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電子足跡:旧甲州街道歩き旅
韮崎宿から御射山神戸(みさやまごうど)へ
プロローグ
このページは旧甲州街道を韮崎宿から長野県神戸(ごうど)まで歩いたページです。このルートは日本列島を東西に分断するフォッサマグナの西端である 糸魚川静岡構造線 が通る地形的にも興味深い道です。その糸魚川静岡構造線によって形成した韮崎から長野県富士見町まで約30km続く七里岩断崖を右に見ながら、残雪を頂く八ヶ岳、甲斐駒ヶ岳を見て、満開の桜の中を歩く何とも贅沢な風景の道です。
歩いたコースなのですが、参考にした 「ちゃんと歩ける甲州街道 (初版第3刷)」 では桐沢橋から穴山橋付近まで釜無川の東岸の道、現在の国道20号線を通るルートが掲載されていますが、他の方達のホームページを見ると西岸を歩いている場合もありました。GoogleMapを見ると西岸の道に所々 ”旧甲州街道” と書いてありました。
東岸のルートは現在の国道20号線でどことなく風情が無い様な気がしたのと、さらに西岸の戸沢川の所に 「円井(つぶらい)の逆断層」 と書いてあったのを見つけたので逆断層を見る為に西岸の道を歩く事にしました。
更に、この区間はJR中央線が韮崎から先は七里岩台地(穴山台地)の上を通っていて、旧甲州街道からは離れています。その為に旧甲州街道とJR中央線が再度近づく長野県すずらんの里駅までおよそ40kmの行程です。
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都道府県 | 区間 | 歩いた日 | GPS 移動距離 |
備考 |
山梨/長野 | 韮崎駅-すずらんの里駅 | 2021年03月31日 | 38.5km |
↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます | GPSログをGoogleEarthでツアーする方法 |
カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)
韮崎宿
韮崎 地名の由来
韮崎の地名の由来は、諸説あるようですが、韮崎は七里岩台地(穴山台地)の先端部分に位置しています。七里岩台地は八ヶ岳の噴火による山体崩壊の岩屑流が作った裾野を釜無川と塩川が浸食して、残った部分が台地になり、韮崎はその先端の先が細くなった部分にあるので、ニラの葉の様な地形から韮崎になったとインターネットに書いてありました。
台地の周辺は切り立った崖なので地形を利用して武田勝頼は台地の上に新府城を築城し拠点を甲府から移した歴史があります。
(国土地理院地形図をカシミール3Dにより描画してそのイメージデータを加工したものです。)
小林一三が育った街
韮崎宿は富士川水運、身延道、甲州街道と物流の拠点として栄えた宿場です。
現在の家並みも何処となく洒脱な感じがします。
そして韮崎宿は阪急電鉄・宝塚歌劇団創始者の小林一三が育った街です。
育った家は現在宝塚ファミリーランドに移築されているそうですが、韮崎の商家に生まれた一三は生まれてすぐ母親が亡くなり、父親とも生き別れたため、この地で製糸業・酒造業・金融業の豪商「布屋」を営んでいた叔父夫婦に引き取られて育てられたとの事です。
十六石
旧甲州街道の路傍にあります。
武田信玄がまだ晴信と名乗っていた天文12・13年頃(1543・44年)に氾濫を繰り返す釜無川の治水工事を行い、その堤防の根固めに並べた巨石です。その後江戸時代になって上宿から下宿(筆者注:現在の地名では何処なのかは分かりませんでした。)に人家が集まり韮崎が宿場として栄える様になったとの事です。(説明板より)
それにしても500年近く前に行った治水工事が現在にまで影響を与えているって信じられないです。
そして、十六石の周辺には水神宮と彫られた石柱や水難供養塔が建っており、水害に苦しめられた土地だった事が分かります。
釜無川西岸の道
冒頭に書いた様に上祖母石付近で桐沢橋を渡って釜無川の西岸の道を歩きました。桐沢橋からの風景
写真左:下流方向を望む 霞んでいなければ富士山が見えるはず
写真右:上流方向を望む 右岸が釜無川が削った七里ヶ岩台地の段丘涯
高川南沢川河畔の桜
双体道祖神?
説明板が無かったので確証はありませんが、集落の入口付近で道が分岐する場所に建っていましたし、モチーフ的にも道祖神かなと思います。この辺りまで来ると甲府盆地内で見かけた球形道祖神ではなくなるのですね。
西岸の道は氾濫原より一段高くなった河岸段丘の上に続いています。街道筋からは釜無川東岸の七里ヶ岩台地の段丘涯がずっと続いているのが良く見えます。
徳島堰
分かり易く言えば人口の用水路ですが、最初に作られたのが寛文5年(1665年)に着工して不良箇所の修復をして寛文10年に完成しました。
驚くのはその距離で上円井から櫛形町大輪沢まで17kmに及びます。ざっくり言うと甲府盆地の西側の山麓に沿って半分位をこの用水路が流れているという事になります。
老朽化したので昭和41年から9年かけて改良工事が行われ現在に至っています。
そして現在も 田1559ha 畑2052ha に水を供給しています。(説明版を要約して補足)
円井(つぶらい)の逆断層
街道から少し戸沢川を遡った所にあります。
実際に逆断層の露頭を見たのは初めてです。
素人目には何がどうなのか良く分からず、何度も行ったり来たりしてようやく断層の場所が分かった次第です。
それにしても地質学者は地層のこんな少しの変化を見逃さずに断層を発見し、その断層から地殻変動に思いを広げ、更に地球全体のプレートの動きまで思い至るというのは凄い想像力だと思います。
ドイツの気象学者ウェゲナーが大陸移動説を発表したのが1912年、何故大陸が移動するのかについて回答を与えたのが1960年代後半に提唱されたプレートテクトニクス理論です。現在ではごく当たり前に大陸移動説やプレートテクトニクス理論の話をしますが、まだ理論が提唱されて、たかだか60年位しか経っていないのに、ごく普通に話題に登る事に逆に驚きます。
下円井集落の風景
逆断層を見終わって街道に戻ると戸沢川を渡河して下円井の集落に入ります。
この付近の家並みは風情があります。
徳島堰の桜並木
GoogleMapにも載っているので有名な場所なのでしょう。国道20号線手前 上記の徳島堰の取水口付近の徳島堰の岸辺の桜並木です。旧甲州街道はこの桜並木の中を通っています。
徳島堰の桜並木を過ぎて国道20号線を越えた所で 「ちゃんと歩ける甲州街道」 に掲載されている旧街道のルートに戻ります。
上円井付近の風景
武川町付近の風景
七里岩
釜無川東側の135m程切り立った絶壁です。135mと言ってもイメージが沸かないかもしれませんが、東京タワーの大展望台が150mの高さですので崖の上はほぼ東京タワー大展望台の高さという事になります。
この高さの断崖が多少高低差はあるものの韮崎付近から長野県諏訪郡富士見町付近まで約30km近く続いています。この道は糸魚川静岡構造線の大断層で脆弱になった地質を釜無川が浸食して形成したと言われています。
甲州街道は偶然この地を通っている訳ではなく、一般的に断層は長距離・直線的に形成されるので、長距離直線的に脆弱になった部分が浸食され谷底平野になった部分に道を作ると平で最短距離の道を作る事ができるという事です。
そして目を西に転じると赤石山脈の山々が連なっています。
写真右から 甲斐駒ヶ岳・摩利支天 左側に行って 地蔵が岳・観音山
台ケ原宿
台ケ原宿は北杜市白洲町にあります。白洲町はその町名は知らなくても、サントリーのウイスキー 「白洲」 をご存じの方は多いと思います。サントリー白州醸造所がある町です。
甲州街道古道
釜無川と尾白川が合流する所から白洲町に入ります。
距離は1km程ですが、国道20号線と斜めに接続した古道が尾白川に沿って続いています。
写真左:甲州街道古道入口
写真右:横山の道標 道標を兼ねた馬頭観音 側面に 「右かうふみち」 「左はらぢ通」 と彫られています。
時々お世話になるホームページ 「旧街道ウォーキング 人力」の この写真の右側の馬頭観音が倒れています。 かっちゃん氏 がここを歩いたのは2007年ですのでそれ以後に修復したのだと思います。自治体が修復するのか地元の方達が修復したのかは分かりかねますが古道をメンテナンスして頂けるのは有難いことです。
写真左:無銘の巨塔
下から見上げたとき、「2001年宇宙の旅」に出てくる ”モノリス” があるのかと思ってしまいました。 明治14年の日蓮600年忌に向けて準備されていたのですが、明治4年に資金難になりこの地に残されたそうです。計画ではこの地から釜無川を越えて1.5kmほど離れた見法寺に運ばれてから銘を刻む予定でしたが銘が刻まれることなく現在に至っているとの事です。(説明版より)
台ケ原宿
古道が終わり国道20号線を渡ると台ケ原の集落になります。
景観の保護に努めている様で家並みに風情がありますし、説明版も充実しています。
神宮川の桜
この桜並木もGoogleMapに掲載されています。
神宮川の少し上流に山懐に囲まれたサントリー白州醸造所があります。
教来石(きょうらいし)宿
下教来石集落手前の流川の河岸の桜です。今回の歩き旅は笹子から始まり、徐々に標高が高い所に向かって歩いているので、毎日満開の桜を見ながら歩きました。満開の桜は毎日見ても飽きるという事がありません。桜を見るたびに写真を写すので歩きの速度が上がらずなかなか前に進まないのですが、焦って先に進んでも仕方ないので桜を、そして季節を楽しみながら歩きました。
”教来石(きょうらいし)” と言う地名は初めて聞きました。
インターネットで調べると 集落内にある 経来石 に由来し ”経” が ”教” に変わったと書かれています。それでは 経来石 とは何か?という事ですが日本武尊が東征のときに座った大きな石を村人が ”経て来石(へてこいし)”と呼んだ事が起源になっていると書かれています。
或いは、石を神として祀りその石を ”きよらいし(清い石)” と呼び 音に経来石の漢字を当てたとも書かれていました。
ちなみに教来石集落には流川のそば旧甲州街道から西へ250m程の畑の中に大きな経来石 があります。
教来石集落は段丘涯の上にあります。
上の右側の写真の道は段丘涯のへりを通っています。釜無川の対岸には段丘涯が見えます。断崖が始まる韮崎から24km歩いてもまだずっと段丘涯が続いています。七里岩と言われるゆえんです。
山口の関所跡
上教来石集落のはずれにあった関所です。説明板によると、いつ頃からあったは不明との事ですが、天文10年(1546年)武田信玄の伊那進攻の際に設けられたという伝承があるそうです。
関所があるという事はいよいよ甲斐の国と信濃の国の国境が近くなったと思わせてくれます。
山梨県・長野県 県境
釜無川に架かる国界橋が山梨県と長野県の県境です。実は県境を越えるときに道を間違えてしまいました。
国道20号線に架かる国界橋を渡って長野県に入ったのですが、旧甲州街道は国界橋の少し上流の橋を渡る道の方がより旧街道に近い道です。
ただ他の方のホームページにこの道は ”歩けない” と書いてある場合もありました。
蔦木宿
国界橋を渡って少し進むと国道20号線に斜めに接続した坂道があります。蔦木宿へはその坂を一旦登り高台にでてから下って進みます。写真左:登り口付近の石仏・石塔群
写真右:蔦木宿遠景
写真右:道祖神
宿場の入口にありました。風化が激しいですが二体の人物が彫られている様に見えます。ここでも甲府盆地で見られた球体道祖神ではありませんでした。
写真左:鹿島山三光寺
写真右:葛木宿本陣 大阪屋
写真左:蔦木宿の家並み
写真右:宿場はずれの旧街道
この付近まで来るとこれまで続いていた七里岩断崖がようやく途切れた感じがします。
逆に言えば大規模な浸食はこの付近から始まったという事です。
それにしてもこれだけ長く高く切り立った浸食涯を見た経験はそうありませんでした。
何十年も前に群馬県沼田市片品川河岸の赤城山麓の河岸段丘を見たとき以来の様な気がします。あったととしても生活する事でアクセクしていて感性が鈍って感動せずに通り過ぎていたのかもしれませんけれど。
平岡・机 地区
蔦宿を越えて釜無川の東岸を遡って行くと 平岡・机 地区を通ります。国道20号線が旧甲州街道より釜無川よりに新しく通ったので景観が残ったのだと思いますが風情の良い道です。
瀬沢地区から塚平・富士見を通り神戸へ
釜無川の支流立場川に架かる国道20号線の橋を渡ると瀬沢地区になりますが、ここから塚平まで勾配がきつくなります。坂道を登りきると後は基本諏訪湖に向かって下り坂になります。
写真のライト群は富士見パノラマスキー場です。
本来の旧甲州街道は登って来た道がそのまま真っすぐ続いていたのですが、今はソーラー発電所になっていて通行不可です。ソーラ発電所の西側に道が出来ているのでそちらを歩きます。
下の写真は次の日に車で再訪して写した写真です。
地名が富士見なので霞んでいなければ富士山が良く見えたと思いますが残念でした。
原の茶屋付近
御射山神戸(みさやまごうど)到着
今日のゴール神戸に着きました。19時30分です。韮崎駅を7時頃出発したので12時間位歩きました。
この神戸という土地に何故 ”御射山” と付けているかという事ですが、ここから直線距離で12kmほど下諏訪方向に進んだ、茅野駅と上諏訪駅の中間くらいの所にも神戸という地名があるからだと思います。
ごうど・こうべ・かんべ・じんと・じんこ・・・
ところで 神戸(ごうど)という地名ですが、まず思い浮かべるのは兵庫の神戸(こうべ)だと思いますが、中山道を歩いたとき岐阜県可児郡御嵩町で ”顔戸” と書いて ”ごうど” という地名がありました。
気になったのでインターネットで調べました。意外と同じ地名が各地にあります。
いろいろな事が書いてあり、複数の由来があるようなのですが、神社に所属する住民が住んだ場所、別の言い方をすれば神社の祭祀や労役に関わり税を収めた民が住んだ土地という説がありました。兵庫の神戸は生田神社に関わる人々が暮らした土地という事の様です。
現在からは想像出来ませんが、神社は現在とはその在り方や役割が全く異なっていたのだと知りました。
エピローグ
さすがに40kmくらい歩くと疲れます。明日は休みにします。蔦宿のそばの 道の駅 信州蔦木宿 で車中泊です。
朝はゆっくり起きて、道の駅にある温泉で疲れを癒し、ドライブがてら八ヶ岳の裾野を巡り、帰りにピザを買って来て 満開の桜の下でピザを食べて眠りにつきました。贅沢な一日でした。
こうして食事をしていると、たまにそばで同じように車中泊をしている方と話をする事があります。多くの場合、定年になって気ままに車中泊をしながら旅行している方が多いです。私の場合は歩く為に車中泊しているのですが、「車中泊しながら旧街道を歩いています。」と言うと,皆さん一様に驚いた表情をして、暫くしてから『失礼だけど、ただ歩いている事の何が楽しいいのですか?』と聞かれる事が多いです。あらためて『何が楽しいのか?』と聞かれると、実は答えに窮してしまいます。仕方ないので笑って胡麻化しています。
END
2021/06/02 作成
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