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電子足跡:北陸街道(北国街道)歩き旅
 加賀温泉から金津宿(あわら温泉)


プロローグ

このページは北陸街道(北国街道)を石川県加賀温泉から大聖寺,橘宿,越前加賀国境,細呂木,嫁威を通り,福井県金津宿(あわら温泉)まで歩いたページです。
加賀国(石川県)から国境(くにざかい)を越えて越前国(福井県)に入ります。
吉崎御坊,蓮如道(吉崎道),嫁威など浄土真宗にまつわるエピソードが多い道です。

加賀温泉駅から大聖寺に向かって歩くと赤瓦の家が目立つ様になります,一般的に街道筋は黒瓦や長年の風雪で壁が黒みがった家が多いですが,赤瓦の家並みは明るく開放的な感じがします。大聖寺は城下町ですが所々に古い家が残り風情があります。 大聖寺の中心街を過ぎて大坂の一里塚を過ぎた辺りから断続的に里山の道になります。北潟湖の南側に続く街道は良く保存された里山の道です。の区間は旧北陸街道の面影を良く残しています。


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ルート
区間 ルート 歩いた日 GPS移動距離
加賀温泉駅-あわら温泉駅 加賀温泉駅-大聖寺-橘宿-国境-細呂木-嫁威-花乃杜-金津宿 2016/09/30 21.8km


↑GPSログをGoogleEarth
でツアーする方法
↑地理院地図(電子国土web)に詳細ルート地図とポイントの写真が開きます。

北陸街道(北国街道) 加賀温泉から粟原温泉地図
カシミール3D 国土地理院(カシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画しそのイメージデータを加工したものです。)

大聖寺城下

加賀温泉駅から30分程歩くと松任を越えてからポツポツと見えていた赤瓦の家屋が多くななります。
一般的には旧街道の家並は歴史を経た重みのようなものを感じますが,ここでは明るく開放的な感じがします。

大聖寺川手前の菅生石部神社でお参りをして境内を出ようとしたら,年配の男性から声を掛けられました。新潟の長岡から北陸街道を歩いて京都まで行くつもりですと話したら驚いていました。目の前の道路が旧北陸街道ですと話したら「へー。そうなの!? 全然知らなかった。」と新しい発見をした顔をされていました。見ず知らずの方に「頑張ってください。」と言われると率直に嬉しいです。

写真左:加賀市大菅波町の街並み
写真右:菅生石部神社


大聖寺市街
大聖寺は大聖寺前田氏の城下町です。城下街の特徴ですが街道筋がクランク状に曲がっています。
町中には「迷いながら楽しく歩ける 城下町 大聖寺 町なかデータライブラリー」と書かれた案内板があります。町名単位に案内板が設置され町名の由来や歴史さらに当時の町割りまで掲載されています。住んでいる方達には町は日常ですが訪れた者には町は全て新しい発見です。案内板にはどんな事が書いてあるか楽しみながら歩けました。関係者の方達の努力に感謝します。

写真左:大聖寺市街の案内板
写真右:大聖寺市街の絵地図  クリックすると大きな画像が起動します。


荒町の街道筋
街道筋は格子戸の家屋が点在します。格子戸が町の印象を決定づけています。


本町の呉服店 暖簾があるだけで江戸時代を感じます


大聖寺藩邸1/100模型
市立大聖寺地区会館に在る元禄6年(1693年)以前の大聖寺藩邸1/100模型。

北陸街道紀行(松尾一著)によると加賀三代藩主前田利常の三男利治が大聖寺10万石の藩主となったが,元和(1615~1624年)1国1城令で廃城になった為に陣屋を置いたとの事です。市街地の西側の今は錦城山公園になっている小高い丘の上にあったのでしょう。

トイレを借りに地区会館に入ったら偶然見つけました。

本町 時鐘堂
名前の通り時刻を鐘で知らせる為の建物です。人が鐘を突いて時刻を知らせる事を想像すると「のんびり」と言う言葉が思い浮かびます。
全員が1分1秒を守って軍隊の様に生活するのではなく,おおよそこんな時間で生活しましょうという感じが,たまらなく豊かな社会を感じます。
会社でフレックスタイムを導入したときのゆとり感に近いかな・・・

尚,時を知らせる鐘は埼玉県川越の「時の鐘」が有名です。

大聖寺関町
関町の名前の通り関所があった場所です。ここまで来ると町はずれという雰囲気になります。
説明板によるとこの場所は城下の西側に位置し,越中境の関所(富山県下新川郡朝日町境)と相対して加賀藩の二大関門として機能していたとの事です。

写真左:関町交差点
写真中:関所跡の石碑


里山の道

関所跡から400mほど南下すると県道141と交差してゆるい登り坂になります。
程なく笠取山大坂の一里塚跡がありますが塚は消滅して石碑のみがあります。
一里塚の坂を登ると製材所の中を旧街道が通っています。公道か私道か判然としませんが従業員の方に会釈したら,胡散臭いオヤジと思われたかもしれませんが何も言わずに通してくれました。
ここから3.5㎞程行った三木町までは人家が無い里山の森の中の道が続きます。

写真左:大坂の一里塚跡
写真中:有限会社 大宗


「里山の道」というタイトルにしては写真がいまいちです。
豊かな里山の証なのでしょう。熊の罠が仕掛けてあります。現物を見るのは初めてです。ちなみにGooleMapを見ると近くに熊坂町と書いてあります。
「北陸街道(北国街道) 明峰駅から加賀温泉へ」のページに書いた「熊坂懸境の道標」の熊坂です。

大坂の一里塚から1.5㎞くらいしか歩いていませんが大坂茶屋一里塚と書かれた標識があります。謎です。

北陸街道は北陸自動車道と交差して陸橋を渡ります。時空を超えて空中を北陸街道が通っている様な感じが面白いです。

写真左:熊捕獲用の罠
写真中:大坂茶屋一里塚跡
写真右:北陸自動車道の上を渡る街道


写真左:北陸自動車道陸橋 手動で開閉して通れます。
写真中:だいじょうじへの道標 この道標を越えると人家があります


残念な道

里山の道が終わり加賀市三木町の集落に出ます。北陸街道は北陸自動車道加賀インターのランプウェイの脇を通っています。
ところが数100mの区間ですが背の高い草に行く手を阻まれて街道は歩けません。一応歩こうと試みたのですが残念ながら迂回します。草が枯れる冬場なら歩けるかもしれません。
山登りをする方が「藪漕ぎは辛い」と言っていた理由が良く分かりました。

写真左:県道61号線と交差してます
写真中:背の丈くらいの草に行く手を阻まれます。
写真右:加賀インターランプウェイの脇の北陸街道


橘宿

橘宿跡の石碑の由来記によると,701年大宝律令で駅制が施行されたときから宿駅として開けたとの事です。流罪で越後に向かう浄土真宗宗祖親鸞上人が承元元年(1207年)に通り,それから264年後の文明3年
(1471年)に北陸巡錫で吉崎御坊に滞在中の浄土真宗8代法主蓮如が橘茶屋に憩い,藩政時代は松尾芭蕉,加賀千代女が立ち寄ったと伝えられています。 藩政時代は加賀/越前の国境の要所の為改番所が置かれ,参勤交代では本陣も置かれて随分と賑わったとの事です。歴史が行きかった道です。
橘町の家屋は新しくなっていますが旧街道独特な雰囲気が残っています。

写真左:橘宿への道標
写真右:下橘宿の風景


茶屋坂
下橘宿の家並が途切れた所に多知波那神社があります。参道の石段に腰かけて小休止してから茶屋坂を登りました。

写真左:手作り感満載の案内板
写真右:橘宿跡の石碑


蓮如道(吉崎道)への分岐

浄土真宗8代法主蓮如上人は比叡山延暦寺膝下の近江地方の人々が真宗門徒になるにつれて寛正6年(1465年)比叡山衆徒によって本願寺を破壊されました。末寺を転々としたのち文明3年(1471年)北潟湖湖畔の吉崎山上にお堂を建て布教活動を再開しました。

蓮如道(吉崎道)は狭義にはここから6.5㎞ほど先に行った北陸街道の鋸坂の下で分岐して吉崎御坊に行く道の事らしいのですが,ここ橘宿から吉崎御坊に行く道も蓮如道(吉崎道)と言われたようです。
(注:文献をあたっていないので曖昧な記述で申し訳ありません。)

橘宿跡で見る蓮如道(吉崎道)の道標が最初ですが,ここから先の北陸街道には蓮如道と書かれた新しい道標を沢山見かけます。

橘宿の蓮如道(吉崎道)追分
写真の左側が北陸街道。右側が蓮如道(吉崎道)   まだ新しい道標が幾つもあります


ゴルフ場の街道

橘宿跡を過ぎると北陸街道は山代山中ゴルフ場の中を進みます。グリーンが目に飛び込み旧街道とは思えない快適さです。旧北陸街道と知ってか知らずかゴルフバックを引いて歩くゴルファーがいます。
高度成長期の過去を捨て何でも新しくする風潮のなかで開発されたゴルフ場ですが,よくぞ旧街道の道筋を残しておいてくれたものだと感謝したくなりました。


加賀 越前 国境

いよいよ加賀国越前国の国境です。国境は目に見える訳ではないのですが国境を越えるときは何故かワクワクします。
この区間は雰囲気が良く残っています。私の言う雰囲気が良く残るとは多くの場合「山道です。」と同義です。山道とは言えアップダウンはそれ程ありませんし道筋はしっかりしていますので歩きやすいです。。

越前 加賀 国境一里塚跡


お国境名号塔
国境に着きました。ここから右が越前(福井県) 左が加賀(石川県)です。
越前,加賀との国境に名号塔が建っています。
名号塔とは南無阿弥陀仏と彫られた石碑の事です。
案内板をよく見ると「あわら市教育委員会」と書かれています。福井県に入ったと実感します。

少し興ざめしますが,GPSで確認すると現代の県境はこの場所より北東に100m程戻った上の写真の街道が明るくなっているあたりでした。

のこぎり坂と蓮如道(吉崎道)の分岐
「橘宿」「蓮如道(吉崎道)への分岐」の項でも触れましたが承元元年(1207年)に浄土真宗宗祖親鸞上人はこの分岐点を右に曲がって越後に行き,264年後の文明3年(1471年)に浄土真宗8代法主蓮如は左に曲がって吉崎に行きました。
時代は違うけれど法難を受けてこの曲がり角を別々な方向に歩いて行った訳ですが親鸞は開祖として,蓮如は中興の祖として現代にまで名を残しています。
時代は違うけれど志を同じにした二人が同じ場所に立っていたのは不思議な感じがします。

細呂木

福井県に入って最初の集落が細呂木です。
慶長6年(1601年)福井藩藩祖秀康が設けた関所との事です。南の今庄町板取の関と共に国境を警備しました。
関所の柵は60間(約109m)でかなり大きかったようです。城戸は日の出と共に開門し日没と共に閉門したそうです。(説明板より抜粋)

写真左:細呂木関所跡
写真右:細呂木集落


北陸街道の痕跡か?
細呂木集落をはなれて少し行くとこの道に出会います。
なにこの写真と思うかもしれませんが「北陸街道紀行(松尾一著)」に記載されているイラストマップの旧街道を忠実に辿ると田んぼの中の畦道を歩く事になりました。圃場整備で道筋は消滅したと思いますが崖を降りる細い道と畦道が北陸街道の痕跡であれば凄く嬉しい感じです。


あわら市 嫁威(よめおどし)

「嫁威(よめおどし)」,何なんだこの地名はと思う方が大半だと思います。「嫁におどされ」なら自分の事かと思います。

また浄土真宗の蓮如上人の話になりますが,蓮如上人が吉崎御坊に居たとき夫と二人の子供に先立たれ人生の無情を感じていた与三次の妻 清 は仏法に帰依し毎晩のようにこの道を通って吉崎御坊にお参りをしていました。姑は毎日吉崎に通う嫁を疎ましく思い,通うのを止めさせようとしてある闇夜の晩に鬼のお面をかぶってこの場所から躍り出て嫁を驚かしました。清は動ぜず「食(は)まば食め、喰(くら)わば喰らえ金剛の、他力の信はよもや食むまじ」と言って念仏を唱えながら吉崎に向かいました。あまりの信心深さに己の所業を恥じた姑は蓮如上人の御化導をいただいて懺悔し,その後無二の信者になったとの話です。(説明板の内容を一部意訳して掲載しました。またお面が顔に付いて離れなくなったという話もあります。)その時姑が付けたお面は「肉付の面」として吉崎御坊にあるそうです。

この話は子供の時に聞いた事があります。この場所だったんですね。こんな歳になって子供の頃のかすかな記憶と出会うとは思いませんでした。

今は,この地に小さな神社が建ち,嫁おどし谷と言われています。

あわら市 花乃杜 付近

「はなのもり」 綺麗な地名です。地名のイメージで長閑でゆったりとした時間が流れている感じがします。


千束一里塚


そば畑を越えると千束一里塚があります。
片側だけ現存しています。片側だけですが保存状態が良くて塚が残って,榎の大木が往時を偲ばせます。



エピローグ

今回の旅はあわら温泉で終わりです。次回は2016年11月にあわら温泉から再開の予定でしたが,都合が悪くなったので中止です。別途再計画します。

今日の温泉
福井県なのに,「大江戸温泉物語あわら」で汗を流しました。東京お台場の大江戸温泉物語のイメージが強いので「へ~。あわらにもあるんだ。」と思いました。元々はホテルだったと思いますが,大江戸温泉テイストの昭和を感じる施設や内装が印象的です。心地よい広い露天風呂で汗を流して帰宅です。


END

2018/12/17 ver5.17.0 ポップアップで起動する地図をGoogleMapから地理院地図(電子国土web)に変更
2016/10/30 作成

 

Column


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