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電子足跡:奥州街道歩き旅
 前沢宿から金ケ崎宿へ
  胆沢扇状地と胆沢城跡を通る道

プロローグ

奥州街道を前沢宿-折居宿(間宿)-水沢宿-(胆沢城址)-金ヶ崎宿へと歩いたページです。

この道は奥羽山脈から流れ出る胆沢川などが作った日本で最大級の胆沢扇状地の扇端部分を歩く道です。
胆沢扇状地は扇頂部から扇端部までおよそ20km,面積約2万ヘクタールと日本でも指折りの大きな扇状地です。

下の地図、左は胆沢扇状地で、ピンクの線は奥州街道でこの日は22㎞歩きました。右は同じ縮尺の東京の地図です。赤色の線は山手線です。山手線が胆沢扇状地にすっぽり入ってまだ余る広さです。如何に広大な扇状地かが分かります。

本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。

扇状地の扇端部では伏流水になっている水が湧き出すため、扇端部では人が集まり易く集落が出来易かったのだと思います。
集落があればそこを往来する道ができ,その道が現代まで続いているのだと思います。

またこの道は日本史の教科書にも出て来る桓武天皇の治世,坂上田村麻呂らによる東征のとき,それに抗った蝦夷の族長と言われている阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)をリーダーとした蝦夷軍との10数年に渡る戦いの地でもあります。
蝦夷軍降伏直後に造営された胆沢城址の広大さは当時の朝廷の東北地方侵略支配が如何に強大だったのかを物語っています。


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区間 通過する宿場  歩いた日 GPS移動距離
前沢駅-金ヶ崎駅 前沢宿-折居宿(間宿)-水沢宿-(胆沢城址)-金ヶ崎宿 2018年10月18日 22.0km

    
GPSログをGoogleEarthで
ツアーする方法


  ↑地理院地図(電子国土Web)に詳細ルート地図
とポイントの写真が開きます。

本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。

前沢宿

仁衛堂薬局の看板
前沢駅から街道筋に向かう途中にあります。店先だけ見ると地方の古い薬局と思うだけですが,目を二階に転じると「えっ!」と思う物凄く凝った造りの看板です。

新修 五街道細見には 前沢宿の手前の「瀬原」という所に「金命丸と云う薬あり」と書いてあります。
仁衛堂をインターネットで調べたら,元々は衣川村瀬原にあったのが現在地に移転したとの事で,「金命丸」の製造元だそうです。
薬の名声が高まると,同族の中にこの薬を販売して本舗と名乗るものが出た為,真の製造元を示すために看板に「本家」と書いたとの事です。
昔の当事者達は死活問題だったのかもしれませんが,温泉地の饅頭のみならず薬まで本家・元祖を争う事があったと知ったらなんか微笑ましい感じがします。


前沢宿の家並
少し中途半端な感じですが枡形の様なクランク状のカーブ。家の多くは建て替わっていますが,下の写真の太田家住宅(太幸邸)は趣があります。

説明板によると主屋・表門・前座敷・炊場は日露戦争後の不況,大凶作の救済事業として,材料・職人のほとんどを地元で賄って明治43年に建てられたとの事です。

太田家住宅(太幸邸)


胆沢扇状地の扇端部分の風景
前沢宿を過ぎ扇端部分と北上川の氾濫原の境目を歩きます。
写真左側に森が写っていますがこれが胆沢扇状地の端の扇端部分です。

扇端部分は湧水が豊富なので集落が発達し,かつ目の前の北上川の氾濫原で稲作が出来る為か立派な長屋門を構えた大きな農家が目立ちました。



折居宿(間の宿)

折居宿付近で扇状地の扇端部を北上川が浸食した河岸段丘涯を登り高台に上がります。

小さな社の右側に街道が続いています。
木々に包まれた未舗装の道を登り切ると突然風景が変わり広大な扇状地が広がります。
と言っても広すぎてここが扇状地とは思えないです。

一般的に扇状地は水はけがよく保水力が無いので水田には適さないのですが,ここでは先人達の土地改良や灌漑の努力で豊かな水田に変っています。


ここから先は圃場整備の為か旧街道の道筋は定かではありません。
旧街道と思えた道を進みましたが行き止まりでした。
少し離れた農家の脇に地理院地図には掲載されていない細い道が見えたので進む事にしました。意外にも未舗装の古い道が続いており小川には橋もあって対岸に渡れました。この道が旧街道なのかは分かりません。


水沢宿

胆沢扇状地の扇端部分にある大きな市街です。水沢城の城下町として発展し政治・経済の中心地でした。みちのくの小京都とも言われています。現在は町村合併で奥州市になっています。
水沢は面白い土地で通り過ぎるだけではなく,今度はゆっくりと訪ねてみたい土地です。

古代朝廷政権の征夷大将軍紀古佐美(きのこさみ)や坂上田村麻呂らの侵略に抗った阿弖流為(あてるい)は水沢付近を本拠地にしていたという事です。
衣川の南に駐留していた朝廷軍は延暦8年(789年)衣川を越えて進行し巣伏(現在の水沢の四丑=しうし付近と言われている)に至ったが地の利を得た阿弖流為らの反撃に会い大きな被害受け敗退したとされています。

水沢宿の家並
みちのくの小京都と言われているだけあって街道沿いにも古い建物を見る事ができます。

写真左:大町付近   写真右:上伊沢代官所跡


古布工房 花松里


胆沢城跡

延暦21年(802年)征夷大将軍紀古佐美から替わった坂上田村麻呂により阿弖流為(あてるい)・母礼(もれ)をリーダとする蝦夷軍は敗れて降伏します。ここに10数年に及ぶ蝦夷軍の抵抗は終わります。
阿弖流為と母礼は京に送られ現在の大阪府枚方市で処刑。処刑地は枚方市牧野坂2丁目 牧野公園内の阿弖流為・母礼の塚と言われています。
その後 東北地方は 律令制度 による支配が本格的に始まります。

征夷大将軍の坂上田村麻呂が造胆沢城使を兼任して,その年に胆沢川が北上川と合流する土地に造営されます。宮城県多賀城市の国府多賀城から軍政を司る”鎮守府”が移され東北地方の支配が北進してきます。

多賀城もそうなのですが,下の政庁正殿復元図の写真を見ていただくとわかりますが、城とは名がついていますが,山城や近世の天守閣を中心とした城とは異なり、平地に高い築地塀に囲まれた寝殿造りの様な建物を中心とした城でした。

説明板によると
外周は櫓が付く外郭築地(ついじ)と内外の溝で方形に区画されて,外郭築地の長さは一辺約670m,総延長2.7km。外郭築地には南門と北門が見つかっているとの事です。

奥州街道(現県道270号線)は外郭南門と政庁南門の間を斜めに横切っています。

南大路と外郭南門付近の築地(一部を復元)


政庁跡


写真左:政庁正殿跡
写真右:政庁正殿復元図


金ヶ崎宿

説明板によると
金ヶ崎は北上川の西岸にあった金ヶ崎城の城下町として発展しました。北上川河岸に城郭,その西に家臣の屋敷,更に西に奥州街道とその沿道に足軽屋敷と宿場がありました。

下の写真を見ると気が付くかと思いますが,他の城下町でよく見る武家屋敷と異なり農家の雰囲気もあります。主屋の裏は広い畑になっており半士半農の暮らしをしていたとの事です。
金ケ崎の町割りは典型的な近世城下町の配置との事です。

金ケ崎宿の街並み


武家屋敷


エピローグ

この道は胆沢城址に象徴される古代朝廷の東征=東北地方侵略の歴史を強く感じました。
歴史が詳しい訳ではありませんし,判官びいきという事もありますが,侵略された側に強い共感を覚えます。
今,世界から注目されている縄文時代ですが,縄文時代や弥生時代の生活さながらに狩猟・採集・農耕をして平和に暮らしていたところに,鉄の武器と鎧で身を固めた軍隊が大挙押し寄せて,武力=暴力で土地を奪い蝦夷と言われた人達を追いやった史実を心情的には素直に受け入れる事は出来ません。


END

2019年10月16日 ver6.07.01 胆沢城跡の記述を一部変更
2019年02月13日 作成 

Column


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