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電子足跡:越後長岡街道歩き
 長岡城下から柏崎へ

長生橋

プロローグ

なんでこんなマイナーな街道を歩いたのかと怪訝に思うかもしれませんが長岡市は私が在住する土地です。
長岡から日本橋までは以前歩いたので,今度は長岡から京都まで歩いてみようと思った次第です。
長岡街道-北国街道-北陸街道(加賀街道)-中山道を通り京都まで行きます。その一歩目です。

スタート:長岡駅前 2016年4月26日 6時50分   
ゴール :柏崎中央海水浴場 2016年4月26日 17時40分
GPSでの移動距離=38.8km



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長岡街道は三国街道の長岡城下と北国街の柏崎宿を結んでいる街道です。
現在JR長岡駅になっている長岡城本丸跡から市街地を通り,信濃川に架かる長生橋を渡ります。
長生橋付近の河川敷は長岡花火の会場でもあります。
信濃川を渡って西側の小高い丘は戊辰戦争で新政府軍が陣を敷いた関原地区になります。
更に行くと妙法寺峠を越えて西山地区になります。妙法寺峠を越えると,日本書紀に天智天皇即位7年(668年)7月に「越の燃土・燃水とを献ず」と記載がある燃土・燃水を採取したとされる草生津献上場があります。
かつて西山地区は油田地帯で子供の頃はまだ石油採掘の井戸が墓標の様に建ち並んでいました。
現在は砂丘を越えた海岸に柏崎刈羽原子力発電所があり,かつて石油採掘の井戸が建ち並んでいた場所には東京に送る背の高い送電線の鉄塔が並んでいます。

GPSログをGoogleEarthで
ツアーする方法
↑地理院地図(電子国土Web)に詳細ルート地図とポイントの写真が開きます。  

長岡街道地図
本地図はカシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。

長岡街道のルートについて
長岡街道は北国街道の柏崎と三国街道の長岡を結んだ街道です。
長岡街道のルートを調べましたが正確な資料に出会えませんでした。
図書館で偶然見た十返舎一九の金草鞋(かねわらじ)第八編 越後路之記 に長岡から柏崎に行くのに上除,宮本,妙法寺峠を通ったと記載がありました。この地名は今も残っているのでこの地名から長岡街道のルートを推測しました。

長岡城下

長岡城は現在のJR長岡駅を中心とした場所に在りました。戊辰戦争と太平洋戦争の空襲の2度にわたる戦火で市街地は焼失し昔の面影は全く残っていません。ただ長岡駅前からの道路が ”大手通り” と言います。城下町だった頃の名前が残っています。

スタート地点
長岡城本丸跡はJR長岡駅が建っています。
長岡市は夏の花火が全国的に有名ですが駅前の本丸跡地付近に正三尺玉の打揚筒のモニュメントが建っています。
ここをスタート地点にしました。

長岡城二の丸跡
二の丸跡地には長岡市役所が建っています。(長岡市役所の設計者は新国立競技場設計者の隈研吾氏です。)市役所の敷地内には二の丸跡の石碑が建っています。


大手通り
大手とは城の正門である大手門の事です。大手門に続く道が大手通りという事です。江戸時代は写真の奥の方に長岡城の大手門が見えたことでしょう。


下記のリンクをクリックしてみて下さい。
雪国ならではの積雪の中の登城風景が描かれています。

長岡城下年中行事図絵 年始登城

平潟神社
大手通りを左に折れて少し行くと市街地の中としては大きな平潟神社があります。境内には長岡空襲犠牲者慰霊塔があります。

信濃川
長岡市と言えば信濃川に架かる長生橋の風景が原風景の市民が多いと思います。
川幅が広がり,ゆったりの流れる信濃川に架かる長生橋を見ると悠久という言葉が脳裡に浮かぶと同時に懐かしさが込み上げてきます。でも私が写した下の写真ではそのイメージは伝わらないですね。

長生橋(ちょうせいばし)
江戸時代には橋は無く舟渡でした。1876年(明治9年)に初代の木橋が架けられて現在の橋は3代目で1937年(昭和12年)竣工の橋長=850.8mのトラス構造の橋です。
長生橋を最初に歩いて渡ったのは小学校3年のときでした。その当時は長生橋は日本で一番長い橋と言われていた記憶があります。


長岡花火
長岡で有名なものに長岡花火がありますが花火大会は信濃川河川敷が会場です。

長岡花火は長岡空襲犠牲者の追悼として毎年8月2日3日の2日間行われます。
平原綾香さんが歌う「ジュピター」の5分間フルコーラスに載せて打ち上げられる復興祈願花火「フェニックス」と名前が付いた幅2㎞に渡る打ち上げ花火は綺麗を通り越して涙が出てきます。

1949年に長岡花火を観た、山下清画伯の言葉
「みんなが爆弾なんかつくらないで きれいな花火ばかりつくっていたら きっと戦争なんて起きなかったんだな」

長岡花火2018  復興祈願花火 フェニックス YouTube  音楽と花火の音が出ます


信濃川西岸地域

信濃川を渡った西岸に長生橋の架橋に貢献した方達の石碑が建てられています。
渡ると道路が二手に分かれています。写真右側が旧街道と思われるので右側の道に進みます。



一里塚跡
信濃川を渡って2.5㎞程行くと国道8号線と交差する場所に一里塚跡が在りました。
歩いている道が旧街道である事が確信できます。(下写真左)

番所橋
番所橋とは上除地区を登る坂の途中にある橋の名前です。江戸時代に幕府が設けた関所に対して各藩が設けた関門を〔津留(つどめ)番所〕と呼び,この付近には上除津留番所があったとの事です。埋もれかかった橋の親柱に旧街道の痕跡が残っています。(下写真右上下)



関原宿
関原の通りは独特の雰囲気を持っています。そこが旧街道と知らなくても古くからの道だと感じます。
建物は建て替えられていても街道沿いの雰囲気が良く残っています。
以前新潟県外出身の友人と車で通った時に車窓からの街路を見て,友人が「この道は古いな~。」と感想を漏らしたほどです。



物見の松
関原の中ほどに石碑があり,物見の松と書かれています。
説明板によると
北越戊辰戦争の時に新政府軍が関原に本陣を置いて,長岡方面の情勢を見るために兵士が松に登って偵察したことから「物見の松」と名づけられたとの事です。
その後交通の邪魔になったり倒壊の恐れがあった為に昭和34年に伐採されたとの事です。その時の新政府軍の参謀は後の山縣有朋だったとの事です。

この地は長岡城から信濃川を挟んで直線距離で7㎞程の小高い場所にあるので本陣を置くには都合が良かったのでしょう。
(左の写真は説明板に掲載されていたものです)

宮本宿
関原を越えて西側に向かうと田園風景が広がります。
関原もそうなのですが宮本宿は国道8号線が宿場をバイパスする様に開通したので交通の中心から外れて今では車の通りが少ない静かな街が続きます。中心地付近に明治天皇行在所跡の碑が建っています。この道が旧街道だった証がひとつ増えました。



妙法寺峠


妙法寺峠への道

冒頭に書いた十返舎一九の金草鞋(かねわらじ)第八編 越後路之記 には「宮本より二里ほど行きて妙法寺峠にかかる。」と書いてあります。今回歩いた道を地図上で計測すると宮本から妙法寺峠まで約8㎞でした。
宮本を越えて,国道8号線を歩き〔三島谷温泉 永久荘〕と書かれた看板がある交差点を右に曲がると長閑な道が妙法寺峠に続いています。



峠道の途中にあった石仏。                妙法寺峠


草生水献上場 (くそうずおんじょうば)
妙法寺峠を越えて少し下ると 〔草生水献上場〕 に着きます。
草生水とは石油の古語です。臭い水が変化して草生水と表記されるようになったとの事です。
説明板によると日本書紀に天智天皇即位7年(668年)7月に「越の燃土・燃水とを献ず」と書いてあり,その燃土・燃水を採取した場所がこの地であると言われているとの事です。1300年以上も前にこの場所で石油が採取され灯油や防腐剤として使用されていたと知ると悠久の時間を越えて人の営みが続いている事の不思議さと先人への敬意を感じます。

草生水献上場草生水献上場

草生水献上場今でもわずかですが天然ガスが沸き,タールの黒い塊があります。
近づくと原油独特の臭いが漂っています。

1300年以上も前にこの場所で村人がかやの穂先で原油をすくいとっている光景を想像するとロマンを感じます。

尚,長岡市内には「草生津」という地名が残っています。
また妙法寺峠を南東に下った地域に「油田」という地名があります。その付近を流れる川の名前が黒川です。黒川と聞くと原油が流れ出て川面が黒かったからなのかなどと想像をたくましくします。

妙法寺宿へ
草生水献上場を後にして妙法寺峠を西に下って行きます。
途中に道標が建っている追分がありました。左の写真の右側の道を下ってきました。残念ながら道標の文字はよく読み取れません。
左側の道を地図で調べましたが廃道になったのか国土地理院地形図には記載されていませんでした。
路傍の石仏や一面の菜ノ花畑を見ながら進みます。


妙法寺宿妙法寺部落の入り口にある石仏群
ひと際大きな石仏のお顔は毒気や憂いを全く感じられないお顔をされています。会社の中にも稀に同じような顔をした社員がいます。

今の部落からは想像できませんが明治44年(1911年)は戸数102戸で人口744人もの人達が暮らしていたそうです。
超願寺の大きな伽藍が当時を賑わいを偲ばせます。



刈羽村

妙法寺宿から柏崎宿までのルートに関しては 十返舎一九の金草鞋(かねわらじ)第八編 越後路之記 には柏崎宿までの具体的な地名の記述はなく,〔これより二里ばかり行きて砂山に至り,(中略)すこしの渡しをうち越して柏崎に着く。〕との記述が有るのみです。ですので私が歩いたルートが旧長岡街道のルートなのかは甚だ自信がありません。

さて,刈羽村と聞いても「どこにある村なの?」と思うと思います。柏崎刈羽原子力発電所の刈羽と聞くと少しは場所がイメージできるかもしれません。

写真左は十返舎一九が「二里ばかり行きて砂山に至り」と言ったと思われる小高い砂丘の向こうに柏崎刈羽原子力発電所の中心部があります。そこからスタートする送電線は刈羽村を通り,今越えてきた山波を越えて東京まで続いています。


草生水献上場の事を書きましたが,昔この地は西山油田と言われた油田地帯です。子供の頃この刈羽村の風景を見た事があります。おびただしい石油採掘井戸のやぐらが建っていました。勿論その頃は石油採掘は殆どされておらずやぐらだけが墓標の様に立ち並んでいました。時代は変わり今は大きな送電塔がこの地に建っています。

柏崎宿

道標発見 旧長岡街道かな?
刈羽村役場で休んで南南西に走る県道369号線を歩きます。
この道が旧街道と確信があった訳ではありません。

刈羽村役場を出て1㎞程南下した場所に複数の石碑が建っているなかに

”右高町ヲ経テ柏崎ニ至る” ”左刈羽ヲ経て西山ニ至る”

と読める道標が建っていました。高町,柏崎,刈羽,西山は今も残る地名ですし道標が建っている場所から書かれている地名の位置関係も合っています。
もしかしたらこの道が旧長岡街道かも知れないと思います。ただ道標が向いている方向が90度回転していたので,役割が終わってからこの場所に移設されたのではないかと思います。

柏崎市街地
柏崎市街地に入ります。市街地の端は小学生の頃見た街の面影を良く残しています。閻魔堂を越えた辺りから様相が変わって新しい商業施設が建っています。
真ん中の写真が閻魔大王が安置されたお堂ですが,柏崎市では毎年6月14日から16日に開かれるエンマ市が有名です。
小学生の頃一度エンマ市に行った事があります。
下の写真の沿道に物凄い数の露天や屋台が並び人混みの多さには子供心にも圧倒された記憶が残っています。



ゴール地点 柏崎中央海水浴場
市街地を北に曲がって海岸に出ました。北東方向に7㎞程離れた所に柏崎刈羽原子力発電所が見えます。
既に陽が日本海に沈みかけています。日本海に沈む夕陽は何度見ても感動的です。


本日の温泉

ソルト・スパ潮風
ゴール地点から少し離れた海岸にソルト・スパ潮風があります。
名前のとおり塩分が強く塩味がします。でも歩き疲れた体には心地よい温泉でした。窓外に広がる日本海と夕空を湯船から眺めながらゆったりとした時間を過ごしました。

注:2020年の初め頃再訪しましたが、休館中の様です。確認してから訪れて頂きますようお願いします。


END
 
2020/08/01 ソルト ・スパ休館中の記事を追加
2018/12/09 ver5.17.0 ポップアップ地図を地理院地図に変更
2018/08/07 ver5.7.1:長岡花火 フェニックス YouTube動画追加
2016/11/09 ver3.43:長岡花火360度全方位動画 尺玉100連発 YouTube動画追加
2016/09/07 ver3.21:内部処理修正,一部文字修正
2016/09/05 ver3.20:内部処理修正
2016/06/11作成

Column


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