Denshi ashiato since2016
電子足跡:おくのほそ道歩き旅
岩出山から赤倉温泉駅
出羽街道中山越
プロローグ
岩出山からは出羽街道中山越えを進みます。この区間の正確なルートは分かりかねますが,岩出山宿-下宮宿-鍛冶谷沢宿-中山宿-堺田宿と続いていました。さて,芭蕉と曽良は岩出山から更に南下して宮城県加美町から西に向かい鍋越峠を越える中羽前街道(≒国道347号線)を通って山形県尾花沢に行こうと考えていたのですが,道が遠く難所があるとの事で,急遽引き返して昨日目指した小黒崎を通る出羽街道中山越を通り尾花沢を目指しました。
曾良旅日記には上記のいきさつや,尿前の関では通行手形が無い為に難儀する様子が描写されています。
都道府県 | 旧街道名 | 芭蕉が歩いた 日にち(陽暦) |
私が歩い た日にち |
GPS距離 | 備考 | |
宮城県/ 山形県 |
出羽街道 中山越 |
岩出山~堺田 | 1689/7/1 | 2009/04/18 | 42.9㎞ | 岩出山駅-赤倉温泉駅 (奥の細道湯けむりライン 陸羽東線) |
↑GPSログをGoogleEarthで ツアーする方法 |
↑地理院地図(電子国土web)に 詳細ルート地図とポイントの写真が開きます。 |
カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)
岩出山
岩出山は仙台から北に直線距離で約45㎞程に位置します。豊臣秀吉の命令により伊達政宗が米沢から移封された地です。仙台城築城に着手するまでの12年間居城となりました。私が歩いた時は JR陸羽東線(愛称 奥の細道湯けむりライン)の岩出山駅から歩き始めましたが有備館駅の方が良いかもしれません。
写真左:岩出山町内
写真右:江合川(曾良旅日記では玉造川)に架かる橋
天王寺周辺
岩出山から先日のゴール地点 天王寺追分を目指します。道筋には菜の花や桜が咲き東北地方の遅い春が音を立ててやってきます。
天王寺境内
先日歩いた奥州上街道との追分手前にある天王寺。
推古天皇の時代に日本の四ヶ所建立された四天王寺の一つと伝えられています。 天王寺一里塚,天王寺追分の名前の由来になった寺院です。
”一栗” 付近の風景
芭蕉と曽良は前日小黒崎を目指して天王寺追分を北西に進み”一ッ栗村”まで来て小黒崎は二里先と知って引き返し岩出山に宿泊したとあります。
下の写真を撮った場所の地名は ”下一栗” です。芭蕉達が引き返した”一ッ栗ト云村”はこの付近だったのではないかと思います。
一栗城
古館八幡神社の社に続く階段
室町時代末期に東西600m南北400mの範囲に一栗城が築城されました。
その名残なのか古館八幡神社の社が随分と山の上に鎮座しています。
小黒崎・美豆の小島
小黒崎と美豆の小島はともに歌枕の地です。をぐろ崎みつの小島の人ならば 都のつとに いざといわまし
(古今和歌集 東歌)
人ならぬ岩木もさすが恋しきは美豆の小島の秋の夕暮れ
(続古今和歌集 順徳院)
古来より風光明媚な土地として知られていた場所です。
小黒ヶ崎山は標高244mの小高い山で所々岩石が露出している山肌に,姿の良い松が生い茂り紅葉の名所と知られています。美豆の小島は江合川(荒雄川)の川岸にポツンと露出した岩塊です。
箱庭を切り取ってリアルサイズにしたような景観です。
記憶は定かではないのですが、歌枕である小黒崎と美豆の小島は長らく所在が分からなかったのですが、芭蕉と曾良が探し当ててようやく所在地が特定出来たという話を読んだ記憶があります。
小黒ヶ崎山の風景
美豆の小島
東歌の歌碑
鳴子温泉
出羽街道の正確な道筋は分かりかねますが,現在鳴子の温泉街を通る道は出羽街道ではなく,出羽街道は温泉街の北を流れる江合川(荒雄川)の北側の河岸を通っていたようです。残念な事に北側の河岸を進んでも橋が無いため尿前の関にいく事はできません。やむなくこけしで有名な温泉街を行きますが,これはこれで情緒があって良いものです。
義経主従の伝説
鳴子には義経主従に関する言い伝えが残っています。出羽方面から山を越えてようやく藤原秀衡の勢力圏に入り,あと数日歩けば平泉です。旅装束を解き,湯につかり束の間の安息の日々を過ごしました。
亀割峠で生まれたばかりの義経の子”亀若丸”がこの地に来て初めて泣いたので”泣き子”から地名が”鳴子”になったというものです。
また,”尿前”は亀若丸が初めて尿をした場所が,それ以後”尿前”と呼ばれる様になったとの事です。
写真右:江合川北岸からの風景 鳴子温泉街遠望
写真右:鳴子温泉街
写真左:奥の細道湯けむりライン JR陸羽東線
写真右:鳴子こけしの店舗
共同温泉 滝の湯
時間があれば,鳴子温泉街にある共同温泉 滝の湯 で汗を流すと良いです。
江戸時代の湯屋を彷彿とさせる木造の趣がある建屋と湯船です。源泉かけ流しの硫黄臭がする白濁したお湯を格安の入浴料金で楽しめます。
尿前の関
芭蕉の時代は出羽街道を通り尿前の関に行くには”綱渡し”と呼ばれれ,江合川(荒雄川)の両岸に張った綱を自ら手繰り小船で川を越えたとの事です。急遽出羽街道を進む事になった為に通行手形が無く関所を越えるのに苦労したとの記述は”おくのほそ道”と曾良旅日記の双方に記載されています。その逸話が示す様に交通・防衛の要所だったのでしょう。
尿前の関は間口40間,奥行き44間,面積1760坪と大きな関所です。
「おくのほそ道」の尿前の関の段には「この路旅人稀なる所なれば,」とあるので滅多に人も通らない山あいの小さな関所をイメージしていましたが規模の大きさに少々驚きました。
左の写真は尿前の関にあった説明板の一部ですが,江戸末期の想像図が描かれています。
芭蕉と曽良が通ったのは元禄二年なので,この想像図のような規模だったのか定かではありません。
写真左:江合川を渡った,尿前の関に続く道
写真右:尿前の関 遺構
写真左:出羽側(山形県)の木戸
写真右:中山越の山道 尿前の関を越えてすぐが山越えの道になります
出羽街道中山越
”おくのほそ道”では「・・・,関守にあやしめられて,漸として関をこす。大山を登って日 既に暮ければ,・・・」とあります。
”大山を登って” というのが中山越えの山道の事です。
出羽街道中山越の道は現在の国道47号線を縫う様に山あいを通っています。
いかにも 道の奥・みちのく と思える狭い道が続き,地図にも載っていない小さな沢をいくつも渡って行きます。
歴史の道に指定されているので,街道筋の沢には橋がかけられ石段や道標も整備されていますが,芭蕉が通った頃は沢は”徒歩(かち)渡し”だったとの事です。
芭蕉の「おくのほそ道」という題名はこの道からヒントを得て名づけられたのかと思うほどです。
茶色:国道47号線 黄土色:出羽街道
旧鳴子町が設置した
歴史の道
出羽街道中山越
の案内板の一部を使わせて頂きました
写真左:尿前の関を越えてすぐの薬師坂の急登
写真右:国道47号から右出羽街道に入る
小深沢
大深沢
旧中山宿跡 小さな規模の宿場でした。
写真左:軽井沢
写真右:森の中を通る出羽街道
堺田宿 封人の家(旧有路家住宅)
蚤虱馬の尿する枕もと 芭蕉
角川書店編のおくのほそ道では ”尿” に ”ばり” とルビがふってあります。
私は ”ばり” と読んだ方が蚤虱に苦しめられ,枕元では夜の静寂を破って馬の放尿の音が聞こえてくるリアルな情景を連想させるので ”ばり” と読むようにしています。
芭蕉と曽良は尿前の関を越えるのに時間がかかった為山中で日が暮れ,やむなく国境を守る役人である封人の家に宿を借りる事となります。
封人の家は現存しており
平面積269.18平方m(約81坪,桁行24.755m,梁間9.999m)の大型の家屋です。
4月~11月は公開されています。 (最上町ホームページより 2017年11月確認)
芭蕉の句からはどんな粗末な家かと思いますが当時としても大きな家なのだと思います。
南部地方の曲屋は母屋と馬小屋がL字型に接続して人と馬が共存して生活しますが,この封人の家では母屋の中に馬小屋が作られています。下の写真の右側が馬小屋のエリアで土間を挟んで囲炉裏がある板の間そして左側の方が座敷になっています。
馬と共に農作業をしていた当時としては普通の構造だったのでしょう。馬が放尿する音が家の中に響く情景が想像できます。
見学した時に管理人の方に話を伺ったら,芭蕉と曽良がおくのほそ道の道行きで宿泊した家が現存しているのは此処だけではないかとお話しされていました。国道47号線沿いに在りますので訪れてみると良いと思います。
エピローグ
本州の分水嶺ところで ”堺田” という地名ですが勿論陸奥国と出羽国の境でもありますが,ここは本州の分水嶺が通る場所です。平地で分水嶺を見る事ができる珍しい場所です。
封人の家から堺田駅に向かって歩いて直ぐの所に,山の方から流れて来た小川の水が太平洋と日本海に別れて流れて行く何とも不思議な光景を見る事ができます。
END
2019/12/12 ver6.11.01 一部内容変更。レイアウトの方式を変更
2018/12/22 ver5.17.0 ポップアップで起動する地図をGoogleMapから地理院地図(電子国土web)に変更
2017/11/29 作成
Column
広告
広告
広告