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電子足跡:中山道歩き旅
 武佐宿から草津宿へ 鏡宿:義経元服の地


プロローグ

歩いた日       :2017年5月12日
天気           :晴れ
ルート         :滋賀県武佐宿→鏡宿(間宿)→守山宿→草津宿
GPSでの移動距離:21.4km


JR草津駅周辺の駐車場に車を置いて東海道本線で近江八幡駅に行き,近江鉄道八日市線に乗り換えて昨日の終点の武佐駅からスタートです。
この道は琵琶湖の東側の武佐宿、そして中山道以前の東山道だった頃に成立した鏡宿、守山宿を通り草津宿に至ります。鏡宿は遮那王と言われていた源義経が鞍馬山を出奔し奥州藤原氏のもとに行くときに元服した地です。
そして、鏡宿のすぐそばの篠原には平家終焉の地が在ります。


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↑GPSログと写真がマッピングされた地図が開きます GPSログを GoogleEarthで
ツアーする方法

↑ 再生ボタン  をクリックすると、街道筋を
空撮した様な動画が再生されます。
*上のの GPS Log をGoogleEarthProでツアーして動画化した映像です。


カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画しそのイメージデータを加工したものです。)


武佐宿
 


伊庭貞剛の屋敷跡

近江鉄道八日市線武佐駅の踏切を渡ると,武佐宿も外れの方に来たという雰囲気になります。
西に向かって歩いていると少し離れた所からでも大きな楠木が見えます。
学校の跡地かと見まがう大きな楠木が見える広大な屋敷跡です。住友財閥中興の祖と言われている伊庭貞剛の屋敷跡です。
今回初めて伊庭貞剛を知りましたが幕末明治大正と生き,明治政府に失望し判事を辞し住友に入社。さまざまな役職を経験。
NHK朝ドラで有名になった五代友厚らと共に大坂商業講習所(現大阪市立大学)の設立などに参画。
別子l銅山の煙害問題や銅山開発で荒れた山林に植林し環境復元など企業の社会的責任や自然環境の復元など,現代企業にも通じる業績を残した方です。
そして何より
「事業の進歩発展に最も害するものは,青年の過失ではなくして,老人の跋扈である。」として総理事を引退した事です。

安藤広重 日野川の舟渡し
安藤広重が描いた武佐宿の浮世絵です。日野川の舟渡しを描いた浮世絵ですが日野川は武佐宿の中心地から4km以上離れた東横関町という場所を流れています。
案内板によると通常は舟渡しですが,水量が減ると浮世絵の様に川に杭を打って止めた二艘の舟の上に板を渡して作った"舟橋"を通行したとの事です。

写真左:安藤広重 日野川の舟渡し
写真右:現在の日野川

 案内板に掲載されていたものを写真に写して転載しました。

鏡宿 義経元服の地

鏡宿は中世の東山道時代の宿駅で江戸時代になると正式な宿場である武佐宿と守山宿の間が離れていた為に間の宿として機能しました。京都を朝旅立つと鏡宿で一日の行程を終えるというのが一般的だったという事です。

源義経元服の地
また鏡宿は"遮那王"と言われていた16歳の源義経が鞍馬山を出奔して鏡宿に宿泊し,この地で元服したと伝わっています。
元服して鏡神社に参拝したとき烏帽子をかけたとされる松があります。この松は1873年(明治6年)に台風で倒れた為根元の幹の部分のみが保存されています。
元服した義経は金売吉次らの助けを借りながら奥州平泉に旅立っていきました。

写真左:鏡宿の街並み
写真右:源義経宿泊の館跡


写真左:鏡神社境内
写真右:烏帽子掛け松


平家終焉の地
平家は壇ノ浦で一族郎党が滅んだと思われがちですが、この鏡宿のそば篠原が終焉の地です。
平家一門は壇ノ浦の戦いの戦況を不利とみるや、多くの武将・女御が入水し、知盛・経盛・教盛は絶命しますが、宗盛は死にきれず、宗盛の息子清宗と共に引き上げられ捕虜になります。
(注:鎌倉殿の13人のキャストは小泉孝太郎さん)

捕虜になった宗盛と清宗は京に送られ、その後、義経に連行されて鎌倉に向かい、勝者と敗者という形で頼朝と謁見します。
義経はといえば、"腰越状"の逸話で有名ですが、頼朝の怒りをかい、鎌倉の手前 江の島付近の腰越に留め置かれ鎌倉に入る事が出来ませんでした。
その後、義経に護送され、京に送り返される途中、宗盛父子は、この篠原の地で処刑されました。




野洲付近

野洲を訪れるのは約30年振りになります。その時は仕事で野洲駅近くの外資系コンピュータ企業の大きな工場を訪問したので野洲の町を歩いてみるなどの事は無くとんぼ返りでした。

1990年代以前は空調が効いた社長より良い部屋に,大型汎用機と言われる背丈より高いラックがいくつも並んだコンピュータが鎮座し不気味な唸り声をあげていました。それはサラリーマンが個人で購入することなど考えられないとても高価な代物でした。

その頃、UNIXサーバーやWindowsサーバーが産声を上げ、よちよち歩きながら、世代交代を予感させ始めていました。そして5年も経たないうちに多くの分野でUNIXサーバーやWindowsサーバーが主流になり。その当時、家庭の大型ブラウン管テレビほどあったダム端末と言われた大型汎用機の表示装置はWindowsパソコンやMACあるいははAndroid、iPhoneに変わって、カバンやポケットに入る様になって、世界中の情報に簡単にアクセスする事が出来る時代になりました。
更に大型冷蔵庫ほどの大きさのハードディスク装置でも、その記憶容量は1.2Gbyteしかなく。今ではハードディスクは、それより1000倍以上の容量でも手のひらに乗るようなものが家電量販店で販売され。更に、フラッシュメモリーに至っては指先より小さくなり・・・。

そして何より、インターネット普及の兆しが見え始めた1990年代、こちらは心を躍らせて、役員にISDNで接続したパソコンでインターネットのデモを行ったら、『こんな遅いものは使い物にならない!』 と一蹴され、その役員はデモの途中で退席してしまいました。
その役員はメーカーを問わずコンピュータどうしが簡単に接続され、地球の裏側の情報にもほぼリアルタイムでローコストでアクセスできるという革命的な出来事が社会に何をもたらすかを、想像することすら難しかったのだと思います。日本の失われた30年はこの役員の様な方達が多く存在した事が根底にあるように感じています。

1990年代に起こった出来事がコンピュータの概念を計算機から通信機に変えた事で、その後の爆発的な変革が起こりました。
そして、インターネット上で情報を検索するのみならず、多くのサービスが構築されて、それらのサービスを提供する企業は世界的な巨大企業に成長し、そのサービスがなければ日常生活すらままならない世の中に変貌しました。

さて、どれだけ早いスピードで変革したのか思い出すだけでも胸が苦しくなるようなスピードでした。今はその外資系の大型汎用コンピュータメーカーの工場も売却され、プレイヤー企業も当時は新興企業と言われていた企業に変り,ここ数10年の異様に早い変革を感じます。
この数10年のITの変革のスピードに比べたら,歩いて旧街道を旅する早さは亀の歩みのようなものです。

人間どんなに時代が変わっても、1日24時間、1年365日、そのうちの1/3は眠って、食事は1日2回~3回。という基本的なサイクルは何も変わっていない訳で、仕事のサイクルだけが異様に早くなりました。
昔は資料を送るのは郵送で数日かかり、打合せが必要なら泊りがけで出張していたのが、指先ひとつで資料を送れて、なんならTV会議で資料と表情を共有しながら打合せ出来る様になりました。なんか慌ただしいというか、いつも仕事の事が頭から離れず、休みでもメールが来たり、電話が来たり、気持ちが休まる事がなくなりました。

現役世代の方達は中々そうも言っていられないと思いますが、"ゆっくり生活する。" "自分のペースに合わせて生活する。" って事が、心と体のバランスを保つ様に思います。どんなに必死になって働いても、しょせん「座って半畳、寝て1畳。天下とっても2合半。」です。

ただ、仕事をする事は、生活の糧を得る為だけでは無い側面があります。自分が頭の中で思い描いた事を実現する、そして、その実現した事が人や広くは社会の役に立っていると実感できるという事が、仕事をする上での大きなモチベーションになっている様に思います。

野洲市小篠原付近
見落としてしまいそうですが桜生自治会館の軒の上に銅鐸のレプリカが飾ってあります。
付近の大岩山から銅鐸が多数発見されたことからこの付近は"銅鐸の里"と言われています。
少し離れた銅鐸博物館(野洲市歴史民俗資料館)には付近で発掘された銅鐸が展示してあるとの事です。
中山道沿いには趣きのある民家が点在し周囲の風景と相まって長閑な雰囲気です。

写真左:桜生自治会館の銅鐸レプリカ 一階の庇の上に展示してあります
写真右:暁酒造


行畑付近
新幹線の高架を越えると途端に町中に入ったと感じます。ここが旧中山道と知らなければ何てことの無い道を進みます。中山道はここから先京都との県境の逢坂の関手前までは市街地の中を通っています。

写真左:新幹線高架を振り返る
写真中:常夜燈風道標
写真右:行畑付近の中山道


写真左:中山道と彦根街道(朝鮮人街道)の追分
  暫く進むと鳥居本宿で分かれた彦根街道(朝鮮人街道)に出会います。
  左:彦根道(朝鮮人街道)  右:中山道

写真右:唯心寺の茅葺本堂 茅葺の本堂が珍しい 浄土宗 佛牙山 唯心寺


守山宿


野洲川の長い橋を渡ると守山宿です。本来の守山宿に吉身・今宿が加わり大きな宿場として賑わいました。守山宿の街道沿いは少しごちゃごちゃしてますが生活を感じる道を進みます。推測ですが守山宿周辺は再開発されることなく道や町割りは江戸時代のままなのではないかと思います。

東門院山門
近江西国三十三ヶ所霊場第二番札所である東門院は比叡山延暦寺の東側に位置しており,延暦寺の鬼門である東側を守る為に建立されました。
正式には"比叡山東門院守山寺"と言い,地名の守山はこの守山寺からつけられたとの事です。

うの家
元内閣総理大臣 宇野宗佑氏の生家です。ホームページによると平成21年頃まで造り酒屋を営んでいましたが廃業し,平成22年に守山市が譲り受けて改修工事の後平成24年にイベント会場やレストランなどを開設したとの事です。

本陣跡推定地
案内板によると 1861年(文久元年)10月22日 14代将軍徳川家茂に降嫁する皇女和宮親王がこの本陣に宿泊したとの事です。

石造道標
1744年(延享元年)に建立された道標。 
「右 中山道 并(ならびに) 美濃路」
「左 錦織寺四十五丁 こ乃者満(このはま) ミち」
と刻まれています。「こ乃者満ミち」の草書体の文字が如何にも古い道標だと感じます。

写真左:吉身町 慈眼寺付近の街並み
写真右:うの家


写真左:本陣跡推定地
写真右:石造道標


今宿一里塚
案内板によると中山道には日本橋から中山道と東海道の合流点の滋賀県草津まで129ヵ所の一里塚があったとの事です。今宿一里塚は日本橋から数えて128番目の一里塚だそうです。
今は南側のみが残り大きさも少し小さくなっていますが榎が生い茂り往時の面影を良くのこしています。

草津宿

草津宿の手前の中沢付近の葉山川を越えると中山道は東海道本線と草津線の為に道筋が消失しています。線路下のトンネルをくぐり抜けて住宅街の中を迂回して進みます。

線路下のトンネル 草津駅方面から来たら
ここを曲がる
草津駅方面を望む

草津駅手前の中山道
住民の生活や学生の通学路としてまだ現役の道路です。学生の元気な話声が響きます。

草津駅周辺に止めた車を取りに行って今日の行動は終わりです。


エピローグ

今日の温泉 草津湯本 水春
琵琶湖に架かる近江大橋の東詰にあるイオンモール草津 スポーツ&レジャー棟の中にあります。
敷地が広くてどこをどう走ったら良いか迷ってしまいました。
多様な浴槽がありナトリウム-炭酸水素塩泉で美人の湯を楽しむことができます。

今日の宿  道の駅 びわ湖
琵琶湖大橋を渡り橋の西詰にある "道の駅 びわ湖" で車中泊です。
琵琶湖の西岸にあるので朝は琵琶湖越しに朝陽が望めるかと思いましたが翌朝は雲がかかって日の出は拝めませんでした。


END

2020/8/18  一部記述を追加
2017/7/22 作成

Column


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