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電子足跡:北国街道歩き旅
 新潟湊から弥彦宿へ


プロローグ

このページは北国街道をかつて新潟湊があった新潟市信濃川河口付近から越後一宮の弥彦神社が鎮座する弥彦宿まで歩いたページです。

この道は新潟市から赤塚宿付近まで2つのルートがありました。

浜通り

海岸線に近い砂丘の中を通る道で 新潟市街-関屋-五十嵐-四ツ郷屋-山崎-赤塚に至る道です。

中通り
現在のJR越後線に付近に沿っている道で 新潟市街-関屋-坂井-大野-内野-中権寺-谷内-木山-赤塚に至る道です。

細かな地名を挙げましたが、新潟市周辺に住んでいなければ分からない地名なので、多くの読者の方は『こんなに細かく地名を書かれてもな~。』ってのが本音だと思いますけど・・・

”図説・新潟県の街道”の記述によると信濃川の氾濫原であった内陸低地の開発が進んだ事と新潟湊の発展に伴って、信濃川の支流である西川の水運の発達が関係しているとの事です。ですので中通りの方が新しい道です。

文政3年(1820年)の新川の開削や昭和6年(1931年)大河津分水路の稼働開始などの人々の努力によって越後平野が現在のような穀倉地帯になったという歴史があります。
で、どちらの道を歩いたかという事ですが、”新潟県歴史の道調査報告書”には浜通りのルートが記載されていたのと、忘れ去られた様な浜通りの砂丘の道を歩いてみたかった事、そして何より、リスペクトしている”シングルおやじの気ままな一人旅”の”かっちゃん”氏が浜通りを歩いていたので迷わず浜通りを歩きました。
ただ、”新潟県歴史の道調査報告書”ではこの区間は赤い破線でルートが描かれています。砂丘の中の道ですので飛砂で道が埋もれたりして現在の道とは多少異なっているのだと思います。


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都道府県
区間 歩いた日 GPS移動距離 備考
新潟県
新潟市-内野駅 2020年9月10日 16.5km
新潟県 内野駅-弥彦駅
2020年7月16日 26.3km


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GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法

カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)

新潟湊


新潟湊は現在の信濃川河口から2km弱の西側の岸にありました。
新潟湊跡には旧新潟税関庁舎や石庫、旧第四銀行住吉町支店、歴史博物館本館などが整備されています。
対岸にはフェリーターミナルや朱鷺メッセと言うコンベンションセンターがあります。

かつては幾多の北前船が入出航し、多くの荷揚げ作業員や船員が働いて活気がみなぎっていたのでしょう。

河口から出航するフェリーを見るとこれから旅が始まるという気持ちにさせてくれます。

写真左:歴史博物館本館
写真右:旧第四銀行住吉町支店


写真左:信濃川河口から出航するフェリー
写真右:朱鷺メッセ 出航する船をイメージしたデザインです。


旧新潟税関庁舎
安政5年(1858年)修好通商条約により神奈川・函館・長崎・兵庫と共に開港場の一つになりました。明治元年(1869年)に開港して、翌年に新潟運上所として税関業務を行う役所としてつくられました。(ホームページ みなとぴあ の記述を要約)


新潟市街


金比羅神社
新潟湊から少し市街地に歩くと、海運業者や船乗りの信仰を集めた金比羅神社がありました。街中の家に挟まれた小さな神社で、少し肩身が狭い感じですが、湊町の名残です。

古町通り
シャッター通りの様な風景ですが朝早かったので人通りが無いだけです。
古町という名前からこの通りがかつて新潟のメインストリートだったと感じさせてくれます。

右の写真の赤い建物の看板に ”古町花街飲食店案内所” と書かれています。
今でも飲食店が多い通りですが、かつては粋な芸者さんが三味線を抱えて歩いていたのだろうなと想像します。



ドカベンロード
新潟市は "ドカベン" "あぶさん" などの漫画で知られる漫画家水島新司氏の出身地です。
古町5番町には水島新司氏が創作したキャラクターの銅像が設置してあります。



古町通りは上の写真の”古町花街飲食店案内所”付近が北の外れで下の白山神社の鳥居の所が南の外れです。その間約3km弱も新潟市街の真ん中を貫いている繁華街です。

白山神社
白山神社は古町通りが終わる新潟市街の西に位置する神社です。
御祭神は菊理媛大神(白山大神)で石川県と岐阜県の県境にある白山山頂に祭られている女神様をこの地に勧進して祭られました。
国生み神話に出てくる伊邪那岐・伊邪那美夫婦が喧嘩したときに仲を取り持った神様との事で縁を強く結びつける神様との事です。




さんごん刑場跡
白山神社を過ぎて新潟市役所の建物を越え新潟大学歯学部の場所で、大通りを外れて学校町通りと言われる狭い道に入ります。
直ぐに写真の ”さんごん刑場跡”の石碑が目に留まりました。多くの場合、刑場は見せしめの為、当時のメインストリートである街道沿いで宿場や城下の外れに在る事が多いので刑場があったとするとこの道が旧北国街道だったという事になります。
”さんごん”は漢字で”三献”と書くとの事です。

学校町通三番町
さんごん刑場跡を過ぎて四つ角で更に裏通りに入りました。
この細い裏通りが旧北国街道なのかは定かではありません。

関屋分水路
ここまで来ると新潟市街からは離れたなと言う感じがします。
関屋分水路は新潟市を信濃川の氾濫から守る為と新潟港が信濃川が運ぶ土砂で水深が浅くなる事を防止する為に作られました。
昭和39年(1964年)3月に着工したのですが、新潟国体が終わって直ぐの6月に新潟地震が発生し工事は中断。その後、国の事業として再開して、通水したのは昭和47年(1972年)でした。着工した昭和39年(1964年)は東京オリンピックが開催された年でもあります。


内野


日にちは変わり今日は内野から弥彦への歩きです。

内野はベットタウンとして多くの人が住んでいます。朝、車を駅前に駐車して内野駅から電車に乗ったのですが、朝早いにも関わらず多くのサラリーマンや学生が乗り込んで来ました。

新川 江戸時代に開削された人工の川
「図説 新潟県の街道」によると、内野は五十嵐浜の漁民を相手に数軒の飲み屋がある小さな町でしたが、内陸の潟の水を抜く為に文化15年(1818年)から始まった新川の堀削・金蔵坂堀割工事の基地になってから、急速に発展した町との事です。
水を内陸から海に流すには海抜20mくらいの砂丘を切り崩す必要があったので膨大な労力が必要だったと想像できます。
前人達の苦労の末に現在の越後平野の豊な稔りがあると思わせてくれます。

砂丘の道


新川を渡って民家の中を少し歩くと、五十嵐浜の砂丘の中に道が続いています。





砂丘の多くはスイカ畑になっていて、古の人達が歩いた道はまだ農道として現役です。
スイカを撮影していたら、農家の方が「スイカを一個持って行け。」と何度も勧めてくれたのですが、さすがに大きなスイカを持って旧街道を歩く訳にもいかないので、スイカを食べたい気持ちをグッと抑えてお断りしました。あぁ~!スイカ食べたかったです!


砂丘の道から越後平野を望む




赤塚宿


佐潟
佐潟は赤塚宿の北西にある湖沼です。ラムサール条約に登録されており冬になると白鳥が飛来します。水深はそれほど深くはなく砂丘に囲まれた湖沼ですが流入する河川は無く湧き水で湖沼が成り立っています。
砂漠の中にオアシスを見たと言うとオーバーですが、水を湛えた風景を見るとホットした気持ちになります。
写真 手前の山は角田山、左奥の雲がかかった山が弥彦山です。今日は、その弥彦山の麓まで歩きます。


作曲家 遠藤実 の記念碑
若い世代の方は知らないかもしれませんが、今から57年前に舟木一夫が歌った ”高校三年生” を作曲した、昭和を代表する作曲家のひとり遠藤実の記念碑が佐潟湖畔にありました。
遠藤実は東京生まれですが、父親の仕事の関係で先ほど歩いて来た内野で17歳で上京するまで生活しました。
ここから4kmほど西に行った所に 遠藤実記念館「実唱館」があります。

松尾芭蕉句碑
この句碑は真ん中が芭蕉の句で

 安果安果と日盤川礼難久毛秋乃可世
 (あかあかとひはつれなくもあきのかぜ)

の句が刻まれています。これは赤塚宿で俳諧が広まり、芭蕉を慕った村人が天保14年(1843年)に建てたとの事です。

松尾芭蕉の 「おくのほそ道」 には越後で詠んだ俳句は少なく

 文月や六日も常の夜には似ず

 荒海や佐渡に横たふ天の川

 一つ家に遊女も寝たり萩と月


の三句が収められています。

一つ家に・・・ の句は越後と越中の国境(くにざかい)にある市振宿で、お伊勢参りに行く新潟から来た遊女二人と同宿になり、世捨て人の芭蕉と身体を売る事を生業とする遊女と泊まり合わせた奇縁を詠んだ句です。

芭蕉と曽良も新潟から来た遊女達もそして私も、この同じ道を歩いたと思うと、時を超えて、何故か不思議な感じがします。

新潟から来た遊女で思い出しましたが、日光例幣使街道を歩いたとき、木崎宿色地蔵というお地蔵様がありました。木崎宿は飯盛女(遊女)が多く働いていて、その飯盛女の多くは越後蒲原郷から身売りされて来たそうです。越後蒲原郷とは、今日私が歩いて来た道を含むこの越後平野の、かつては信濃川・阿賀野川が氾濫を繰り返す低湿地でした。現在からは想像する事も難しいですが、困窮する農家が多く、身売りされる女性が多かったのだと思います。

宿場内の風景
宿場内は大きくもなく小さくもない程よい街並みの印象です。ただ、どこの宿場もそうですが人通りが少なく少し寂しい感じがするのは否めません。

写真の中原邸は江戸時代は本陣を務めた旧家です。説明板によると江戸時代後期に建てられ主屋と明治後期の煉瓦塀が残り、明治11年(1879年)明治天皇巡幸のとき昼食を召し上がった上段の間が現存しているとの事です。

写真右:中原邸


弥彦神社への道


松野尾の道標

赤塚宿を過ぎて田園の中を歩いていると道標がありました。
この道標には ”右やひこ道” と書かれています。新潟方面から弥彦神社に参詣する人達の為に建てられたものです。
文字が黒々としていたので、街道歩きを趣味にしている人達を対象に新しく建てられた道標か?と思いましたがそんな事はある筈もなく、昔からこの場所に立っていた道標です。おそらく苔むして文字も読取り難くなったので綺麗にしたのではないかと思います。

笹祝酒造
銘柄は ”笹祝” ”竹林爽風” などがあります。
街道を歩くと、よく街道沿いに蔵元がある事があります。多くの場合立派な建物で昔からの風情を残している事が多いです。
笹祝酒造も例外ではなく、黒塀が残りここだけ江戸時代が残っている感じがします。

エチゴビール工場
田園の中にエチゴビールの工場があります。
エチゴビールは酒税法が改正され小規模なビール工場でも免許が取得出来るようになって日本で初めて出来たビール工場です。(ホームページより)
以前は弥彦連山の麓に小さな工場があったのですが、人気が出たのでしょう平野部に新しい工場を建てました。
夕食の時まずエチゴビールで喉を潤して、それから新潟の日本酒で食事をするのはチョットした贅沢です。



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これまで南下してきた道が西に折れ曲がり、家並みが途切れ田園の中の道を進みます。
正面の山は弥彦連山のひとつ角田山です。


路傍には石仏が並び昔の風景そのままなのではないかと感じます。夏ですが爽やかな風が吹き抜け心地よい道です。


稲島宿(とうじま)


未舗装の道
稲島宿の手前100mくらいですが未舗装の道が残っています。
未舗装の道はそれだけで雰囲気が良いですが、何と言ってもアスファルトの道よりズット足に優しく歩きやすいです。


稲島宿遠景


稲島宿があった所の地図を見ると北側と南側がクランク状に曲がっていて枡形になっています。北側の枡形の所に二十三夜搭が建っています。
二十三夜搭は二十三夜講に集まった人達が建てたもので、二十三夜講とは陰暦八月二十三日の月を信仰する講で人々が集まり飲食を共にして、月を拝み、お経を唱えて悪霊を追い払う信仰です。他にも十六夜講、十七夜講、二十六夜講など月待信仰と言われる信仰があります。
昔は陰暦で月の満ち欠けがカレンダーそのものでしたので月と人との距離が近かったのだと思います。

写真左:二十三夜搭
写真右:稲島宿の家並み


弥彦神社への道


伏部の道標
稲島宿を過ぎて伏部地区に来ると再び弥彦への道標がありました。

風化が激しくて私には ”やひ” しか読み取れませんでした。”右やひこ”と彫られているそうです。

平沢清水
説明板によると、そばから石斧の様な物が発掘されたとの事で少なくとも縄文時代頃からこの清水を使っていたのではないかと書かれていました。また街道沿いにある清水なので北国街道を通った芭蕉、良寛ら文人・墨客が喉を潤したはずとも書かれています。

またインターネットで見た情報ですが、歩いてきた赤塚宿と稲島宿の途中のエチゴビール工場の付近は布目地区と言うのですが、そこのお茶屋には ”おまん” という美女が居て ”布目おまんと平沢清水、音に聞こえし関東まで” と謡われるほどの美人だったとの事です。

新潟ゴルフ倶楽部の中を通ります
他の街道でも経験した事がありますが、北国街道はゴルフ場の中を通っています。
柵や通行禁止の看板などは無かったので、おそらく通行しても良いのだろうと思い通行しました。
ゴルフ場を建設する時に旧街道を残して頂けるのは有難い事です。

遠くに見える山は弥彦山です。

福井地区
それ程大きくはない集落ですが、そこはかとなく昔懐かしい感じがする集落です。



旧庄屋佐藤家
その福井地区の中に江戸後期に建てられた建物が保存されています。


岩室宿


現在は温泉地として大きなホテルや旅館が立ち並んでいます。
高札場跡にも大きなホテルが建っています。
かつて新潟方面から来た弥彦参りの男性は弥彦参りが終わったあと、岩室で精進落としと称して遊んでから帰ったとの事です。

写真左:岩室宿というか岩室温泉遠景
写真右:高札場跡 現 富士屋


その高札場の説明板に ”岩室甚句”の一節が掲載されていました。

 『だいろや だいろだいろ つの出せだいろ つのを出さぬと
   曽根の代官所へ申し上げるが いかだいろ』

”だいろ” とは新潟の方言で カタツムリの事です。代官所の厳しい税の取立てにあえいでいた農民の心情をうたっています。

”岩室甚句”は私がかなり小さかった頃、今の様に居酒屋で仲間と酒を飲むのは一般的ではなく、ましてやカラオケなどもなく、父が仕事仲間と家で酒を飲む事が多かったのですが、その余興で歌われた事を微かに覚えています。

だいろの湯
上記の子供の頃の話は、この写真の前振りという訳ではないのですが、日帰り温泉 ”だいろの湯” があります。

新潟県内の平野部の温泉にしては珍しく 少し硫黄臭がする良い温泉です。



弥彦宿


写真を撮りながらのんびり歩いていたので夕暮れが近づいてきました。
弥彦神社につながる道は、今は車が走る普通の道路なのですが、松や杉あるいは広葉樹が生い茂って雰囲気がかなり異なります。神域近づいていると感じさせる道です。





弥彦神社の境内は次のページで紹介します。

この後、JR弥彦駅の駐車場まで歩いて今日の歩きは終わりです。


END 

2020年10月6日 作成

Column


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