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電子足跡:壬生街道歩き旅
 小山喜沢追分から今市追分へ


プロローグ


このページは壬生街道を栃木県小山市喜沢追分から壬生宿、楡木宿の日光例幣使街道との追分、そして杉並木を抜け今市の日光街道の追分まで歩いたページです。

壬生街道は日光西街道とも呼ばれ、日光街道を栃木県小山市の喜沢追分で日光街道と分かれ、川港としても栄えた壬生城下を経て、楡木で日光例幣使街道と合流し、宿場としても栄えた鹿沼城下を通り、今市で日光街道と再度合流する街道です。宿場は飯塚、壬生、楡木、奈佐原、鹿沼、文挟、板橋の7宿設けられていました。

東照宮に参拝するには小山宿から今市宿まではほぼ直線的に北上するので日光街道よりも1里ほど距離が短いとされていました。


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道は舗装され建物は建て替わっていますが、途中下野国分寺跡を通り、その周辺の古墳群を見ながら歩けたり、一里塚も数多く残っています。関東平野の旧街道ではこれまで歩いた中山道、日光街道、日光例幣使街道、甲州街道と比べても、古代・近世の遺構が多く点在する少し驚く街道です。
そして何よりも壬生街道のクライマックスと思える日光の杉並木の中を歩く区間はほぼ江戸時代です。

また、松尾芭蕉と河合曽良は室の八島(大神神社)を訪れていますので少々寄り道していますが、壬生街道は元禄2年(1689年)に松尾芭蕉と河合曽良が歩いた道でもあります。

都道府県 区間 歩いた日 GPS
移動距離
備考
栃木 小山市喜沢追分-楡木駅 2020年6月11日 23.5km 午後雨
栃木 楡木駅‐今市追分 2020年6月13日 27.1km 一日中雨
    合計 50.6km  

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壬生街道概略地図
カシミール3D 国土地理院 
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


小山宿喜沢追分

喜沢追分はJR小山駅から265号線を北北東に向かって3kmほど進んだ所にあります。
265号線に斜めに接続している細い道が日光街道です。
左に曲がり現在の18号線が壬生街道です。

喜沢追分以北の日光街道に関しては本ホームページの日光街道 小山から宇都宮城址 のページをご覧ください。

喜沢追分


男体山碑兼道標
交差点には幾つかの石柱が建っています。
その中の一つ男体山碑は道標も兼ねており根元に 「右奥州 左日光」と刻まれています。

説明版によると
天保六歳三月に歌ケ浜小斧吉力士二荒山神大願成就して日光壬生喜沢の有志が補助をしてこの分岐点に建立した。しかし旅人が壬生街道を通って日光に行くのを恐れた奥州街道(日光街道)の人達によって何度も倒されては建て直しをしたが、それを憂いて明治四十四年に日枝神社の境内に移転したものを、平成31年に元のこの場所に復元したとのことです。

ですので、
平成28年
に日光街道を歩いてこの場所を通ったときの写真には
この男体山碑は写っていません。

ゴルフ場の中の一里塚・古墳
左に曲がって壬生街道を少し進むと街道の両脇はゴルフ場になっています。
冒頭に壬生街道は古墳や一里塚が多く残っていると書きましたが、街道の左(西側)の歩道を歩くとゴルフ場の中に一里塚と古墳を見ることができます。

古墳は5~6世紀にかけて築造されたとされ、5基の古墳が存在し、下の写真の桑57号墳では天冠などの副葬品が多く出土したとのことです。

のっけから一里塚・古墳を見ることが出来てこれから先の風景に否が応でも期待が高まります。

写真左:西一里塚
写真右:喜沢古墳群 桑57号墳 (帆立貝式 高さ約5m 面積390平方m)


飯塚宿


天平の丘公園は喜沢追分から6kmほど歩いた所にあります。
名前から推測出来るように、8世紀に建立された 下野国分寺・国分尼寺跡を中心に整備された公園です。
周辺には古墳が点在し、古代日本を感じることができる場所です。

七面堂
天平の丘公園の少し手前の妙典寺というお寺の道路を挟んだ前にありました。
七面堂は築山の上にお堂が建っており周りは高い木立が生い茂っています。
石柱には ”末法鎮守七面大明神” と刻まれていました。

ただ、この築山の形に少々引っかかるものがあります。

摩利支天塚古墳
栃木県の中では最大の前方後古墳で5世紀末~6世紀初頭に築造されたと推定されています。
全長117m  前方部:幅75m 高さ7m  後円部:直径70m 高さ10m 
大きくて全体を撮影する事が出来ませんでした、前方から後円墳を撮影した写真です。


琵琶塚古墳
摩利支天古墳から300mほど北にあります。琵琶塚古墳は摩利支天古墳に次ぐ規模の古墳です。
街道筋から水田越しに見ることができます。


飯塚一里塚
琵琶塚古墳をから500mほど北、天平の丘公園の手前にあります。塚が一対で残っています。
車で通ったらもしかしたら気が付かないかもしれません。

天平の丘公園付近


下野国分寺跡
説明版によると、各地にある国分寺と同様に奈良時代 天平13年(741年)、聖武天皇の詔に全国60数ヶ所に建てられた寺院のひとつです。

敷地は東西413m、南北457mで奈良の東大寺と同じ形式で伽藍は南大門・中門・金堂・講堂・僧房が南北に配置され、中門と金堂は回廊で繋がっていました。塔は七重と推定され回廊の外側東方に置かれいました。  金堂・講堂を挟んで東西には経蔵と鐘楼がありました。







その場に立ってこの風景を見ると、古代から変わらないと思える風が吹いていたり、草の香りがして、古代に思いをはせながら風景を見ますが、写真で見るとただの整備された原っぱという感じにしかならないのが残念です。
写真の腕をあげなければだ。

兜塚古墳
整備された下野国分寺跡の敷地内にあります。
説明版によると
6世紀後半に築造された、帆立貝形の前方後円墳で墳丘は推定全長80m。
凝灰岩の切り石を使用した横穴式石室が前方部の前端に確認されているとのことです。

また、人や馬、機織り形の埴輪や土器が360個以上出土しているとの事です。

おくのほそ道の道筋
松尾芭蕉と河合曽良は飯塚の宿はずれから左に曲がり、川を越えて、総社河岸という船着き場で上陸して、室の八島(大神神社)を訪れてから、毛武村(現在の癸生)を通って壬生に行っています。

壬生宿


壬生は比較的大きな町でです。壬生城の城下町、宿場町として栄えました。
おもちゃの工業団地があることから おもちゃの町 としても知られています。
その壬生市街には黒川を渡ると最初に壬生一里塚が出迎えてくれます。

壬生一里塚
残念な事に西側の塚しか残っていませんが、塚は良い形ですし、塚木もあります。
説明板によると日本橋から数えて23里目の一里塚です。

この一里塚は、壬生城の入り口に当たるため、将軍が東照宮に参拝する際は、壬生城主はここで出迎えたとの事です。

当然ですが、私を出迎えてくれる人達はいませんでした。

写真左:壬生市街 壬生宿本陣 松本家付近
写真右:松本家絵図 (案内板の絵を転載しました)


壬生城址
現在の場所には、文明年間(1469~1486年)に壬生氏第2代当主壬生綱重によって築城されたとの事です。
戊辰戦争では新政府軍側に付いて、宇都宮城攻略の拠点になりました。明治4年(1871年)廃藩置県後、城は取り壊され堀や土塁も破壊されたとの事です。(Wikipediaより)

現在は再現された大手門や、残された土塁などの遺構を活かして公園として整備されています。



藩医石崎家
重厚な長屋門が印象的ですが、代々藩医を務めた石崎家です。長屋門を利用して商店になっているところが現代的な感じがします。


慈覚大使誕生地 壬生寺
町外れに近いところにあったお寺です。
半年ほど前に日光例幣使街道を歩いた時に、JR両毛線岩船駅そばの三毳山(みかもやま)の麓にも ”慈覚大師円仁誕生地いわふね” と大きな看板が建っていました。
ここからは直線距離で19kmほど離れています。

どちらが本当かを詮索しても仕方がないですが、温泉地の饅頭の本家と元祖みたいで面白いです。

(伝)金売り吉次の墓


壬生市街を離れて北関東自動車道の高架を越えたコンビニのそばにひっそりと建っています。
金売り吉次は平安時代末期に奥州で産出する ”金” を京で商っていた商人ですが、源義経主従が平泉に落ち延びる時に主従の手助けしたと伝えられています。

説明板によると
吉次は落ち延びる義経主従の供をして、この稲葉の地まで来ましたが病に倒れてここで生涯を終えました。
里人たちによりここに葬られたとの事です。

江戸時代『奥の細道』で知られる松尾芭蕉に随行した曽良の日記に、
 「壬生ヨリ楡木へ二リ。ミブヨリ半道バカリ行テ、吉次ガ塚、右ノ方二十間ハカリ畠中ニ有り。」
と記されています。

写真の車が走っている道が壬生街道です。


元禄2年3月29日(1689年5月18日)芭蕉と曽良はこの地を訪れていますが、畠が水田に変わっている以外 「吉次ガ塚、右ノ方二十間ハカリ畠中ニ有り。」との記述の通りの位置に金売り吉次の墓があります。
芭蕉と曽良は金売り吉次の墓を見ながらどんな言葉を交わしたのだろうと思います。

金売り吉次の墓はこの地以外に、奥州街道の白河宿手前の白沢宿にもあります。こちらは街道筋から少し離れた場所にあり、吉次兄弟の墓とされ作りも立派な墓です。
同じ様にそこで盗賊に襲われて亡くなった金売り吉次を憐れんで村人達が葬ったと言われています。

どちらの墓がどうなのかは分かりませんが、昔の旅は過酷で、行き倒れたり、盗賊に殺害されたりする事があったのだと思います。それを村人達が丁重に葬る事が多々あったのだと思います。死者に対する畏敬の思いを持った、日本人の優しさを感じます。

一里って何km?  稲葉の一里塚・北赤塚一里塚


金売り吉次の墓から直ぐの所に日本橋から24里目の稲葉一里塚があります。
そして北赤塚一里塚が次の一里塚で25里目です。
片側しか残っていなかったり、歩道をつける為に削り取られたりしていますが続けて残っています。
前出の壬生一里塚は23里目ですので、この区間は23里、24里、25里と3っ繋がって一里塚が残っている事になります。

ちなみに稲葉一里塚と北赤塚一里塚間の距離を352号線に沿って測定したところ約4.5kmでした。
一里塚は3.927km毎に作られたと言われているので少し長めな距離でした。
長い理由は、江戸時代の測量が大雑把だったのか、後年道の改修で道筋が多少変わったのかなど理由は分かりませんが、もし測量が大雑把だったとしたら、なんとなく江戸時代の人達の鷹揚さを感じます。

まあ、明治以前は時刻も不定時法で日の出/日の入りの時刻で季節によって一刻(いっとき)の長さが変わるし、大雑把というか、現在の様に1分1秒で物事が進む訳ではないので、生活のリズムが緩い良い時代だったのではないかと思います。

写真左:稲葉一里塚
写真右:北赤塚一里塚


判官塚古墳


北赤塚一里塚の手前で街道から見ることができます。

前方後円墳で古墳時代後期の築造とされています。
後円部に横穴式石室があり、羨道の一部が破壊されている以外は完全な形で残っており、玄室の奥壁には巨大な石が据えられ、天井は長方形の2枚の巨石で覆われています。

名前の由来は源義経に由来するなど幾つか伝説が伝わっているとの事です。(鹿沼市ホームページより)

稲葉一里塚から判官塚古墳に来るまでの僅かな時間に天気が崩れ大雨になりました。
梅雨空は不安定です。

楡木宿 例幣使街道追分 


現在の293号線と352号線の日光例幣使街道と壬生街道の追分です。
そうと知らなければ何てことのない道路です。



追分の道標
風化が激しいですが 「右 中山道」「左江戸道」と書いてあるとの事です。」

道路改修前はここより50m程北側に在ったのを現在の場所に移したとの事です。

今日は楡木駅周辺に駐車場が見当たらなかったので、少し離れた楡木神社に駐車しました。
無断駐車になってしまうのかもしれませんが、一応お賽銭を上げて旅の安全を祈ると共に駐車させてもらう旨を神様に伝えて駐車しました。ということで楡木神社まで行って今日の歩きは終わりです。

楡木宿


日付は変わって楡木駅からスタートです。朝から雨模様です。
楡木宿は宿場町の面影は希薄になっています。想像ですが旧街道を拡幅して現在の道路を敷設したので建物も建て替わったのではないかと思います。


奈佐原宿


楡木宿と奈佐原宿はかなり近くて1km程度しか離れていませんでした。
現在では家並みが続いているのでどこから奈佐原だったのか判然としませんでした。

奈佐原文楽用具収納庫(栃木県重要文化財)
文化年間(1804~1818年)から人形浄瑠璃が地元同好者により演じられきましたが、衰退していましたが、明治25年(1892年)に再興して、昭和28年(1953年)栃木県民族無形文化財に指定され、この収納庫には文楽人形頭20頭が保管されているとの事です。

奈佐原宿の家並み


鹿沼宿


鹿沼は園芸などで使用する鹿沼土と学生のときに鹿沼市出身者が居たくらいしか接点がありませんでした。初めて訪れましたが意外と大きな町だったので少々驚きました。

鹿沼は古代・中世は二荒山信仰の修験者が通る道であり、足尾の鉱物を運ぶ道でした。戦国時代は鹿沼城が築かれ城下町の側面を持ち、江戸時代になると壬生街道の宿場町として栄えました。
明治になると、電柱の需要が急増して林業・木工業の町として発展しました。
上記の学生の時に知り合った鹿沼出身者は高校生の時に、山仕事を手伝ったと言っていた事を思い出しました。

鹿沼市街の街並み
すこし複雑な気持ちになるのですが、日光例幣使街道を群馬の倉賀野追分から歩いたときは説明板に、日光例幣使街道は楡木の追分までと言う説明が多かったのですが、ここには ”日光例幣使街道” と書かれた石柱が建っています。ここ以後 ”日光例幣使街道” と書かれて事が多かったです。
”一粒で二度美味しい” ではないですが、壬生街道でもあり日光例幣使街道でもあると思って、細かな事は気にしないで歩きます。



芭蕉・曽良像
鹿沼産の杉にチェーンソーアートで作られています。
新型コロナウイルスの為マスク着用です。

鹿沼は松尾芭蕉がおくのほそ道で深川を船で出立して千住で下船。千住を矢立の初めの地としています。 
曽良旅日記によれば、その後、粕壁(春日部)、間々田、と宿泊して元禄2年3月29日(1689年5月18日)鹿沼で投宿しています。

歩道が整備されています。
ここまで歩いてきましたが、大半の区間は歩道が設けられていて、歩きやすい道でした。


杉並木が本格的に始まります  杉並木寄進碑


杉並木寄進碑は文挟宿の手前2.5km程手前にあります。ここから本格的な杉並木が始まります。

松平正綱公が寛永2年(1625年)から東照宮の参道に杉の植林を開始して24年の歳月をかけて日光杉並木を整備して東照宮に寄進した事を記念して石碑が建てられました。

松平正綱は家康の側近として仕え、家康の死後は久能山東照宮への埋葬、駿府城の遺産管理を担当し、家康の日光東照宮への改装にも関わったとの事です。
家光の命を受け日光東照宮の造営に従事し、杉並木の植林を行いました。(Wikipediaを要約)



杉並木は保護のために一部車の通行を規制している区間がありますが、多くは狭い道幅を車が普通に通行します。
ですが、大半の区間は脇に側道が設けられていてそちらを歩くことができます。杉並木の中を歩けないのは残念ですが、事故にあうリスクを考えたら側道を歩く方が安心して歩けます。
ただ、側道と言っても写真の様な下草が生えて、けもの道の様になっている場所もあります。

杉並木の側道


文挟宿


文挟宿も宿場の雰囲気は希薄です。宿場外れに二荒山神社が在るのですが、その境内に 「文挟宿郷倉」 と書かれた建物がありました。

説明板によると、江戸時代の元禄・天明・天保などの大飢饉で、多くの餓死者や倒産する家が多発した為、村民が協同で郷倉を建て、飢饉の時に備えて貯穀をしたとのことです。郷倉は栗材で建てられたしっかりした造りで、中からは稗(ひえ)も発見されているとの事です。

写真左:二荒山神社
写真右:文挟宿郷倉




板橋宿


板橋宿は今市の追分までの最後の宿場です。
これまでの宿場町とどこがどう違うとか、明確なものは無いのですが、どことなく往時の宿場の雰囲気を感じます。



板橋宿の家並み
右の写真の文挟交差点付近に小さく写っている食堂 「むらかみ」 で昼食をとりました。

雨でグチョグチョだったので、そのまま中に入るのを躊躇していたら、雨具を暖簾の脇に掛けてくれて中に入れて頂きました。
家族で経営しているらしく、母親が調理をして元気の良い娘さんがウエイトレスをやっていました。
私が街道を歩いていると分かった様で、何も言わなくても水を何回も注いで下さったり、通常は紙ナプキンですが、特別におしぼりを出して頂いたり、色々と話しかけて頂いて、どこから歩いて来たのかとか、どこに住んでいるのかとか聞かれました。
娘さんが言うには、少し前も街道歩きのグループの方達が10数人で食事をして行き、後で一緒に写した写真を送ってくれたと嬉しそうに話していました。街道歩きでこういう食堂に入るとこちらも嬉しいですし、ホットした気持ちになります。「むらかみ」食堂の皆さんありがとうございました。



再び杉並を通る道


「むらかみ」食堂で焼うどんを食べ、娘さんに元気をもらい、体力と気力が回復したところで最後の歩きです。

板橋宿の宿はずれで左に曲がると杉並木が続いています。
ここから1km弱の区間は杉並木保護のため交通規制がされていて車は通りません。(注:恒久的に規制されているか否かは分かりません)
杉の落ち葉が積りフカフカな杉並木の道を車を気にせずゆったりと歩いていきます。





側道は整備されていません
交通規制区間が終わると車が通るようになりますが、板橋宿から今市手前のJR日光線の踏切までの区間はこれまでの様な側道は整備されておらず、杉並木の中を歩きます。
ですが、季節や時間帯などによって多少変わると思いますが、歩いている間に対向車とすれ違ったのは25台位でしたので交通量はかなり少なく、あまり車が怖いという事はなかったです。



地震坂
説明板によると、昭和24年12月26日(1949年)今市市を中心に起きた地震の地滑りによって杉並木が移動した坂で、本来の街道は崩れた崖の上を通っていたとの事です。
地形を見ると小さな崖の下に土砂が積り崖崩れした痕跡があります。


十石坂
東照宮造営のとき、黒田長政が東照宮の大石鳥居を運んできたとき、この坂を越えるのに大変な人手を要し、ついに米十石(約1500kg)を食べてしまった事から十石坂と言われるようになったとの事です。(栃木県ホームページより)

いよいよゴールの日光街道追分です
JR日光線の踏切を越えるとゴールは間近です。
日光街道(119号線)まであと150mの道路標識がありました。


壬生街道から日光街道の追分を望む


写真左:日光街道から壬生街道を望む
写真右:日光街道杉並木を望む


日光街道 今市市街
この道を進んで行くと東照宮に行きます。

今日は一日中雨模様でした。追分のすぐそばに ”道の駅 日光街道ニコニコ本陣” に車を止めておいたので道の駅まで行って壬生街道の歩き旅は終わりです。
この道の駅は今市市街にあり、JR今市駅と東武下今市駅も近く大変便利です。
また、”船村徹記念館”が併設されていて観光客もみかけました。

日光街道へジャンプ
追分から先の日光街道は2016年3月3日に歩いて東照宮まで行きました。
宜しかったら ”NEXT” ボタン をクリックしてご覧頂ければ幸いです。

やしおの湯
この後、昨日道の駅で知り合った浜松でホテルマンをやっていて最近リタイヤーして車中泊で一人旅をしている方に教えて頂いた、日光方面に13kmほど行った ”日光和の代温泉 やしおの湯” に行って汗を流しました。建物は新しいですし大きな温泉施設です。なんと言っても料金が日光市民は300円 市外の人は510円。65歳以上は市民200円 市外340円とリーズナブルな価格でした。

エピローグ


今回の歩き旅の一日目は朝のうちは曇りだったのですが、歩き始めたら強烈な日差しが差し込みかなり暑かったです。
少々疲れたので前述の七面堂の木陰に入って休んでいると、強烈な日差しが嘘の様で、どこからともなく涼しい風が吹いてきて、とても心地よく、いつの間にか居眠りをしてしまいました。

木陰の涼しさを経験して思ったのですが、縄文時代は現在より平均気温が数度高く温暖というよりもむしろ暑かったと言われています。
その様な気象環境の中で竪穴式住居でエアコンも無く生活していたら夏場は流石に暑くて生活しにくいだろうなと思っていました。でも木陰というか森の中であれば夏の暑さをかなり凌げたのではないかと思いました。
縄文時代は狩猟・採取が中心の生活様式だった訳ですが、これは森が存在しなければ成立しない事は周知の事ですが、住環境に関しても材料の木材は勿論ですが、生活空間も暴風雨から家を守る、強烈な日差しと暑さを凌ぐ、などと随分と森に依存していたのではないかなと感じました。

ところで、七面堂が建っている築山ですが、今思うと古墳だったのではないかと思い始めています。
もしそうなら、お墓の上で休んで居眠りまでしてしまったという事になる訳で、被葬者に対して不敬な事をしてしまったという事になります。申し訳ない気持ちです。次からは休む場所に気を付ける様にします。


END

2020/06/29 作成

Column


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