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電子足跡:中山道歩き旅
 大宮宿から深谷宿へ


注:この画像は旧中山道の街道筋から見えた富士山ではありません。道の駅いちごの里よしみ付近からの富士山です。

プロローグ


この区間は池田英泉が描いた木曽街道六十九次の浮世絵 岐岨街道鴻巣吹上富士遠望 にも描かれているように遠望する富士が印象的な街道筋です。

 クリックすると栄泉が描いた 岐岨街道鴻巣吹上富士遠望 を見る事が出来ます。

現代は街道沿いに立ち並ぶビルや家屋でなかなか富士山を見る事ができません。 その中でも熊谷手前のJR行田駅付近の荒川土手の街道筋は富士山が見える場所です。
仕事をしている頃,特に冬の良く晴れた日の朝,上越新幹線で埼玉県を通過しているとき車窓から富士山が綺麗に見える事がありました。富士山が見えると少し気の重い出張でも前向きな気持ちになったものでした。富士山には不思議な力があります。


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ルート
大宮宿‐上尾宿-桶川宿-鴻巣宿-熊谷宿-深谷宿
区間
歩いた日 GPS移動距離 天候 備考
大宮宿-JR北鴻巣駅
2017/11/12 25.6㎞ 晴れ
JR北鴻巣駅-深谷宿
2017/11/13 23.9㎞ 晴れ

↑GPSログと写真がマッピング
された地図が開きます
GPSログを GoogleEarthで
ツアーする方法

↑再生ボタン  をクリックすると、街道筋を
空撮した様な動画が再生されます。
*左側の GPS Log をGoogleEarthProでツアーして動画化した映像です。

旧中山道 大宮宿から深谷宿 概略ルート地図
カシミール3D 国土地理院 
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)

大宮宿


昨日の終点大宮駅からスタートです。駅前は通勤客でごったがえしていましたが,駅から離れる方向に歩いていると通行人もまばらになります。

上尾宿

街道歩きとは無縁の写真で恐縮です。
一瞬,どこかの国に "BA"  という冠詞が付く言語があるのかと思いました。
思わずニヤッとして,なるほどと思える看板です。上尾宿の手前にありました。



上尾宿は中山道の中では比較的小さい宿場で江戸時代末の家屋数182軒,人口793人,旅籠は41軒でした。となりの大宮宿は320軒,桶川宿は400軒くらいでしたので半分位の規模でした。

写真左:上尾宿絵図 (氷川鍬神社前の案内板より)
写真右:ほぼ同じ場所の風景


桶川宿

桶川宿は所々に昔の面影がある家屋が残っています。武村旅館,島村家土蔵,小林家住宅は国の登録有形文化財に指定されています。

写真左:武村旅館
写真右:小林家住宅


鴻巣宿

鴻巣宿は元々は現在の北本付近にあった元鴻巣村で整備されましたが,現在の鴻巣に移転して更に発展しました。元の宿場があった場所は”本宿(元宿)”と呼ばれ立場や茶屋が置かれました。

東間の富士塚
JR北本駅を越えて500mくらいのところに浅間神社があります。樹木が生い茂り形が分かり難いですが東西約37m,南北約27m,高さ6mの築山の上に浅間神社が祀られています。
江戸時代中期の築造で富士塚としては古いものです。
参道‐石段‐社殿は直線上に配置され,その延長線上には実際の富士山があるとの事です。
社殿の裏に回ってみましたが残念ながら富士山は見れませんでした。

実際の富士は見えませんでしたが,江戸時代の人達は富士塚からこんな感じの富士を見ていたはずです。
国土地理院の地形データを使用してカシミール3Dで描画した画像です。

雛人形のふるさと

鴻巣は越谷と並び雛人形の製造で有名です。かつては人形製造業者が31軒もあったとの事で越谷より製造業者ははるかに多かったとの事です。
40年近く前に鴻巣の街並みを見たことがありますが,その頃は蔵造の家屋や重厚な町家が多く残って趣のある街並みでした。現在は重厚な家屋も減り少々寂しい感じがします。

鴻巣の街並み


ショーウインドウにあった昭和初期のひな人形


吹上宿(間の宿)

吹上は鴻巣宿と熊谷宿の間が長かった為に自然発生的に発達した間の宿です。
冒頭に紹介した”岐岨街道鴻巣吹上富士遠望”の浮世絵は前砂付近で描かれたと前砂村標石に刻まれています。


JR吹上駅前を越えて200mほど進むと街道はそれまで北西に向かっていましたが,突然南西に向きを変えます。道の左側には道標がありますが右側にはありませんので道を間違わないようにしてください。

道を曲がって300mほど進むと街道はJR高崎線で分断されています。陸橋を渡ります。晴れていれば陸橋の上から富士山が望めるかもしれません。



熊谷宿


荒川土手

吹上宿を越え熊谷宿に入る手前は荒川土手が街道筋です。
この区間は街並みが続く景観から突然眺望が開け,富士山が望める開放的な道になります。
可能であれば富士が良く見える秋か冬の空気が澄み渡った日に歩くとよいと思います。


荊原の権八物いい地蔵
五街道細見(岸井良衛 青蛙房)には
”ばら原 この辺昔は夜盗多しと云う。 地蔵堂 権八物いひ地蔵” と記載されています。

権八地蔵は荒川土手に上る手前にあります。
権八地蔵の由来は講談や歌舞伎などで白井権八として描かれていますが,鳥取藩士だった18歳の時に父の同僚を殺害し江戸に逃亡中に路銀に困りこの場所で絹商人を殺害して大金を奪ったが,ふと気が付くと地蔵様を祀った祠が目に留まり,罪の深さに良心が咎め賽銭を上げ「悪行を見ていたようですが,どうか見逃してください。誰にも言わないでください。」と願うと,地蔵が「吾は言わぬが汝も言うな。」と答えた事から”物言い地蔵”と呼ばれるようになったとの事です。

写真左:荒川土手の旧街道
写真右:土手脇の久下の一里塚跡


久下権八地蔵尊
荊原の”権八物いい地蔵”から4㎞ほど進むと”久下権八地蔵”があります。社の軒下には小さな地蔵が集められています。

こちらは特に権八地蔵の由来は書いてありませんが,荊原の権八地蔵と同じ名前の地蔵様が少し離れて二体あります。

熊谷市街
熊谷は蓮生山熊谷寺(ゆうこくじ)の門前町として発展しました。1945年(昭和20年)8月の空襲で往時の面影は多く消失した為に市内は近代的なビルが建ち並ぶ都市に変っています。

八木橋百貨店のメイン通路=旧中山道
熊谷寺の門前に八木橋百貨店があります。旧中山道の道筋はデパートの中を通っています。意図してデパートのメイン通路を旧中山道の道筋に合わせて建設したのかは分かりかねますが心憎い演出です。


忍領石標  ”のぼうの城 忍藩”
熊谷市大字石原にある石標です。
”従是南忍領”の文字が読み取れます。

この石碑を見るまでここがかつての忍藩の領地だったと気が付きませんでした。
映画 ”のぼうの城” で有名になった浮城とも言われるた忍城があった忍藩領の境だった場所です。

深谷宿

深谷宿は利根川水運の中瀬河岸もそばにあり,近郷の養蚕や窯業が盛んで生繭の取引も盛んな経済的にも栄えた宿場でした。そのような下地もあったと思いますが渋沢栄一の生誕地としても知られています。

見返りの松(写真中央の石碑が建っている松)
当時の江戸側の宿場外れにありました。
深谷宿に宿泊した旅人をこの松のところまで見送ったので”見返りの松”と言われるようになったとの事です。
枯れた為に現在は二代目だとの事です。
1977年(昭和52年)発行の太陽コレクション冬季号”古地図散歩江戸・明治・昭和 中山道・奥州街道”(平凡社)に掲載されている見返りの松の写真は随分と樹高が高く立派な松です。
左側の道路が旧中山道 

東常夜燈


大谷邸
大谷邸は登録有形文化財に指定されている和洋折衷の趣きのある建物です。深谷宿の豪商で深谷町町長も務めていた時の昭和大恐慌にお助け普請として建てられたとの事です。
偶然門から家人と思われる女性が出て来たのでお話を伺うと,昭和初期に建てられたとの事ですが,維持するのは大変で良い材料が集まらず苦労しているとの事でした。


写真左:米屋だいまきの店舗
写真右:煉瓦卯建の商家


END

2017/12/19 作成

Column


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