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電子足跡:北国街道歩き旅
善光寺から下戸倉宿へ
プロローグ
このページは北国街道を長野県 善光寺宿から下戸倉宿まで 歩いたページです。長野市郊外の犀川を渡る橋から鹿島槍ヶ岳をはじめ日本アルプスの山並みが望まれ何とも美しい風景です。
更に進むと上杉謙信と武田信玄が戦った川中島を進みます。街道沿いからは川中島古戦場を見る事は出来ませんが、広大な洪水堆積地の平原から往時の雄たけび、軍馬の嘶きが聞こえてくる様な感じがします。
都道府県 |
区間 | 歩いた日 | GPS移動距離 | 備考 |
長野県 | しなの線 長野駅-戸倉駅 | 2020年11月15日 | 22.1km |
↑GoogleMapと地理院地図に GPSログと写真がマッピング された地図が開きます |
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GPSログを GoogleEarthでツアーする方法 |
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(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)
善光寺宿
昨日 善光寺を参拝して今日は長野駅周辺からスタートです。長野駅周辺は鉄道や道路の敷設で旧北国街道は消滅していますが、なんとなくこの通りが旧街道だったのかな?という雰囲気を感じます。
丹波島橋
犀川に架かる橋です。
橋の欄干に歴史が書かれた説明板があったのですが、慶長16年(1611年)北国街道が整備され善光寺宿、丹波島宿、矢代宿が置かれると、犀川の渡しも開かれて、明治23年(1890年)丹波島地区の民間人によって木橋が架けられるまでは舟渡しだったとの事です。
写真左:丹波島橋北詰
写真右:北詰にある永代常夜灯 文政六癸未年八月彼岸(1823年)と刻まれています。
まるで銭湯のペンキ絵の様な風景ですが、犀川の奥に見えるアルプス山脈です。丹波島橋を渡る途中で見える風景です。
中央付近の双耳峰の山が鹿島槍ヶ岳です。
左から 爺ヶ岳 布引山 鹿島槍ヶ岳・北峰 八峰キレット 五龍岳。
丹波島宿
犀川を渡ると丹波島宿です。振り返ると犀川の対岸に長野市街が見えます。
丹波島宿は東西に直線的に敷設された街道筋に発達した宿場で東西の端は直角に曲がる枡形になっています。かつて旅籠だったと思われる家には屋号が掲げられ宿場として賑わった時代を彷彿とさせます。
写真左:犀川と丹波島橋
写真右:丹波島の渡し碑
写真左:丹波島宿の家並み
写真右:柳島家
慶長16年(1611年)丹波島宿開設以来260年間問屋を務め、脇本陣も兼ねていたとの事です。
川中島北原付近
丹波島宿の西の枡形を曲がり南西に進みます。信号機に ”川中島” と書かれていたので、この付近の地名が川中島なのかと認識しました。川中島の戦い
川中島は丹波島宿も含めた犀川と千曲川に囲まれた三角地帯の地名です。その川中島の八幡原で上杉謙信と武田信玄の 「川中島の戦い」 がありました。
川中島の古戦場は北国街道から3~4km離れているので見る事は出来ませんが、洪水堆積地の川中島の平原は、ここでかつて龍虎の戦いがあり、軍馬の嘶き、兵士の雄たけびが聞こえてくる様な気がします。
何回か戦いがありますが、最大の戦いが4回目の永禄4年9月9日(1561年10月17日)で、この戦を川中島の戦いと言う場合が多いです。
川中島古戦場跡に建つ上杉謙信、武田信玄一騎打ち像
武田信玄が本陣を置いた八幡原は川中島古戦場史跡公園として整備されています。
鞭音粛々 夜河を渡る
暁に見る千兵の 大牙を擁するを
遺恨なり十年 一剣を磨き
流星光底 長蛇を逸す
篠ノ井追分宿
篠ノ井追分宿は間宿で正式に認められた宿場ではありませんでした。ですが、北国街道と善光寺西街道との追分で善光寺詣での宿泊客で賑わい、千曲川の船運の最終川湊でもある事から経済的にも発展した宿場でした。
現在でも 「あれ?なんでこんな所に、こんな大きな町が在るのだろう?」 と思います。
当時の中心地は現在篠井駅がある付近ではなく、少し南下した矢代の渡しが在った千曲川の北岸でした。
経済的に発展していた事もあり、明治になると更級郡役所が置かれこの地域の中心地でした。
写真:更科郡役所・警察署跡
軻良根古神社(からねこじんじゃ)
千曲川のほとり、矢代の渡しが在った付近に鎮座する神社です。珍しい名前の神社です。
伝承があって、大ネズミが大発生した時に唐(中国)から大ネコを買い入れて、大ネズミの駆除をさせました。大ネコはネズミ達を堤まで追い込みましたが、ネズミ達は堤を食いちぎった為、大洪水が発生し、大ネコ、ネズミ共に溺死しました。大ネコの死体が流れ着いた付近に住民達はその御霊を慰めるため軻良根古神社を創建して祭ったとの事です。
堤防の土の中に巣を作り、土手を脆弱にするネズミは治水の大敵だったという事なのだと思います。
矢代の渡し(千曲川)
勿論、現在は渡し船は運航していないので、少し下流の篠ノ井橋を渡って進みます。
矢代宿(屋代)
千曲川を渡り、更科ICを過ぎると矢代宿です。矢代宿の家は多くが建て替わり宿場と言う雰囲気は希薄ですが、
その中でも ”ふぢや旅館” の建物と ”正蓮寺” の伽藍および”鴟尾(しび)” が印象的でした。
写真左:矢代宿の家並み
写真右:ふぢや旅館
正蓮寺
是より 江戸へ 五十里
”屋代を語る会”が設置した道標
枡形の所に建っていました。
昔の人は 一日10里は歩いたそうなので江戸まであと5日。
下戸倉宿
矢代宿を過ぎると、これまでは平原の中の道でしたが、徐々に山が迫ってきます。
所々に旧街道の痕跡が残る長閑な風景の中を歩いて行きます。
今日は しなの鉄道戸倉駅 まで歩いてゴールです。
エピローグ
この写真は車中泊した 道の駅 上田 道と川の駅 で写した写真です。
普段はこんなに早く起きる事はありませんが、歩き旅の時は疲れて早い時間に眠りますし、身体が疲れているので熟睡するのだと思います。自然に目が覚めます。
朝焼けは何度見ても美しいですし、新しい未来が始まる様な感覚を覚えます。
END
2021年01月09日 作成
Column
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