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電子足跡:北国街道歩き旅
 下戸倉宿から田中宿へ
  上田城下と海野宿を通る道


プロローグ

このページは北国街道を長野県 下戸倉宿、上戸倉宿、坂城宿、鼠宿、上田城下、海野宿
、田中宿 まで 歩いたページです。

千曲川の流域に沿って街道が続き、江戸時代も同じような風景の中を往時の人達も歩いていたと思える道です。
途中 真田氏の居城 上田城下を通り、更に、海野宿では現在でも650mの街道沿いに旅籠造りの格子窓の家が約100棟も軒先を連ね江戸時代さながらの街並みが続いています。
北国街道の中でも数100年前の面影を色濃く残している街道筋です。


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都道府県
区間 歩いた日 GPS移動距離 備考
長野県 しなの線 戸倉駅~田中駅 2020年11月16日 26.4km


↑GoogleMapと地理院地図にGPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログをGoogleEarthでツアーする方法
カシミール3D  国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)

下戸倉宿

下戸倉宿は少し離れた現在の磯部付近の上戸倉宿と合宿でした。

しなの鉄道の戸倉駅を出た直ぐの交差点に茅葺の蕎麦屋 「萱」 がありました。
インターネットで調べたら宝暦10年(1760年)の大火後に建て直した建物だとの事です。
本来は造り酒屋で当時は ”下の酒屋” と呼ばれていたそうです。現在は坂井銘醸(株)という蔵元で酒造りに関する展示も行っているそうです。

上戸倉宿

下戸倉宿から2km程歩くと上戸倉宿になります。山懐の小さな宿場という雰囲気の宿場です。

幕末に本陣を務めた小出家の格子窓や重厚な門構えは往時の街並みを彷彿とさせます。




上戸倉宿を過ぎると、五里ヶ峰山の南端が千曲川に切れ落ちる特徴的な地形を通ります。

名勝 横吹


説明版によると、明治になって千曲川の北岸に新に開削された道を歩きますが、かつては横吹坂の道と言われ、所々岩石が露出した山の中腹を通る険しい道でした。

山の中腹を通る道から、眼下に広がる千曲川と千曲川の対岸にそびえる岩井堂山(別名 傘山、自在山とも)が見える風景は名勝と言うにふさわしい風景だったと思います。


坂城(坂木)宿


善光寺常夜灯

坂城宿の北側 枡形の様なクランク状に曲がった道角に建っています。
嘉永6年(1853年)建立されたそうです。

嘉永6年(1853年)といえば黒船に乗ってペリーが浦賀に来航した年です。
幕末から現在までここに建って、日本の近代化の歴史とともに存在している事になります。


坂城宿本陣


本陣表門
説明版によると、本陣の建物は寛政11年(1799年)に消失したのですが、表門は残り、間口6間、奥行2軒半で江戸時代中頃に建てられたと考えられているとの事です。


坂城宿の街道筋は所々、古い建物が残る雰囲気の良い街並みです。






鼠宿


不思議な宿場名です。
鼠宿は坂城宿と上田宿のあいだに在りますが、真田氏が元和8年(1622年)に本拠地を上田から松代に移したときに鼠宿を造成したとの事で、幕府公認の宿場ではなく、松代藩の私宿だったそうです。
旧宿場全体で景観の保全に努めているようで説明版や標識が良く整備されていました。



会地早雄(おおちはやお)神社
創建は不詳との事ですが、日本武尊が東征の帰りに、月明かりで岩石を寝ずに見ようとして、御幣を立てたたのが始まりとの伝承があるとの事です。


岩鼻
宿場外れの ”岩鼻” が圧巻です。道の直ぐ脇に高さ100m程の岩盤がそそり立っています。
かつては前述の横吹と並ぶ難所で加賀前田家は参勤交代の時、岩鼻を通過すると飛脚をたてて国元に無事を報告したとの事です。

千曲川の対岸も同じように岩盤がそそり立っていて、そちらは半過岩鼻(はんがいわばな)と呼ばれています。

写真左:岩鼻
写真右:半過岩鼻


伝説では
元々岩鼻と半過岩鼻は繋がっていて上田盆地は湖でした。その湖の西側つまり岩鼻と半過岩鼻が繋がっていた場所にねずみがはびこって田畑を荒らしたので、唐猫を放って追わせたそうです。逃げ場を失ったねずみは岩山を食い破り、湖の水は千曲川になって流れ出し、一帯は上田盆地の陸地になったとの事です。ねずみが岩山を食い破ったので、付近は「ねずみ」の地名になったそうです。(信州上田観光情報ホームページより)
それで 「鼠宿」 という不思議な宿場名になったのかと思います。

伝説はともかく
岩鼻と半過岩鼻は地質が異なっていて、一説には岩鼻と半過岩鼻の間、つまり千曲川が流れている所に千曲川断層が存在すると言われています。断層が走って脆弱な地質を千曲川が浸食してこの地形が生まれたと思われるとの事です。

上田城下


北国街道は上田市街の大きな町に入ると、上田城の北側を新町・紺屋町と東西に続いています。この通りは特に整備されている訳ではないようですが所々に城下町の面影が残っています。


上田城の北側の北国街道からは家並みが続いているので上田城を望む事はできません。
街道を南に曲がって少し歩くと上田城の北側に出ます。
現在は写真の様に陸上競技場や野球場になっていますが、ここはかつての堀を埋め立てて作られました。

陸上競技場や野球場を作れるくらい広い堀だった事が伺えます。

柳町
東西に貫いていた北国街道の 武田味噌菱屋 の角を南に曲がると江戸時代の風情が残る柳町の通りに出ます。
同じ江戸時代の風情が残る、中山道の奈良井宿や埼玉県川越の街並みとは違った感じがする家並みです。






上田城


上田城は天正11年(1583年)真田正幸(NHK大河ドラマ 真田丸 のキャストは草刈正雄)によって築城されました。
第一次・第二次 上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られています。
第一次は天正13年(1585年)徳川軍7,000を迎撃し撃退しました。第二次は慶長5年(1600年)関ケ原の合戦に向かう家康の三男 徳川秀忠率いる軍勢38,000を3,500の兵力で迎え撃ち、秀忠軍を天下分け目の合戦に遅らせるという失態を演じさせました。

東虎口櫓門


尼ヶ渕
上田城の南側は千曲川の分流だった尼ヶ淵を天然の堀として使った、河岸段丘の上に築城されています。
写真右から北櫓、東虎口櫓門、南櫓、西櫓。


海野宿

実は北国街道を歩くまでは海野宿の存在を知りませんでした。
北国街道に、こんなにも古い家が約100棟も続く宿場が残っているとは思いもしませんでした。

例えば中山道の奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿も雰囲気の良い家並みが続く宿場ですが、海野宿はそれらの宿場とは雰囲気が異なります。
上記の中山道の各宿場はひっそりとした山間の宿場という印象ですが、海野宿は開けた地に出来た宿場で各家の間口が広くて、うだつが上がった家もあり、大きな家が多いです。
江戸時代は宿場として、明治になってからは養蚕で栄えたとの事で、屋根に「気抜き」が備わっているのは養蚕の為に設けられたとの事です。

更に、上記の中山道の各宿場では古風な家を生かして商売している家が多かったですが、朝早くて観光客が少なかった事もありますが、海野宿では商店になっている家が少なく往時のまま保存している印象でした。







この日、海野宿を歩いたのは日が暮れてからでした。上に掲載した写真は翌日再度訪れて撮影した写真です。
左の写真は歩いた時に撮影した写真です。
街灯も少なく、極力当時の雰囲気を残そうとしている事が感じられます。

田中宿


海野宿を過ぎてから暗い街道筋を田中宿まで歩きました。暗くて写真を撮れませんでした。

車を田中駅前の 「ゆうふる田中」 という日帰り温泉の駐車場に置いたので田中駅まで歩いて今日はゴールです。

駅前に温泉施設が在るロケーションは本当に助かります。勿論、歩いた後直ぐに温泉に入り汗を流しました。

エピローグ

この区間は上田城下、海野宿は勿論ですが、それ以外にも街道筋に江戸・明治の雰囲気が残る場所が多く、歩いていて発見と驚きの連続でした。とても良い道です。


END

2021年01月26日 作成

Column


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