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電子足跡:奥州街道歩き旅
 白河城下から郡山宿へ


プロローグ

このページは奥州街道を福島県 白河城下から郡山宿まで歩いた記録です。
奥州街道は東北地方に単身赴任していたときに栃木と福島の県境にある境の明神から岩手県奥州市(旧水沢市)まで歩いた事があります。その時は仙台を中心に北上したり南下したりして道を繋ぎましたが,一度リセットして白河から北上して歩きなおす事にしました。
この道は所々に戊辰戦争の記憶が残る道です。新政府軍は宇都宮から奥州街道を北進して白河-二本松と進軍して二本松から西に向かい母成峠-会津へと進軍しています。

区間 通過する宿場 GPS移動距離
備考
白河城下-郡山宿 白河-根田-小田川-太田川-踏瀬-大和久-中畑新田-矢吹-久来石-笹石-須賀川-笹川-日出山-小原田-郡山 41.9㎞

GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法



地理院地図電子国土Web)に詳細ルート地図とポイントの写真が開きます。

本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。 


白河城下
 


白河城(小峰城)

白河城は別名小峰城とも呼ばれています。
戊辰戦争で白河口の戦いで落城し,その後は石垣,土塁,水堀などを残すのみでしたが,平成になって本丸跡に三重櫓が再建されました。

以前歩いたときは,2011年の東日本大震災の後でしたので石垣が一部崩壊している痛々しい姿でした。
現在は復旧工事が進み入場することも可能になっているとの事です。

文化5年(1808年)白河城下全図
下の絵図は街道筋の説明板に描かれていた絵図です。城の東西に武家屋敷が広がり,南側の街道筋に沿って町家や寺が並んでいた事が読み取れます。現代の街並みと比べても奥州街道の道筋や桝形(クランク状に曲がった道)の場所などは当時のままである事が見て取れます。


写真左:奥州街道筋の街並み
写真右:現在は印刷所になっている本陣跡


白河市女石付近


仙台藩士戦没之碑

白河城下を越えて白河市女石の国道4号線と合流する付近に仙台藩士戦没之碑があります。
明治23年(1890年)に旧仙台藩主の伊達宗基が慰霊の為に建てたとの事です。また傍らには戦死供養碑があり白河周辺で戦死した仙台藩士150名余を葬った墓で明治2年(1869年)に建立されたとの事です。

遊女志げ女の碑
仙台藩士戦没之碑から100m程の場所にひっそりと石碑が建っています。
説明板によれば,志げは越後三条の生まれで白河の旅籠酒田屋に抱えられいたときに長州出身の奥羽鎮撫総督参謀の世良修蔵と馴染みになったが世良は白河は危険と察して白河を逃れたが,その脱出を助けたと疑った会津藩士に殺害された。殺害されたと知った酒田屋の下男は会津藩士を追い,この地で仇討ちをしたとの事です。志げは享年22歳だったとの事です。

写真左:仙台藩士戦没之碑
写真右:遊女志げ女の碑 (右から4番目の石碑)


人が人を殺し合う戦争に双方ともなんら正義はありませんが,時代の大きなうねりのなかで,名も知れない人達の多くの犠牲があって近代が開いていったと思うと心が痛むと同時に,尊い命の犠牲のうえに現在が成り立っていると感じます。

根田宿付近


根田宿に入る手前に”手打そば 大清水”と看板が掲げられた蕎麦屋さんがあります。
以前歩いた時は暖簾がかかり営業していましたが,今回は暖簾が無く休みなのか閉店したのか定かではありません。
何て事のない家屋なのですが,旧街道特有の微妙にカーブしている道筋にポツンと建っているとハっあん・熊さんがお茶を飲みながら団子を食べている宿場はずれの茶屋の様に見えるから不思議です。

小田川宿
 


説明板が見当たらなかったかったので詳細は分かりませんが,おそらく白河を越えて進軍してくる新政府軍を奥州列藩同盟軍が応戦し,ここでも多くの戦没者がいたのではないかと想像します。

太田川宿
 


小田川宿を越えて小さな峠道の所に唐突に武光地蔵(首切り地蔵)が鎮座しています。2m30㎝ほどの高さで随分と大きな地蔵です。由来は諸説あるようですがこの付近に住んでいた長者の墓標とも言われています。これだけ大きな地蔵が山の中にあると少々ビックリします。

太田川宿は戊辰戦争の戦火で殆ど全焼し,今の街並みは明治以降に再建された街並みです。
それでも道筋は当時のままと思われなんとなく懐かしい街並みです。

写真左:武光地蔵(首切り地蔵)
写真右:太田川宿の街並み


太田川宿の街並みを過ぎて緩い坂道の中腹に石仏群があります。
その中のひとつの石仏は享保十七年壬子(1732年)の年号が確認できます。

第八代将軍徳川吉宗によって主導された享保の改革の時代からここに建っていると思うと,なんか不思議な感覚になります。

踏瀬宿
 


太田川宿を過ぎて踏瀬宿の手前の四ツ屋前に僅か100m程ですが,おそらく当時のままの姿ではないかと思われる道筋が残っています。土の香りを感じながら歩くと何とも言えず趣があります。


五本松の松並木
踏瀬宿を過ぎて五本松という地名の所に500m以上にわたって松並木が残っています。白河藩主松平定信が街道沿いに2300本の松を植えたのが始まりだとの事です。現在の松は明治になって補植されたものだとの事です。
これまで日本橋から歩いて来てこれだけの松並木が残っているのは初めて見ました。


大和久宿
 

大和久宿を歩いていると,民家の敷地と思われる方向に旧奥州街道と矢印が出ています。
如何にも旧街道と思われる道が続いていますが,その先は田んぼになっていて道筋が分からないので引き返して大和久宿の町中を進みました。


中畑新田宿・矢吹宿
 

中畑新田宿と矢吹宿は今では宿の境がどこなのか分からないくらい民家が続いています。現在の矢吹町新町が中畑新田宿で中町や本町あたりが矢吹宿だったとの事です。

矢吹宿の風景

写真左:Toy shop UEDA 大人の背丈ほどある懐かしいキャラクターが展示されています。
写真右:大木代吉本店 慶応元年創業の造り酒屋 ”自然郷”という銘柄の純米酒が旨いとの事です。


須賀川宿
 

須賀川は電線が埋設されている為なのか街並みがスッキリしています。古くから交通の要所で人と物が行きかい独自の町人文化が花開いた宿場です。そのせいか洒落た感じの街並みが続いています。

須賀川一里塚
須賀川の市街に入る手前に一対の一里塚が残っています。日本橋から59番目の一里塚で直径15m高さ10mほどの塚が綺麗に残っています。一対の塚が綺麗に残っている一里塚は珍しく,これを見れただけでも歩いて良かったと思えます。


相楽等躬宅跡
今はNTTのビルになっていますが,ここが松尾芭蕉と曽良が8日間滞在した等躬の屋敷跡です。
芭蕉は等躬に白河の関越えではどんな句ができたかと問われ下記の句を残しています。

  風流の初めや奥の田植え歌  芭蕉

等躬宅の裏手に大きな栗の木陰を利用して庵を作り,遁世して暮らす僧で俳人の栗斎(可伸)が居ました。芭蕉は清貧に暮らす脱俗の栗斎(可伸)に共感して次の句を残しています。

  世の人の見付ぬ花や軒の栗  芭蕉

写真左:相楽等躬宅跡
写真右:可伸庵跡


須賀川市街の風景
須賀川はウルトラマンシリーズなどで有名な特撮の神様と言われた円谷英二の出身地です。
市街のいたる所に大きなウルトラマンや怪獣のフィギュアが展示されています。


JR須賀川駅付近
釈迦堂川を越えるとJR須賀川駅への道が続いていますが,この辺りの街道筋は工場が建てられたり東北本線が通った為に道筋が良く分かりません。
東北本線の陸橋を渡るとGoogleMapには下宿町や森宿一里塚跡などが記載されている道があるのでこの道が旧街道ではないかと思います。

写真左:釈迦堂川
写真中:東北本線と355線の陸橋で分断された街道筋
写真右:下宿町付近の風景


宝来寺の浮彫阿弥陀三尊来迎石仏
東北本線の陸橋を渡り旧街道の道筋と思われる場所に戻ると宝来寺があります。
境内に浮彫阿弥陀三尊来迎石仏が鎮座しています。
名前の通りレリーフ状になった石仏です。
説明板によると,このようなレリーフ状の石仏は白河市~福島市までの中通りに見られ,同じ福島県でも会津地方や海岸沿いの浜通りには見られないとの事で,特に須賀川市・岩瀬郡に集中しているとの事です。

なんとなくですが、人物像の配置やモチーフがキリスト教的な印象を受けます。

笹川宿
 


筑後塚供養塔群

須賀川宿を越え笹川宿の手前の阿武隈川と滑川が合流する滑川東町付近に石碑・石仏が集められています。
比較的大きな石碑・石仏が街道筋にならんでいると圧巻です。

元々は別の場所にあったものを学校建設や道路改修の為に現在地に移したとの事です。
ここの石仏も上記の浮彫阿弥陀三尊来迎石仏の様にレリーフ状になっています。

筑後塚供養塔群がある滑川に降りて行く坂道。僅かな距離ですが趣があります。
坂の途中に忘れられた様に石仏がありました。


日出山宿・小原田宿
 


JR水郡線を越えて笹川宿辺りからは家並が途切れる事がなくなり,どこが宿場の中心地だったのか分からなくなります。
JR東北本線を挟んで”ビッグパレットふくしま”が見える笹原川で街道は分断されています。少し迂回して355号線に架かる橋を渡ると日出山宿に入ります。
更に町中を進むと郡山市内の高層ビルが見えてきます。この辺りが小原田宿です。

写真左:笹原川で分断している街道筋
写真中:日出山宿の蔵
写真右:小原田宿から郡山市街を望む


郡山宿
 


郡山は奥州街道・会津街道・三春街道が交差する交通の要所でした。旧街道を歩くと寂びれた感がある街並みが多いですが郡山は意外なほど大きくて活気のある市街地です。
郡山は戊辰戦争で当時の街並みの多くが焼け落ちて,現在の街並みは明治以後の街並みです。
今は街道に沿って大きなデパートやビルが建ち並んでいます。

写真左:中町周辺の街道沿いの風景
写真右:道路元標 道路改修の際に撤去されるところを現在の場所に移されて保存されたとの事です。


奥州街道と会津街道の追分に立つ道標
大町一丁目の三差路に建っています。

左側の道標には
「右奥州街道 左会津街道」 と記されています。

以前は赤木小学校に移されていたそうですが,郡山市政施行60周年を記念して現在の元の場所に戻されたとの事です。

右側の道標は
三春道への分岐を示す道標で
「従是(ここより)三春道」と記されています。

この三差路は三春街道の追分ではないですが,
ここから北に行ったかつて北の木戸があった場所に建てれていて,そこから移設されたとの事です。


END

2020年01月08日 レイアウト変更
2018年04月05日 作成

Column


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