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電子足跡:奥州街道歩き旅(仙台道)
  福島城下から白石城下へ


プロローグ


この道は福島盆地を北上し,盆地の北端の国見町貝田を越えると宮城県に入る道です。
県境の阿津賀志山の麓では奥州藤原軍と鎌倉政権軍が戦った奥州合戦の遺構である阿津賀志山防塁を見る事ができます。


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下の衛星写真を見ると分かりやすいですが,福島盆地は不思議な地形で,平らな盆地の中央部に独立した残丘の信夫山がポツンとそびえています。
地質図をみると信夫山は「約1500万年~700万年前に噴火した火山の岩石(デイサイト・流紋岩類)」と書かれています。信夫山ガイドセンターのホームページによると約2300万年前は福島盆地一帯は海底で,1000万年前ごろ奥羽山脈が隆起を始め,500万年前頃福島盆地は陸化しました。火山活動も盛んになり,信夫山の地下にもマグマが貫入して固い地質になりました。50万年前頃,福島盆地は逆に陥没しましたが,マグマの貫入で固くなっていた信夫山は盆地の真ん中に取り残されて残丘になったという事です。

特徴的な地形のためか山岳信仰も盛んで岩谷観音,黒沼神社,出羽三山の分社などが祀られています。

区間 通過する宿場  歩いた日 GPS
移動距離
福島城下
から白石城下
福島宿-瀬上宿-桑折宿-藤田宿-貝田宿-越河宿
-斎川宿-白石宿
2018/03/20 38.1km


GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法



地理院地図(電子国土Web)に詳細ルート地図とポイントの写真が開きます。


本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。 

福島城下

福島城下を歩くとに行く手に信夫山が見え,周囲は豊かな緑の山に囲まれ,都会にありながら何となくホットする風景です。
かつては,養蚕が盛んで米沢道,会津道の分岐点でもあり,さらに阿武隈川の水運も盛んで商業の町としても栄えました。しかし現在の街道筋には昔の面影はあまり有りません。

写真左:JR福島駅前
写真右:福島市道路元標 (看板など修復中)


旧奥州街道は国道4号線とほぼ平行に着かづ離れず進みます。
信夫山の北端近くの麓に磨崖仏で有名な岩谷観音が見えます。岩谷観音は街道筋から数100mしか離れていないので寄り道すると良いと思います。私は寄り道しなかったので後悔しています。

飯坂温泉摺上川付近から桃の花越しに信夫山を望む
 この写真は2010年4月24日に福島盆地を歩いたときの写真です。


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普門院文知摺観音・文知摺石
奥州街道筋からは随分離れますが福島市の東側の山懐に普門院 文知摺観音があります。
歌枕の地であり,松尾芭蕉もおくのほそ道の”しのぶの里”の段で訪れた事を書いています。

  陸奥の忍ぶもちずり誰ゆえに みだれ染めにし我ならなくに  河原左大臣

   早苗とる手もとや昔しのぶ摺  芭蕉

写真左:多宝塔
写真右:文知摺石

注:写真は2011年2月19日に訪れたときのものです。

瀬上宿(せのうえ)

信夫山の北端には松川が流れていて松川橋を越えて左に曲がると旧奥州街道の道筋になります。
この道はかつて旧奥州街道上に敷設された電車道だったとの事ですが,現在は全く痕跡はありません。

瀬上嶋貫本家
阿武隈急行の福島学院前駅の高架を越えて少し行くと桝形と思われる交差点があります。
曲がると瀬上嶋貫本家の立派な建物が見えてきます。

ホームページによると
先祖は越後上杉家の家臣で越後,会津,米沢と上杉家とともに歩んできたが,江戸時代に武士の身分を捨ててこの地に移ってきたとの事です。

当初,金融業,酒造業,質屋などを営んでいたが,しだいに土地を増やし大地主になったとの事です。

建物は明治時代に建てられて,11代当主によって復元され予約制ですが一般公開されているとの事です。

桑折宿(こおり)

桑折宿は伊達氏が入部し城を構えたのが始まりです。半田銀山や養蚕など産業も発達し物資の集散地として栄え,また羽州街道の追分もあり交通の要所でもありました。

伊達氏居城 西山城

桑折宿は ”伊達郡桑折町” にあります。”伊達” と聞いて思い浮かべるのは 仙台藩祖 ”独眼竜政宗” だと思います。ここ伊達は文治5年(1189年)の源頼朝軍による奥州藤原氏が支配する奥州に侵攻したあとに伊達氏初代朝宗が常陸国からここ伊達に入部して伊達氏が始まった地です。居城となる西山城は街道筋から離れた西側の標高200m程の山にあります。
天文11年(1542年),14代稙宗は息子の15代晴宗に幽閉されここに天文の乱(1542~1548年)が起きます。室町幕府の仲裁で15代晴宗が家督を継ぎ和睦の条件で西山城は破壊され,晴宗は米沢に居城を移すことになりました。”独眼竜政宗”は晴宗から数えて2代あとの17代目です。

半田銀山
半田銀山は桑折町の北部の半田山に開発された銀山です。江戸時代初期に開発が始まり日本三大鉱山のひとつに数えられ江戸中期には幕府直営の鉱山になりました。

明治になりNHKの朝ドラで有名になった五代友厚により再興され昭和26年に閉山するまで採掘が続きました。

噴火口の様に見える山容が特徴的ですが,地質図をみると半田山は約1500万年~700万年に噴火した火山の岩石で出来ています。度々崩落を繰り返し,明治34年~36年には大崩落が発生し幾筋も地肌が見える禿山になりました。現在では治山事業も進み植生が復活しています。

旧伊達郡役所
旧街道を歩いていて,突然レトロな洋風建物が現れるとビックリします。
明治16年(1883年)に建設された擬洋風建築で地元の大工が建設したとの事です。
郡役所が廃止されるまでの43年間郡行政の中心的役割を担いました。
東日本大震災で被害を受けましたが,耐震補強も行い現在は公開されています。

町内の風景


奥州街道・羽州街道追分 左 羽州街道  右 奥州街道

左に進むと、山形を通り、秋田に抜け、青森の津軽半島の付け根付近の油川で再び奥州街道と出合います。
追分に来るといつも感じる事なのですが、この道を曲がって進んだらどんな風景が待っているのだろうかと思います。
そして、ロミオとジュリエット や 曽根崎心中 の様に惹かれあっていながら結ばれない男女が来世で結ばれる物語を思い出します。

藤田宿

藤田宿は別名国見宿とも言われていました。
「奥州街道 歴史探訪・全宿場ガイド 無明舎出版」によると代官所のある桑折宿と違い気楽な宿場で,近隣の村人や半田銀山の労働者達が何日も居続けて遊んで代金が払えないものが続出したなどという事があったとの事です。

東北自動車道で宮城県側から南下して国見SAを越えて国見町に入ると,視界が広がり福島盆地が見える風景は伸びやかで何処となく平和を感じさせる綺麗な風景です。

阿津賀志山古戦場(あつかしやま)
その綺麗な風景が見える阿津賀志山の麓が奥州合戦の古戦場です。
奥州合戦は源義経主従を庇護していた奥州藤原氏と鎌倉政権との間に起きた文治5年(1189年)の一連の戦いです。鎌倉政権は言わば当時の奥州との国境線である国見峠を突破して奥州に攻め入りました。

阿津賀志山古戦場は奥州藤原氏が築いた防塁の遺構が残っています。
防塁は阿津賀志山の麓から阿武隈川に至る全長約3㎞の三重の土塁です。この防塁に奥州藤原軍2万騎が鎌倉政権軍と対峙し奥州合戦の火蓋が切られました。(注:この当時はまだ火縄銃は無かったので火蓋が切られるという表現はおかしいと突っ込まないでください。)   
現在では形も崩れたり,国道で分断したりしていますが少し盛り上がった土塁を確認できます。
それにしても”阿津賀志山”という名前はいにしえのロマンを感じる名前です。

阿津賀志山防塁址  後ろの山が阿津賀志山です。


貝田宿

貝田宿は福島県最後の宿場です。ここを越えると宮城県に入ります。
地図を見ると東北自動車,国道4号線,旧奥州街道,JR東北本線が貝田宿に向かって収斂しているのが分かります。福島盆地を越えて宮城県に入るこの場所はヒョウタンのクビレの様な鞍部になっていて,県境にありがちな高い峠を越さなくても良い絶妙な地形をしています。

戸数60戸ほどの小さな宿場でしたが,度々大火にあい当時の面影はあまり残っていません。
屋敷割は石垣によって区切られていたとの事で,下の写真の貝田番所跡に残る石垣は当時の石垣ではないかと思います。

写真左:貝田宿の風景
写真右:貝田番所跡


貝田宿の家並を越えるといよいよ県境になります。JR貝田駅付近から見た県境です。
 注:この写真は2010年4月24日に歩いたときの写真です。


越河宿

宮城県に入りました。貝田宿と越河宿は近くて18丁(約1.9㎞)ほどの距離です。越河宿は仙台藩の南端に位置しています。藩境には番所が置かれ通行する人や物をチェックしていました。

越河番所址
本来の街道筋はJR東北線の敷設で消滅したようで,国道4号線からJR東北本線を挟んで東北自動車道の下に越河番所跡を見る事ができます。

越河宿の中心部を越えて上屋畑地区付近の家の脇道を通り過ぎると道は宮下地区の田畑ののどかな道になります。江戸時代と変わらない風景なのではないかと思えるほどです。


斎川宿


田村神社

坂上田村麻呂の伝説が残る馬牛沼を過ぎると斎川宿に近づきます。斎川宿の手前に坂上田村麻呂を祭神とする田村神社があります。

甲冑堂
その田村神社には ”甲冑堂” という六角堂があり佐藤継信・忠信兄弟の妻たちの木像2体が安置されています。
佐藤継信・忠信兄弟は義経の家臣で義経が挙兵したときに藤原秀衡の命により義経に随行し,その後の平家追討の戦に加わりましたが討ち死。帰らぬ息子を嘆き悲しむ老母を,兄弟の妻たちが亡夫の甲冑に身を包み老母の前に進み老母を慰めた故事にちなんで二体の木像を納めたとの事です。
明治に火災で焼失したが再建されて現在に至っています。

写真左:田村神社
写真右:甲冑堂


斎川宿の風景
斎川宿の中心部は昔の面影はあまりありませんが,検断屋敷と街道沿いに植えられた桜並木が印象的な宿場です。今回2018年03月20日に歩いたときは季節が早くて桜はまだでしたが,以前2010年4月24日に歩いたときは満開の桜でした。その時の写真を掲載します。



写真左:検断屋敷
写真右:検断屋敷の土壁


白石城下

白石城下には日が落ちてから到着しました。暗くて写真を写せませんでしたので,白河城下は次回白石から歩いた時のページに掲載します。

エピローグ

言い訳がましいですが。今回仙台市内の”芭蕉の辻”をゴール地点と考えていたのですが,白石まで来て天気予報を見たら2日間雨の予想でした。実際空も下り坂で黒い雲が垂れこめています。
3月の冷たい雨の中を歩くのも辛いので今回は白石で中断する事にしました。


END

2020年01月31日 レイアウト変更
2018年04月18日 作成

Column


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