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電子足跡:長崎街道歩き旅 原田宿から吉野ケ里公園駅へ
佐賀県に入り筑紫平野を歩きます

プロローグ

長崎街道を歩き始めて4か目,今日は原田(はるだ)駅からスタートです。
原田宿は筑前国・肥前国の国境の宿場でした。原田駅から1㎞少し歩くと国境で、現在でも福岡県と佐賀県の県境です。
北側は脊振山地が迫り、南側は縄文海進の頃は海が広がっていたのだろうなと思えるような筑紫平野の風景のなかを歩いて吉野ケ里遺跡のすぐそばの吉野ケ里公園駅まで歩きました。

歩きデータ
都道
府県
区間 通る宿場等 歩いた日 GPS
移動距離
福岡/佐賀 鹿児島本線 原田駅-長崎本線吉野ケ里公園駅 原田宿、筑前/肥前国境、白坂、昌町追分石、田代宿、外町追分石、轟木宿、中原宿、吉野ケ里町 2023/10/09 24.0㎞



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原田(はるだ)宿
 

鹿児島本線の原田駅から南に向かってスタートです。歩き始めて直ぐに西に曲がり鹿児島本線の陸橋を渡たります。
歩いて行くと特有の香りが流れてきて、行く先に鶏舎がありました。鶏舎の匂いは田舎道を歩いているんだという感じがします。


鶏舎から少し進むと
長崎街道は鹿児島本線のレンガ造りの橋げたの下を潜って道が続いています。

佐賀県に入ります
かつても筑前国・肥前国の国境でした


鹿児島本線に沿って少し進んで国道3号線に戻るとすぐに福岡県と佐賀県の県境です。

筑前国・肥前国 国境
付近は筑前国と肥前国の国境でした。
道筋も現在の国道3号線ではなく、新しく造成されたショッピングモールや筑紫野温泉アマンディの付近を通っていたようで、かつては三国坂と云われた難所でした。
この項を書こうと思いインターネットを検索しました。かつてこの場所では国境争いがあり複雑な経緯をたどり国境が決まったもようです。
その為、国境の石柱もその当時の人達の感情を反映して筑前と肥前の石柱が背中合わせに建っています。
おそらく、数メートル~数10mの国境を争ったのだと思いますが土地に対する執念は昔も今もあまり変わらないのかと思います。


側面に文化4年(1807)と彫られている国境石。側面中央に線が見えますが、国境の石柱が背中合わせに建っている為です。


白坂付近
けやき台駅を越えると長崎街道は長崎本線の西側に続いています。
踏切を渡ってすぐ白坂と云われている地域を歩きます。僅かな区間ですが雰囲気の良い家並みです。

猿田彦大神碑・庚申尊天碑
踏切を渡ってすぐの交差点にありました。かなり大きな石碑です。家の高さと比べてみてください。
この付近には陣屋が在ったらしいのですが、場所は確認できませんでした。



田代宿
 


田代宿にあった説明板に掲載されていた地図です。
宿場の両方の出入口に追分があって、宿場全体が交差点の様に人・物が行きかって賑わっていた宿場でした。今で云えば渋谷のスクランブル交差点の様な場所という感じでしょうか。


昌町追分石
"右ひこ山道   左こくら はかた道" と彫られています。
説明板によると "ひこ山道" は日田・英彦(ひこ)山道と云われ、秋月街道と薩摩街道が交差するここから東に在る現在の小郡市松崎へ通じていたとの事です。この追分石が田代宿の東口でした。


伝・代官所通用門
上の地図を見るとわかりますが、現在の田代小学校付近に代官所がありました。対馬藩の飛び地領で 基肄養父(きやぶ)領 と云われていました。
この門は代官所の通用門と伝えられている門です。

田代宿の家並み
写真左:西清寺付近
写真右:上町付近


写真左:問屋場跡
 旅籠が集まり、問屋・高札場なども在ったそうです。
写真右:本陣跡


外町追分石
『右さか 左 くるめ』と書かれています。長崎街道と久留米を結ぶ結節点の追分です。久留米に行く街道のルートがどのようなルートだったのかは分かりかねますが、ここから久留米そして薩摩街道へと繋がっていたのではないかと思います。
インターネットで調べると、文化2年(1805)の大田南畝(蜀山人)(おおたなんぽ;しょくさんじん)の「小春紀行」に記述があるとの事なので1800年頃には既にこの場所に在ったと事になります。
追分石は車がぶつかる事もあったのでしょう、鉄製のパイプでガードされています。


轟木宿
 


轟木宿と云われても何処に在った宿場なの?と多くの方が思うと思いますが、駅で云うと鳥栖駅の南西付近に宿場がありました。
肥前鍋島藩の東端の国境の宿場でした。


宿場の中心地は日子神社の南側の参道の様な数100mの道でした。
ここに旅籠、人馬置場、御茶屋(本陣)がありました。

写真左:日子神社境内から轟木宿中心部をのぞんだ風景
写真右:宿場中心部


人馬置床跡
人馬置床跡と書かれていました。一般的には人馬継所と云われる所なのだと思います。ここで街道を運ばれる荷物を乗せた馬や人足が交代して次の宿場に向かいました。

中原(なかばる)宿
 


『中原』という地名から想像できますが、轟木宿を越え鳥栖市街から離れると広々とした筑紫平野の中を歩いているという感じが強くしてきます。

少し風化が進んでいますが、路傍に鎮座していた大黒天です。
長崎街道では路傍に大黒天が鎮座している事が多かったです。



旅籠 岡崎屋
中原宿には街道沿いに6軒の旅籠がありました。そのうち岡崎屋は当時の面影が良く残っています。
岡崎屋の手摺りには 右書きで "中原駅岡崎屋御定" の文字が透かし彫りで書かれています。











中原宿から吉野ケ里公園駅へ

北は脊振山地が迫り、南側は筑紫平野が広がった風景のなかを歩きます。

三養基(みやき)四国第43番札所
石仏が沢山集まっている一画がありました。地名が 地蔵町 でしたのでこの石仏群が地名の由来なのだと思います。
旧街道を歩いていると、ときどき四国ではないのに四国〇〇番札所があります。




筑紫平野の北端の広い平野のなかを歩いて長崎本線吉野ケ里公園駅まで歩いて今日の行動は終わりです。




吉野ケ里公園駅はその名前で分かるように吉野ケ里遺跡のすぐそばにあります。元々は三田川駅だったのですが1980年代後半以後 遺跡の発掘がすすみ最寄り駅の三田川駅が吉野ケ里公園駅と名称変更されました。

吉野ケ里遺跡に関しては次ページに掲載します。


END

2024年07月16日 作成

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