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電子足跡:旧甲州街道歩き旅
 日本橋から八王子宿へ


プロローグ

旧甲州街道を日本橋から新宿-下高井戸-上高井戸-布田五ヶ宿-府中-日野を通り八王子宿まで歩いたページです。
旧街道と言ってもこの区間は大都会の中を歩く道です。ですが、東京と云う都市の魅力の一つなのですが、ある意味なんら計画性を感じられない雑多な街並みの中に江戸や明治の痕跡が残り、更には律令制の頃の記憶が地名に残っていたり、万葉集の東歌の風景があったり、雑多な中に日本の良さを感じる事が出来る道です。


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都道府県 区間 歩いた日 GPS
移動距離
備考
東京都 日本橋-京王線仙川駅 2019年11月26日 20.4km  
東京都 仙川駅-JR八王子駅 2019年11月28日 26.7km  

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カシミール3D 国土地理院 
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)

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日本橋
 

旅の始まりは日本橋です。
日本橋を訪れたのは日光街道、中山道を歩いた時を含めて数回ありますが、日本橋を横からまじまじと見たのは初めてです。

首都高が景観を損ねていますが、見ようによっては最初に川があって舟運が人の生活を支え、次に日本橋が出来て人々が行きかい、更に高速道路が出来て車が社会経済を活性化して・・・、と時代が層をなして積み重なっている様に見えなくもありません。



日本国道路元標
日本橋のほぼ中央に埋め込まれている 「日本国道路元標」。 橋の中央にあるので歩道から撮影しました。
写真右は日本橋北詰にある複製の写真です。


甲州街道歩き旅の始まりです。
でも、都内の記事は少し書きずらいです。「田舎者に言われなくても、毎日通勤で見ているヨ!」と言われそうですが、気を取り直して続けます。



日本橋から南に歩き始めて直ぐに呉服橋交差点を西に曲がると山手線の高架を潜ります。まっすぐ行くと江戸城大手門に行きますが、高架を潜り終わったところで南に曲がり東京駅の北側に進むとドーム状の東京駅が見えてきます。

東京駅


最初に東京駅を見たのは、父に連れられて東京見物に行った5、6歳の時だと思います。それから東京駅は何回も見ましたが、東京駅が元々は3階建てで、空襲で駅舎が焼け、その後焼け残った部分を使い多くの部分を2階建ての駅舎に再建したという事を知ったのは、復元工事が始まった2007年頃だったと思います。復元前の南北にある屋根は中央の屋根と同じような三角形で、その屋根が元々はドーム型の屋根だったと知ったのもその時でした。

正面からの東京駅は何回も見ましたが、横から見た東京駅は新鮮な感じがします。というより別な建物という感じです。
コンクリートとガラスの無機質な物質のビルを背景にすると、同じ無機質な物質である煉瓦やスレートを使っているにも関わらず、より、その造形の美しさ・重厚さが際立ちます。
・・・、我が身を振り返り、私もイケメンの俳優も同じ物質で出来ていますが、なんで見栄えがこうも違うものなのかと思ってしまいます。



皇居周辺


和田倉門守衛所跡


旧第一生命ビル 旧GHQ(General Headquarters 連合国軍最高司令部)


桜田門


三宅坂から江戸城桜田門濠を望む
三宅坂。若い女性のボーカル&ダンスユニットの名前かと思ってしまいましたが、そちらは乃木坂でした。

四谷


三宅坂を登って半蔵門で西に曲がると現在では新宿通りと言われている道になります。

四谷大木戸跡
新宿御苑の北東端付近、新宿通りと外苑西通りの交差点に四谷大木戸がありました。
大木戸は旧甲州街道の江戸の出入り口で関所の役割があったとの事です。

写真は新宿通り北側の大木戸跡です。
大木戸跡と言っても、石碑と石灯籠が立っているだけで、大木戸を想像できる遺構はありません。
江戸名所図会の四谷大木戸を見ると石畳が敷かれ、石垣が築かれている絵を見ることができます。

旧東海道では地下鉄泉岳寺駅付近に高輪大木戸跡があります。こちらは石垣が一部残っています。

新宿
 

新宿は江戸を過ぎて最初の宿場が下高井戸宿で少々遠かったため、浅草安倍川町の名主の喜兵衛ほか4名が上納金とともに宿場開設を願いでて、元禄11年(1698年)に新たな宿場として新宿が設けられたという話はよく知られています。
その時、信州高遠藩主内藤家の中屋敷の一部を利用した為 ”内藤新宿” と呼ばれていました。
因みに、現在の新宿御苑は内藤家の下屋敷でした。

新宿三丁目の交差点で伊勢丹の建物が見えたら左折です。真っすぐ行くと青梅街道です。

新宿駅南口前が甲州街道です。
新宿駅を過ぎたあと、資料によってはそのまま現在の甲州街道を進む様な道筋になっている資料もありますが、今回参考にした「ちゃんと歩ける甲州街道 五街道ウオーク・八木牧夫著 山と渓谷社」によると、現在の甲州街道から一本北側の国際通りと言われている、KDDIビルが見える道が旧甲州街道の道筋と書かれているのでそちらを歩きました。

写真左:新宿区三丁目交差点 青梅街道追分
写真右:新宿駅南口駅前


国際通り
若いころ、自分が何者かも分からず、何をするべきかも知らないで、酔っぱらって友人と歩いた道が旧甲州街道だったとは思いもしませんでした。
ただただ、茫漠とした時間の中で、根拠の無い希望だけで生きていた様な時期でした。

私は理系の学生だったのですが、講義にも出ないで、アパートで小説を読んだり、絵を描いたり、時には新宿や池袋で2本立てで500円くらいの映画を見たり。なんとも無益に過ごしていたとも思えますし、その時間があったので今があるとも思えますし・・・

と書きましたが、今でも「自分が何者なのか?」なんて明確な答えを持っている訳ではありません。おそらく一生分からないと思います。まさかこんな歳になって旧街道を歩いてホームページを作っている自分が居るなんてその当時は想像すら出来ませんでした。逆に『自分が何者か?』とか自分の未来が分かってしまったらつまらないと思います。きっと人生ってそんなものなのでしょう。

今、その当時を思い出すと、遠くで仔犬達がじゃれ合っている光景を見る様な、そんな感じがします。

甲州街道の上を通る首都高
新宿の高層ビル群を越えると甲州街道の上を首都高の高架が通る様になります。上北沢付近で旧甲州街道と分かれるまで6.5kmも続きます。この区間は旧街道の痕跡も雰囲気も殆どありません。

提灯屋 吉田商店
その首都高の下の昼でも少し薄暗い道に、小さなお店ですが、その一隅だけ華やかな光に包まれたような雰囲気の提灯屋さんがありました。渋谷区本町1丁目にある創業明治25年(1892年)の吉田商店です。
夜桜の提灯や、縁日の提灯にしろ、その周辺が華やかになり、ワクワクした気持ちになりますし、なんと言っても夕暮れになると赤ちょうちんに誘われるのは提灯の持つ力だと思います。



下高井戸宿・上高井戸宿
 


下高井戸宿は現在の京王線桜上水駅付近で上高井戸宿は京王線八幡山駅付近に在りました。
その間1.6km程で問屋(といや)業務は月の前半後半で分担して行っていたとの事です。
現在の業種で言えば、宿場の機能は宿泊業と運送業を合わせ持った機能で、問屋は運送業に相当して、荷駄や書状を次の宿場に運ぶという機能でした。
他の街道でも宿場が近い場合は分担する事があった様ですので、それだけ問屋業務が大きな負担だったのではないかと想像します。

また、現在からは想像もできませんが「ちゃんと歩ける甲州街道 五街道ウオーク・八木牧夫著 山と渓谷社」の記述によると、下高井戸宿は家屋183軒で本陣1、問屋1、旅籠3、人口は890人。上高井戸宿は家屋168軒、本陣1、問屋1、旅籠2、人口787人と書いてあります。

この付近から街路樹や木立が目立つようになり、道の雰囲気が格段に良くなります。

写真左:玉川上水永泉寺緑地
写真右:下高井戸駅付近の甲州街道


芦花公園駅付近
京王線上北沢駅付近で首都高は右にカーブして甲州街道(国道20号線)と別れます。
更に八幡山駅と芦花公園駅との中間付近で甲州街道(国道20号線)と旧甲州街道に分岐して住宅地とも商店街ともつかないような生活道路を歩いていきます。

と、突然、芦花公園駅付近で木曽路でよく見かけた出梁造り(だしばりづくり)の家屋が一軒だけ残っていました。東京でよく残ったなとちょっとした驚きでした。まだ旧甲州街道が主要道路だった頃は出梁造りの家が軒を並べていたのだろうなと想像を逞しくします。



さらに、直ぐそばには取り残された様な昭和感溢れる路地がありました。
夕暮れに通りかかったら、足を止めて、おでんと焼き鳥と熱燗を頼んで親父さんと話をしながら少し飲もうかという気持ちになります。


今日は仙川駅まで歩いて行動は終わりです。

布田五ケ宿
 

昨日は天気が悪かったので、なか一日置いて仙川駅から歩き始めました。

布田五ケ宿は
上上原宿 下石原宿 上布田宿 下布田宿 国領宿の5宿の総称で現在の調布市にありました。京王線の駅で言うと国領駅、布田駅、調布駅、西調布駅、飛田給駅周辺です。ほぼ駅1区間に宿場があるのでかなり近くだったと言えます。

調布の名前の由来は律令制時代の租税制度である祖庸調のうちの調(その土地の特産物を税として納める)で布を納めていたことに由来しているのはよく知られた話です。

万葉集に載っている東歌

 多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだかなしき

この和歌は高校の教科書に載っていたので記憶にあります。現在とは全く違う風景とは思いますが、愛おしい人が多摩川の清流に布を晒す情景が目に浮かびます。東歌は変に技巧的で無いので、率直に詠み人の心情と情景が伝わってきます。

この三叉路から道の雰囲気が変わります
調布市八雲台2丁目三叉路です。どこにでもある様な三叉路です。この道をセブンイレブンの方に進みます。こちらの道が旧甲州街道です。
この道はこれまで歩いて来た国道20号線(現甲州街道)とは雰囲気が異なります。
変わると言っても突然、中山道の奈良井宿や馬籠宿の様になるわけではないのですが、これまで見ることが無かった江戸時代の石仏や懐かしい感じの商店街などがあって、歴史を感じるとともに生活感を感じる様になります。


調布駅付近
自動車が走り抜ける幹線道路よりちょっとした路地や商店街の方が生活感があるので歩いていても楽しいです。
街角で ”おや?” と思うものを見つけるとちょっとうれしくなります。
天神通り商店街には鬼太郎と目玉おやじのオブジェが何気なく置いてあって、人の世界のすぐそばに鬼太郎達の世界があるような感じがしました。




金剛山源生禅寺の石仏群
調布市下石原1丁目にあるお寺の山門前にあります。
街道脇に普通に置かれていますが、元禄(1689~1705年)とか文政(1819~1831年)の年号が見えます。
元禄15年12月14日(1703年1月30日)は赤穂浪士が吉良邸に討入りをした日ですので300年以上前からここで街道を行く人達を見続けていた事になります。



神明山金剛寺石仏群
武蔵野台駅そばにあります。旧街道から見える山門の手前に立っていたのですが、その中に宝永七庚寅と年号が書かれていた地蔵菩薩と思われる石仏がありました。

その3年前の宝永四年(1707年)は富士山の大噴火があった年で、富士山の中腹にある大きな窪みは宝永噴火で出来た噴火口であることはよく知られています。
江戸をはじめ関東一円に火山灰が降り注ぎ富士山に近い小田原藩の被害は甚大で米の収穫量が噴火前に戻るまで90年程要したといわれています。



富士山噴火や赤穂浪士討入りは昔の出来事の様に思ってしまいますが、たかだか300年程前で、ましてや地質年代で300年前なんてほんのつい最近の出来事です。源生禅寺、金剛寺の石仏は歴史の中の遥か遠い出来事と思っている事が実はそれ程遠い話ではないと思い起こさせてくれます。

府中宿
 

府中宿は大國魂神社付近、駅で言うと京王線府中駅付近が中心地でした。
名前から分かるように、律令時代に武蔵国の国府が置かれた土地で、古くから政治・経済・文化の中心地でした。

大國魂神社
京王線府中駅方面から南北に続くケヤキ並木の先に鎮座しています。
大國魂大神を祀った神社で、出雲の大国主神と御同神で、武蔵国を開いた神様との事です。




大國魂神社のケヤキ
樹高7.0m 幹周6.8m


府中高札場
大國魂神社からすぐの甲州街道と府中街道の交差点にあります。説明版によると、この高札場の建物は江戸時代後期から末期にかけて建てられたと年代が推定されているとの事です。

時代劇さながらに、往来する当時の人達が高札場に掲げられた御触書を読んでいる姿が目に見えるような気がします。

中久本店
道路を挟んで高札場の前に、1860年(安政6年)創業の中久本店があります。本業は酒屋さんですが見世蔵造りの店舗を活かしてカフェとしても営業しているようです。

問屋場と高札場があった所なので、往時の府中宿の中心地だった場所と思います。
それにしても率直に東京の中でよく残ったなと思います。

武蔵府中熊野神社古墳
西府町2丁目にある7世紀中頃の明日香時代に築造された上円下方墳です。
南側に石室の入り口があり中心部に玄室があります。
特徴はなんと言っても表面全体の葺石です。多摩川の石が使われているそうです。
古墳というと樹木が鬱蒼と生い茂った姿をイメージしますが、築造当初はこの様な葺石で覆われた幾何学的な姿だったという事です。

薬医門の旧家
まるで時代劇に出てくるような門です。南武線谷保駅のそばにあります。
「ちゃんと歩ける甲州街道」の記述によると、名主で幕府の馬医者を勤めた本田家の門との事です。


常夜燈(秋葉燈)

火難除けの神を祀る秋葉神社にに由来する火伏の守りの意味を込めて建てられたと伝えられているとの事です。基壇の裏には文久三年癸亥四月(1864年)と刻まれているとの事です。

多摩川


これまで西に向かってほぼ平坦な道を歩いてきましたが、立川市柴崎町付近で大きく南方向に進むようになります。それ程急な坂という訳ではありませんが多摩川の段丘崖を下る道を進みます。
ここで初めて、これまでの道が多摩川の段丘面の上、武蔵野台地の南側を通っていたという事に気が付きます。



日野の渡し場跡
現在は立川市下水処理場になっている敷地の脇が日野の渡し場でした。
勿論現代は舟渡しは無いので立日橋を渡ります。

多摩川
雨模様でしたので寒々とした風景です。
私が写した写真では川幅が実感できないと思いますが、北岸と南岸の渡し場跡の距離は550m程あります。
「新修 五街道細見 岸井良衛 青蛙房」の柴崎と日野あいだの多摩川について 『此の川にて献上の鮎とれる。 玉川 舟わたし13文 名物 鮎のすし』 と書かれています。
最近は自治体の努力で水質が改善されてきたようですが、かつては鮎が泳ぐ清流で、その多摩川の水流で、織りあがった布を晒す風景が広がっていたのでしょう。

多摩川で白い布を晒す乙女を想像しながら多摩川を渡りました。

 多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだかなしき  東歌



日野宿
 


写真を撮りながら歩くと時間がかかります。冬の夕暮れは早く既に薄暗くなっています。
日野宿は新選組副長土方歳三の生誕地として知られています。
現在 土方歳三資料館になっている日野市石田2丁目が生家との事です。駅で言うと多摩モノレールの万願寺駅付近です。日野宿からは直線距離で2km程離れています。

日野宿問屋場・高札場跡


日野宿には都内で唯一残る江戸時代に建てられた本陣建物があります。しかしながら見逃してしまいました。

日野市観光協会のホームページによると
日野宿の問屋と名主を務めていた佐藤彦五郎が本陣兼自宅として元治元年(1864年)から使用されている建物との事です。
本陣の中に天然理心流の道場もあり、近藤勇、沖田総司、山南啓助 そして日野出身の土方歳三、井上源三郎らが剣の修行で集まって、後の新選組になっていったとのことです。

八王子宿
 


八王子手前でとっぷりと日が暮れてしまいました。写真も撮れなかったので八王子宿は次のページに掲載します。

竹の鼻一里塚跡
八王子宿に入る手前の新町の桝形の手前にあります。
GPSの移動距離で日本橋から46.4kmの所ですので
日本橋から11番目か12番目の一里塚ではないかと思います。
現在は竹の花公園として整備されています。

今日は八王子駅まで歩いて行動は終わりです。

エピローグ
 


旧街道と言っても、大都会の中を歩く道です。
若いころに通った道が旧甲州街道だったという発見があったり、こんな所にこんな古い建物があったり、ビルの隙間に遺構が残っていたりと意外な発見がある道でした。
東京の街の魅力は計画的に整備された幾何学的な街並みではなく、過去から続いた歴史の上に新しい街が作られてきたという、ある意味雑多な街並みが魅力だと思います。


END

2020/03/30 作成
 

Column


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