円マークは筆者追記。




淀古城跡=妙教寺付近  秀吉の側室淀君の居城
豊臣秀吉の側室茶々が淀殿とか淀君と呼ばれていた事は良く知られています。茶々が懐妊して "淀" に在った城を修築し、その城を茶々の出産場所として与えた事から、茶々が 淀の方・淀殿・淀君 と呼ばれるようになりました。
ですが、その淀城は現在残っている下の写真の淀城跡ではなく、そこから北に600mほど離れている妙教寺付近にありました。そちらは現在は淀古城跡と言われています。

淀城址
元和9年(1623)徳川秀忠の命で築城が始まり、松平定綱が初代藩主になりました。淀藩の政治の中心であり、京都を守る役割を果たし、淀川の水運と街道交通を管理する拠点となりました。
明治4年(1871) 廃藩置県により淀藩が廃止され、淀城も廃城となり現在に至っています。




石清水八幡宮

本日の行程は京阪本線 石清水八幡宮駅 まで歩いて終了です。
この地は桂川・宇治川・木津川が合流して淀川になる流域です。

石清水八幡宮は宇治川・木津川に架かる御幸橋を渡ります。
渡った先の石清水八幡宮駅の南側の山に石清水八幡宮が鎮座しています。写真中央の山の上です。

山崎の戦い(天王山の戦い)
写真奥の山が天王山です。その麓が大山崎です。
天正10年6月13日(1582年7月2日) 桂川・宇治川・木津側が合流域の西側、大山崎で中国大返しでこの地に進軍した羽柴秀吉軍と本能寺の変で織田信長を討った明智光秀軍が戦いました。
山崎の戦いは『旧山陽道(西国街道)歩き旅 京三条大橋から芥川宿へ』 に掲載していますのでそちらを御覧ください。

石清水八幡宮
創建は貞観元年(859)。平安京と国家を守る為に創建されました。
天皇家や武家の信仰を集め、天皇や上皇もたびたび参詣しました。

鎌倉に鶴岡八幡宮が鎮座していますが、鎌倉に幕府を開く前から源氏一族は八幡大神を一族の守護神として信仰していました。源義家は石清水八幡宮で元服し、その後 八幡太郎義家(1039~1106) と名乗りました。東北の豪族の安部氏と戦った『前九の役』 や『後三年の役』で武功を上げました。
八幡太郎義家は鎌倉幕府を開いた源頼朝の4代前の先祖にあたります。




石清水八幡宮の竹林は20世紀を照らした!?
時は下り明治12年(1879)エジソンが白熱電球の開発に成功しましたが、フィラメントが直ぐに切れる問題に直面していました。

何千種類ものフィラメント材料を試しその中から、研究補助員のウィリアム・H・ムーアが採取した石清水八幡宮の竹を加工したフィラメントが約1000時間点灯する事を突き止め白熱電球の量産化に大きく貢献しました。その後、約10年間にわたり石清水八幡宮の竹を使った電球は量産され世界中に出荷されました。
その後、更に改良が進みタンタルやタングステンの金属材料が使われるようになり世界中を照らしました。
石清水八幡宮の竹が白熱電球に使われた事を記念して、石清水八幡宮の境内に上の写真のエジソン記念碑が建っています。

エピローグ
 

本文にも書きましたが、京街道の黒染駅前から淀宿までは旧山陽道と同じ道筋です。
この区間は2021年にも歩いていますが、同じ道でもその時は立ち寄らなかった場所や新しく気が付いた事などがあったり、そうかと思うとこの場所はあまり変わらないなと思ったり、懐かしさと新しさが入り混じった不思議な感覚で歩きました。

END

2026/11/01 初版作成
  

Column


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