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電子足跡:日光例幣使街道歩き旅
倉賀野宿から境宿へ

プロローグ
日光例幣使街道を倉賀野宿の追分から玉村宿-五料宿-柴宿を通り境宿まで歩いたページです。倉賀野宿は中山道と日光例幣使街道の追分がある宿場です。例幣使はこの地で中山道から日光例幣使街道に進み日光東照宮を目指しました。
この区間は赤城山の南の裾野から続く広大な関東平野の中を歩く道です。道の北側には赤城山、榛名山、遠く谷川連峰が望まれ、振り返ると西には妙義山の特徴的な山の端が望める開放的な道です。
東武伊勢崎線境町駅に近い 「道の駅 おおた」 で車中泊をして、朝 境町駅前駐車場(500円/日)に車を置いて東武伊勢崎線で伊勢崎に行き、JR両毛線に乗り換え高崎へ、更にJR湘南新宿ラインで倉賀野まで行きます。
歩く道が弓の弦だとすると鉄道路線は弓本体(申し訳ない正式な呼び名が分かりません)の弧状の部分を通っているので、歩く距離は20km程度ですが電車に乗って移動すると1時間位かかります。
都道府県 | 区間 | 歩いた日 | GPS 移動距離 |
備考 |
群馬 | JR倉賀野駅-境町駅 | 2020年1月12日 | 23.1km |
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↑GoogleMapと地理院地図に GPSログと写真がマッピングされた 地図が開きます |
GPSログを GoogleEarthでツアーする方法 |

カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)
倉賀野宿 中山道との追分
中山道・例幣使街道 追分
2017年11月15日中山道歩き旅で訪れて以来 2年2ヵ月振りの再訪です。
倉賀野の中山道と例幣使街道との追分です。ここから例幣使街道を歩き始めます。
江戸時代の例幣使はここで中山道から進路を左にとり日光に向かって進んで行きました。

追分の道標
「従是 右江戸道 左日光道」 と書かれています。



常夜灯
この追分には上に掲載した道標の他に常夜灯が並んで建っています。いずれも江戸時代に設置され、常夜灯には 正面に”日光道” 右側面に”中山道” 左側面に”常夜燈” 裏面に”文化十一年甲戌正月十四日 高橋佳年女書” 基台には312名の寄進者の名前が刻まれいます。
その名前の中に江戸相撲の大力士、雷電為衛門の名前も刻んであります。
雷電の生家は現在の長野県東御市で中山道がそばを通っているので、雷電もこの追分を右に進んで江戸に行った事でしょう。



倉賀野は中山道・例幣使街道の追分があり街道としての要所であるのみでなく、利根川の支流の烏川水運の船場もあり水運の宿場としても栄えていました。
追分から少し京側に行った宿場内には関東では珍しい”うだつ”が上がった家屋も見る事ができます。
追分から歩いてほどなくJR高崎線の踏切を渡ります。この踏切は ”玉村街道踏切” と書かれています。
踏切を渡って真っすぐ歩くと ”量子科学研究所” に行き当たります。
例幣使街道はここで枡形の様にクランク上に曲がっています。不自然な曲がり方なので本来の例幣使街道は量子科学研究所の中を通っていたのではないかと勝手に想像しています。
不動山古墳
”量子科学研究所”の敷地の北側に不動山古墳があります。 5世紀中~後半に築造された古墳です。
見た目は円墳の様に見えますが、前方後円墳で前方部分の大半は土砂採掘の為に削り取られたそうです。
GoogleMapの衛星写真で見ると微かに前方後円墳の輪郭が残っているかな?程度に前方後円墳の形をしています。その少し北側には観音山古墳がきれいな形で残っています。
不動山古墳の特徴的な事は縄掛突起付き舟形石棺の一部を見ることができます。
残されているのは遺体を納めた身部のみで蓋の部分は不明との事です。奈良明日香村の”鬼の雪隠” ”鬼の俎板”で言えば”鬼の雪隠”の部分が残っているという事だと思います。
道筋にありますので墳丘に登り階段を上がってみてください。


玉村宿
玉村宿は例幣使街道最初の宿場です。本陣と問屋場そして50軒ほどの旅籠がありました。
慶応4年(1868年)の大火により街道筋の建物の多くが焼失し今残る古い建物は明治以後のものだという事です。
関越自動車道を潜り抜け、玉村宿の手前で、赤城山の右端の山影に隠れた男体山の頭が見えました。これから向かう先が見えると静かな勇気が湧いてきます。

仕事でもそうでしたが、これから行う仕事の最終的なイメージが見えているか否かで、その仕事の進め方、遣り甲斐、楽しさが大きく異なりました。
以前、庭職人は縁側に座って煙草を吸うのが仕事と聞いたことがあります。煙草を吸ってサボって居る訳ではなく、煙草をふかしながら、どの様な庭にするか、どの様に樹木の剪定をするかのイメージを膨らましている時間という事だと思います。
仕事ではそれをコンセプトとかゴールイメージなどと言っていましたが同じ事かなと思います。
玉村宿の風景
玉村八幡宮
だだっ広い平野の中に大きな神社が現れたので少々驚きました。
奥州街道歩き旅で訪れた宮城県岩沼市にある竹駒神社を訪れた時のような驚きでした
境内にある由緒略記によると、鎌倉時代初期 建久6年(1195年)に創建された角渕八幡宮が本宮との事です。本殿は永正4年(1507年)に造営され、慶長15年の修造との事で随分と古い神社です。


玉村宿の街並み
街道沿いは旧街道の印象は薄れていますが、それでも時代を感じる家や土蔵造りの民家が残っていたりして、そこはかとなく旧街道の雰囲気を感じます。
写真左:街道歩き旅.comさんのページによればかつては問屋場だった井田家との事です。泉屋という屋号を持つ造り酒屋を営んでいるそうです。
軒先に杉玉があることからも造り酒屋であることが分かります。



木島本陣跡
街道沿いにはなんの表示も無かったのですが、現在,小保形時計店の周辺が本陣だったようです。
裏側に回ると歌碑が残っています。
説明版によれば、天保14年(1843年)帰路も中山道を辿った例幣使 参議有長 の歌碑で 建立文久4年(1864年)4月17日 との事です。
例幣使が宿泊してから21年後に、この歌碑が建立され、それから4年後の慶応4年(1868年)に玉村宿の大火で建物は焼失しました。

天保14年卯月例の
みてくらの使にかさねてむかひける帰るさに
玉むらのやどりにひらくたましげ
ふたたびきそのかへさやすらに 参議有長
と書かれているようですが私は全く読めませんでした。
五料宿
五料宿は利根川の西岸にある小さな宿場です。
五料橋の西詰の交差点から見える街並みを見ると、直観的にここは宿場だったなと感じます。


五料関所跡
かつては絵の様な関所が建っていた訳ですが、現在は説明版が立っているだけのシンプルな史跡です。
説明版によると戦国期から関所が存在し関銭を取っており、慶長6年(1601年)に厩橋藩(前橋藩)がこの地に関所を設けその後幕府公認の関所となり明治元年まで続いていたとの事です。
例幣使の通行と登り船(江戸方向に向かう船)に鉄砲、鉛、焔硝、硫黄などの禁制品が積み込まれていないか船中を改める役割があったとの事です。


天明3年 浅間山の噴火
更に,説明版によると
天明3年(1783年)7月の浅間山の噴火では土石流が流れ込み関所全体が泥で埋まり建物の屋根しか見えない状態になったとの事です。
玉村町のホームページには
『天明三年(1783)旧暦六月末より浅間山震動し、焼砂が大いに降ったが、七月五日は夜中に五分程の厚さに降り積もった。
特に六日の夜は六時頃よりおびただしく降り出し、夜中も「震動大鳴」。翌七日は昼も闇夜のように降り続き、夜も大いに降り、八日の昼十時過ぎまで降った。砂の厚さは二寸七分余りで、一坪で計ると一石五寸三升余りもあった。
田畑にも五、六寸積り、作物は一切砂に埋まったが、この間雨は少しもなかった。八日になると、午後二時頃利根川は石や泥の水が流れ来たり、大石が焼けながら押し下り、煙さえ立ちのぼって陸まで押し上った。
このため当玉村宿や五料宿、矢川の通路も止まり、日光街道・三国街道は往来止めとなった。
1寸=約3.03cm 1分=約3.03mm 米一石=10斗=約150kg』
と書いてあります。
五料宿から浅間山までは直線距離で約60kmありますが、五料宿付近でも火山灰が20cm近く積ったとの事なので浅間山の近くでは更に凄い量の火山灰が積もったと考えられます。
国土交通省のホームページによると、天明3年の大噴火直後に浅間山北部を水源とする利根川の支流吾妻川が水害を発生させ、3年後の天明6年に利根川流域全体に洪水を引き起こした。と書いてあります。
積もった火山灰が押し流され土石流が五料宿まで押し寄せて来た事が読み取れます。
旧街道を歩いていると街道筋に天明3年と彫られた石仏や石柱を見る事が多々あります。改めて天明3年の浅間山の噴火の規模とそれに伴う未曾有の飢饉の甚大さに驚かされます。
とりわけ、この地から500km以上離れた 奥州街道 青森県小湊宿付近で見た 天明の飢饉供養塔 には驚かされました。ここから500km以上離れているにも関わらず、小湊宿付近では飢饉により全体の家屋の半数の357戸が空き家になったと書かれていました。
五料橋からの風景
かつて利根川には橋は無く渡しだった訳ですが現在は五料橋を渡って対岸の柴宿に行きます。
五料橋から見える北関東の山並みはちょっと感動ものです。
この日はそれ程天気が良いという訳ではなかったのですが西には妙義山、北には谷川連峰、そして裾野を延ばす赤城山が良く見えました。
妙義山 五料橋からの距離38km

谷川連峰 五料橋からの距離64km

赤城山 五料橋からの距離30km

柴宿
利根川を渡ると直ぐに柴宿です。
現在の柴宿はあまり宿場の雰囲気は無いですが、道沿いに桜並木があったり、街道脇に水路が復元してあったり、群馬県らしく達磨のペインティングをした石があったりして目を楽しませてくれます。


柴宿本陣跡
そのなかでも柴宿本陣跡は本陣だった頃の建物こそありませんが枝ぶりの良い松と、おそらく昔からの本陣門があり、宿場だった頃の面影を感じます。門の表札には 「関根甚左衛門」と書いてありました。


雷電宮
柴宿の中心部を過ぎて南に進路をとって進むと雷電宮という小さい神社がありました。足を止めた理由は2つあって、境内に寒桜らしき花が咲いていた事と、富士塚と思われる小さな築山があった為です。説明版が無かったので富士塚かどうかは確認できませんでした。
車で移動していたらこんなに早い春を感じる事は出来なかったですし、富士塚らしき築山も見ることが出来なかったと思います。


街道歩き旅.comさんのホームページによると、柴宿は浅間山噴火の前は渡し場からこの雷電宮まで直線的に街道が延びていたそうですが、前述の噴火による災害で宿場が現在の場所に移転したとの事です。
五料橋を渡って街道筋が不自然に南に曲がっているのは宿場が移転した為です。
昼食は味噌ラーメンでした
お昼時になったので、食堂を探したら、街道から少し離れたところに チャオ・ラーメンハウス というお店がありました。60代のご夫婦と思われる方が切り盛りしている小さなお店です。
推測ですが街道歩きの人達が時々訪れるのだと思います。何も言わなくても水を何回も注いでくれ、帰り際に「寒いので風邪をひかない様にお気をつけてください。」と声をかけて頂きました。
旅先で優しい言葉をかけて頂くと本当に嬉しいです。
柴宿から境宿の間
下道寺町(げどうじちょう)の道標
例幣使街道が緩やかにカーブしてY字路になったところに円柱と四角柱の道標がありました。円柱の石柱は少し珍しい感じがします。
残念ながら風化が進んでいて文字を読み取るのは困難でしたが、円柱の道路に面した部分に 「猿田彦大神」と書かれているのが読み取れました。


石仏・石塔群

説明版などは無かったので由来は分かりません。
風化が進んだ道標や石仏を見ると、そこにずっと立って街道を行き過ぎる人達を見守っていたと思うと、教科書には載らない歴史を感じます。
右赤城

「右赤城」と呼ばれている街道筋で、これまで日光を目指して歩いていると赤城山は左手に見えるのですが、この区間だけは右手に赤城山が見えるという事で有名らしいです。
”らしい”と書いたのはここを歩くまで「右赤城」を全く知りませんでした。 道標に ”右赤城” と書いてあるのを見て 「右に曲がると赤城山方面に行くのかな?」 と思ったくらいです。
カシミール3D 国土地理院



昔は広瀬川がもっと蛇行して南側に張り出していたのかな?とも思いますが何故この区間はこんな風な道筋になったのか疑問です。
竹石の渡し
当時、広瀬川は利根川の五料の渡しと並んで舟渡しでした。
説明版によると、船賃は1人銭3文、荷物一駄が12文だったとの事で、落語の「時そば」では蕎麦が16文なので意外と安価だったと思います。
通常は村が管理する舟一艘で運行していたのですが、日光例幣使が通行する場合は隣村から二艘の舟を借りて三艘で運行し、荷駄の積み下ろしは人足200名で行ったとの事です。
ここで疑問が沸きます。例幣使御一行様は50名程度でしたので、例幣使の旅荷物と大祭で使う装束、或いは供物などを加えたとしても人足200名で対応する程の荷物の量なのか?と思います。
インターネットで調べると日光例幣使の意外な一面が掲載されています。
ある公家が例幣使に決まると、その公家と付き合いがある商人などが公家奉公人になりすまして随行したとの事です。商人ですので、当然商売をする事が目的で、京で仕入れた物品を旅の途中や江戸で売りさばいていたとの事です。それであれば荷物も増える訳だと納得できます。
俄公家が旅先では朝廷の使いという扱いを受けるので、段々と増長した態度になるのはむべなるかなです。
公家は公家で幕府から、かつての知行を取り上げられ、江戸期には京都のほんの僅かな場所に押し込められ自由も奪われ、極貧の生活を強いられている上に、かつては使用人だった武士の棟梁に進物をしなければならないという、プライドが許さない感情を持ったとしてもおかしくはないと思います。
という事で日光例幣使御一行様は金品を要求したりして素行が良くなく、街道沿いの住民からは嫌われていたと多くのインターネット情報に書いてありました。
興覚めする話ですが、歴史の一面と云うか、人の感情の一面というか、とても人間臭い話です。


御嶽山神社の八海山
武士橋(たけしはし)を渡ると新道の県道142号線の北側に斜めに接続して例幣使街道が続いています。
その途中に御嶽山と掲げられた神社がありました。
その境内に高さ6mほどの築山があり、地元の人達は「御嶽山」あるいは「八海山」と呼んでいるとの事です。
山岳信仰が盛んだった江戸時代後期に、当時の聖地だった御嶽山・八海山を招請して築山を造って祀ったことからその様に呼ばれているとの事です。
八海山は新潟県南魚沼市にそびえる1778mの山です。現在でも信仰の対象であり、1月の大寒の日には水垢離(滝行)を行い、10月20日には麓の八海山尊神社で 大火渡祭 が執り行われて山伏の姿をした信者が火の中を歩いて祈りを捧げる祭りが開かれています。
注:火の中と言っても熾火になった炭の間に通路を作ってその部分を歩きます。


八海山
写真左:新潟県長岡市付近より 早春
写真右:新潟県南魚沼市付近より 真冬
八海山は日本酒の銘柄としても知られています。八海山の麓に蔵元があります。


御嶽山 中山道 奈良井宿と藪原宿の途中にある御嶽神社より望む

境宿
雰囲気が良い道

どこがどう雰囲気が良いのか?と聞かれると答えに詰まるのですが、県道142号線が通らなかったので旧街道の面影がそこはかとなく残っています。
境宿 織間本陣跡

説明版によると伊勢崎藩士の家この地に移築した本陣で、主屋は茅葺平屋建てだったとの事です。
小林一茶は寛政3年(1791年)4月12日、江戸から信州に行く途中、織間本陣の家主で俳人である専車を訪ねたが不在で会えなかった為
時鳥 我が身ばかりに 降る雨か 一茶
を残して立ち去ったとの事です。
今日は東武鉄道伊勢崎線の 境町駅前駐車場に置いた車を取りに行って行動は終わりです。
エピローグ
以前、中山道を歩いた時に倉賀野宿で日光例幣使街道の追分を通りました。また日光街道を歩いた時は栃木県今市で日光例幣使街道が合流する道を歩きました。
その時、いつか日光例幣使街道を歩くことになるのかな?とぼんやりと考えていました。それが今年(2020年)1月に歩くことになりました。
北関東の冬は空っ風が有名ですが記録的暖冬の為か空っ風に悩ませられる事もなく、寒さもそれ程気にならない程度の寒さで天候にも助けられて歩く事が出来ました。
END
2020/02/27 竹石の渡し部分に例幣使の素行に関する記事を追記
2020/02/08 作成
Column
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