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電子足跡:奥州街道歩き旅
 蟹田宿から三厩宿 奥州街道終点


注:この写真は写真の縦横比を変更しています

プロローグ

奥州街道を陸奥湾と津軽海峡に面している津軽半島のタンコブの様なところを 蟹田宿-平舘-今別-三厩 まで歩いたページです。

三厩は奥州街道の始終点です。 三厩で奥州街道歩き旅は終わりです。
GPSでの移動距離は 
 日本橋から三厩まで845.2km 
 宇都宮の日光街道追分からは724.2kmでした。 
(注:寄り道や街道筋から最寄り駅までの距離含む)


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奥州街道のこの区間は陸奥湾から津軽海峡に変わる海域の海沿いに続く海岸線の風景が美しい道です。所々にある小さな漁村の静かな家並と砂浜から磯に、そして海食崖の上に道が続いています。

現在は蟹田からのバスは便も少なく何かあったときにエスケープするのが難しいので事前の準備は怠らないようにしてください。
三厩駅から竜飛岬までは外ヶ浜町営バスが2時間~3時間間隔で運行されています。

蟹田から三厩までの道は青森から蟹田の道と同じく太宰治36歳のとき生まれ故郷を取材旅行をした道でもあります。
故郷を旅して旧知の人達と飲んで語らい、肩ひじ張らない文章は太宰治の著作の中でも異彩を放っている様に思います。

区間 通過する宿場 等 歩いた日 GPS移動距離
蟹田駅-今別駅 蟹田宿-平舘宿-平舘お台場-高野崎-今別宿 2019年03月30日 36.4km
今別駅-三厩 今別宿-三厩宿 2019年04月01日 6.5km

 
↑地理院地図(電子国土Web)に
詳細ルート地図とポイントの
写真が開きます。
  GPSログをGoogleEarthで
ツアーする方法


本地図はカシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。

蟹田宿

太宰治の小説「津軽」では蟹田の町について随分とページを割いて書いています。
その中に 「水量ゆたかな温和な川」 として蟹田川が書かれています。蟹田は蟹をはじめとする海産物は勿論ですが西側の梵珠山脈の山地は日本三大美林でヒバの産地との事で自然に恵まれた豊かな土地として描かれています。

蟹田川河口に昇る朝日
蟹田川を越えると左前方に小高い山というより丘が見えます。観瀾山です。
ここは太宰治がN君T君達と桜の花の下で酒宴を開いた所として描かれています。文学碑があるらしいのですが今回は素通りしました。

その観瀾山の麓の海沿いに奥州街道が続いています。

観瀾山付近から見た下北半島 牛ノ首岬&鯛島・立岩(弁天島)


太宰とN君は蟹田港から船でMさんが居る今別に向かう予定でしたが、海が荒れ船が欠航になった為、急遽バスで今別に向かいます。この道はこれから歩いて行く道そのものです。太宰治がバスの車窓から見た風景を歩きながら見る事になります。

写真左:塩越の家並
写真右:外ヶ浜の海岸線


写真左:平舘磯山 豊穣の海を感じます
写真右:平舘船岡 平舘付近までは新しい280号線は旧道をほぼバイパスして通っています。


平舘宿


平舘宿の家並
子供の頃見たオロナイン軟膏の看板がまだ現役で街角に掲げられています。
この女優さんは浪花千栄子さんという名前で関西風のイントネーションで「浪花千栄子でございます~。」と言っていたオロナイン軟膏のテレビコマーシャルが記憶に残っています。真偽のほどは定かでないですが、本名が ”南口(なんこう)キクノ” だったのでオロナイン軟膏のコマーシャルに起用されたという話を聞いた事があります。

平舘の松並木
平舘漁港を過ぎ平舘神社の白い鳥居を右に見て進むと道筋に松並木が見えてきます。
ここから平舘台場を経て4km弱松並木が続いています。「奥州街道」(無明舎出版)によると樹齢300年ほどの松が430本ほど植えられているとの事です。
ここまで長く続く松並木が残っている街道筋は珍しいと思います。
奥州街道のなかでは白河宿から矢吹に行くときに見た五本松の松並木十和田市馬洗場七戸十和田駅付近、などに松並木がありましたがそちらよりも長い距離の松並木が続いています。
それにしても松と海の組み合わせを、日本の原風景と感じるのは私だけでしょうか?奇麗な風景です。



平舘台場
小説「津軽」では ”要塞地帯” と書かれている場所です。東京のお台場と同じく江戸末期に外国船の侵入を防ぐ為に設けられた砲台跡です。東京のお台場は嘉永6年(1853年)に着工していますが、平舘台場は嘉永2年(1849年)ペリーが来る4年前に設置されています。

太宰は ”要塞地帯” と大仰な書き方をしています。もしかしたらかつてはかなり大きな防御拠点だったのかもしれませんが、現在の遺構は要塞地帯と言うほど大きくはなく、太宰特有のユーモアなのではないかと思います。
太宰の短編小説の「佐渡」では船から佐渡ヶ島を見た太宰は「満州ではないかと思った。」と殊更大仰に書いています。

この辺りまで来ると陸奥湾も狭まり、対岸の下北半島が間近にみえます。
そして、北に目を向けると水平線上に雲かと見まがう様に北海道の山脈が雪を抱いて横たわっていました。下の右側の写真を拡大してみてください。水平線上に北海道が見えます。
いよいよ、ゴールに近づいて来たと実感が涌いてきます。


平舘 石崎沢・弥蔵釜付近

一瞬青函トンネルの排気塔かな?と思ってしまいましたが、そんな事はなく石崎無線中継所の建物でした。
別名 津軽の塔 と呼ばれているそうです。
ここまで来ると北海道の松前半島が見える様になり、弥蔵釜からは岬の向こうに松前半島の山襞まで分かるくらい近く見えます。

写真左:石崎無線中継所(津軽の塔)
写真右:岬越しに見える北海道


岩屋観音付近

太平洋だ日本海だと言っても海に明確な境は無いのだと思いますが、陸奥湾を出て津軽海峡の海と言った方が良い様な場所に来ると、これまでの砂浜の海岸から磯が発達した海岸に変わります。津軽海峡の流れが早くて砂浜が形成されないのかな?地質が違うのかな?などと思いましたが理由は分かりません。

岩屋観音
磯の中の小さな岩洞に小さな祠があり、岩屋観音と言われている観世音菩薩が安置されています。
津軽霊場三十三観音の二十一番札掛所との事です。


一本木漁港付近

歩いていると所々小さな漁港があります。集落もそこそこの戸数です。
小説”津軽”にはバスで今別に行く太宰は 「お天気のよくなって来たせいか、どの村落も小綺麗に明るく見えた。」 と書かれています。

写真左:だるま滝
写真右:一本木漁港の家並


弁天崎付近

五街道細見(岸井良衛 青蛙房)には弁天崎がある奥平部のところに 「此処、土、石みな赤し」と記述されています。また、小説「津軽」には ”朱谷” として紹介されていて、「土石皆朱色で、水の色まで赤い」と江戸中期の医者 橘南谿の東遊記の記述を紹介しています。
ここ砂ケ森地区の地質は酸化第二鉄(ベンガラ)を含む地質で藩政時代は採掘され神社仏閣の朱色の塗料として用いられたとの事です。採掘している時代ならば水の色まで赤いという事も考えられますが、現在では写真の赤岩以外は取り立てて赤い地質という感じはしません。


高野崎 初めて終点の三厩そして竜飛岬が見える場所

高野崎は津軽半島先端付近にタンコブの様に突き出た場所の丁度頂点にあたる場所です。
日本橋から歩いて、高野崎に来て初めて終点の三厩そして竜飛岬を見る事ができます。
地図で何回も見た地形でも、やはり身体を動かして経験したうえで現実の風景を見ると感慨はひときわです。あと少しだなと思うと同時に少し寂しい感じがします。

写真 左から 津軽半島 津軽海峡 北海道


高野崎灯台 水平線右側は函館方面


袰月(ほろづき)付近

袰月も漁港の集落です。港を中心に海岸沿いに細長く家並が続いています。
磯が発達した海岸に港があって、松が生えた岬が見える風景は日本的です。
さらに驚いたのは海底が見えるくらい透明度が高く緑色の海面は神秘的な感じがします。


伊能忠敬止宿
袰月の商店で飲み物を買って休んでいたら斜め前の鳥居のそばに 「伊能忠敬止宿」 と書かれた木柱が立っているのが目に入りました。今は家は無くなっていますが、この地に宿泊したのだと思います。

ただ歩くだけでもそれなりに大変ですが、測量しながら日本中を歩くという行為の大変さは如何ばかりか想像も出来ません。
何万年も前に日本に住み着いた人間が正確に日本列島の形を認識出来たのが伊能図(大日本沿海與地図)が完成したほんの200年ほど前の事だったと言う事も驚きます。
偉業と言われる事は初めは一人の人間の意志から始まると、何かの本で読んだ事があります。伊能忠敬もその初めの一人だったと言えます。

自虐ネタですが、
伊能忠敬は隠居後に日本の形を正確に測量するという大志を持ちましたが、私には大志は無く、ただ歩きたいから歩いて写真を写しているだけの男です。

大泊付近

大泊手前の鋳釜崎の付近は火山の噴出物が海に切れ落ちて浸食された海岸線で複雑で荒々しい地形です。
下の写真は脇道に入って崖の上に行って撮影した訳ではなく、普通に街道を歩いて見えた風景です。

かつては難所で ”松陰くぐり” と言う海蝕洞があり、嘉永5年(1852年)に吉田松陰がその海蝕洞をくぐって歩いたとされています。しかし残念ながら見落としてしまいました。



大泊の家並
これまで歩いた街道沿いのどの漁村も、山と海に挟まれた僅かな平地に肩を寄せ合う様に家が並んでいます。
何十年、もしかしたら何百年も前から同じようにこの土地と海で暮らしてきたのかもしれません。

今別宿

今別は蟹田と並んで比較的大きな港町です。北前船の寄港地でもあり木材の搬出港でもあったとの事です。

小説「津軽」では太宰達はMさんの居る今別に昼頃着いて、Mさん宅で酒を飲み始めています。
今別から三厩まではぶらぶら歩いて1時間くらいとの事で太宰、N君、Mさんは酒を飲んだ後、今別の本覚寺という有名なお寺に行き、さらに歩いて三厩まで行ったと書いてあります。

今別のMさん宅を出発するとき、水筒に酒を詰めてもらって大陽気で出発したと書かれています。その僅か1行のくだりは小学生がお握りと水筒を持って遠足に行くような明るくはしゃぐ太宰治が見えます。

写真左:東側から今別を見る
写真右:西側から今別港を遠望 歩いて来た 鋳釜崎・大泊が見えています。


三厩宿

いよいよ最後の歩きです。三厩までは6kmほどです。
太宰達が途中で買った鯛をリュックに詰めて遠足気分で歩いた道です。
これまで下調べでインターネットの写真を何枚も見ましたが、終点はどんな風景なのか、終点に着いたらどんな気持ちになるのだろうなどと色々とな事が頭の中を駆け巡ります。

今別の街を越えて二ツ石崎に出るといよいよ三厩が見えます。三厩の街の入り口には最終地点への門の様に風力発電のブレードを二つ使ったモニュメントがあります。
モニュメントの所を左に入る道が旧街道のようでしたので左側の道を進みます。

写真左:三厩遠望
写真右:道路脇のモニュメント


両側に家が並んだ細い道が如何にも旧街道だったと思わせてくれます。

三厩の家並


家並の間から倉庫の屋根越しに終点の厩石(まやいし)が見えます。
いよいよ後500mほどで奥州街道終着点です。

厩石
厩石は三つの海蝕洞が並んだ大きな岩でかつては波打ち際にありましたが、海岸が埋め立てられて現在は港から少し陸に入った場所に露出しています。周囲は整備され公園になっています。

厩石の由来(説明板の要約)
源義経は平泉衣川の高館で藤原泰衡に急襲され自刃したとされているが、平泉を逃れて蝦夷地を目指してこの地まで来たが、荒れ狂う津軽海峡を渡る事が出来ず、海岸の奇岩に座して三日三晩観世音に祈願した。
三日目に白髪の翁が現れ、「三頭の龍馬を与える。これに乗って海を渡るがよい。」と言って消えた。
翌朝岩から降りると岩穴に三頭の龍馬が繋がれ、海上は鏡のように静まり義経は無事に蝦夷地に渡ることが出来た。それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになった。という義経伝説です。



松前街道終点之碑
厩石の前に松前街道(奥州街道)終点之碑があります。ここが奥州街道終着点です。


海食崖の上にある 義経寺から見た三厩の風景
写真左の左下に見える岩塊が厩石です。

奥州街道はここで終わっていますが、その先に海があり北海道は勿論、北前船では日本海沿岸の各港と続き、大阪・京都・江戸まで繋がり、そして世界中に繋がっていると感じます。


エピローグ


厩石 松前街道終点之碑にて
新元号 令和 が発表された2019年4月1日に奥州街道の終着点に到達しました。

やったー!と言って飛び跳ねるような感動ではなく、「本当にここまで歩いて来たんだ・・・。」と静かにジワーっと達成感が湧いてくる静かな喜びでした。
感動って意外と静かなものです。

最後になりますが、「無明舎出版 奥州街道 歴史探訪・全宿駅ガイド」 には大変お世話になりました。もし、この本がなければ旧奥州街道をトレースして歩く事は出来なかったと思います。
出版に関わった方々に深く感謝致します。


END

2019/05/06 作成

Column


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