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電子足跡:中山道歩き旅
 軽井沢宿から長久保宿へ


プロローグ


昨年(2017年)11月に日本橋から軽井沢宿まで歩いて中断していた中山道歩きを再開し軽井沢の六本辻から再スタートです。
軽井沢宿から長久保宿手前の笠取峠まで浅間山をぐるっと180度の角度で見ながら歩くルートです。
高原の爽やかな風を感じながら雄大なすそ野を延ばす浅間山を堪能できます。
このルートは途中笠取峠が在るものの笠取峠はそれほど急登ではないので体力的にキツくはありません。


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公共交通と宿泊施設について 
和田峠が控えているので下諏訪まで歩くには岩村田宿から下諏訪宿までは鉄道路線がありません。バス路線はありますが本数は少ないです。
和田宿側から和田峠を越えるには和田宿か長久保宿付近で一泊する必要がありますが,インターネットで検索した和田宿内の宿泊施設は2軒ありましたが電話したところ現在は営業していないとの事でした。
街道筋から少し離れますが 民宿みや が営業しており今回 私は民宿みやにお世話になりました。

ルート
区間 ルート 歩いた日 GPS移動距離
軽井沢駅~岩村田宿 軽井沢駅-六本辻-沓掛宿
-追分宿-小田井宿-岩村田宿
2018年6月13日 20.3㎞
岩村田宿~長久保宿
~民宿みや
岩村田宿-塩名田宿-八幡宿
-望月宿-茂田井間の宿
-芦田宿-笠取峠-長久保宿-民宿みや
2018年6月14日 27.8㎞

 
GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法
  詳細ルート地図が開きます

中山道 軽井沢宿から長久保宿まで概略ルート地図
カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


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軽井沢宿

現在の軽井沢は明治以後に避暑地として発達したのは周知のとおりです。
現在の旧軽井沢地域が宿場が在った場所になります。

ブラタモリ4 松江 出雲 軽井沢 博多・福岡 編の「3軽井沢はなぜ日本一の避暑地になった!?」に掲載されている1887年(明治20年)に撮影された軽井沢の写真を見ると閑散とした平原が広がっているだけでカラマツ林も見当たらないです。言葉は悪いですが不毛の土地という印象です。カラマツ林は明治以後に植林された人工的なものとの事です。

寒冷な気候で農業では生計が立てられず宿場として栄えていた街が,宿駅制の廃止と碓氷新道の開通で決定的なダメージを受け衰退し,寒冷であるが故に夏涼しいと言う気象条件を逆手にとって避暑地として甦るのは短所を長所に変える様な何とも示唆に富んだ話だと思います。

写真左:六本辻 わかり易く言えばロータリーです。
写真右:カラマツ林のなかに続く旧中山道


沓掛宿

沓掛宿は現在では中軽井沢と言った方が分かりやすいです。
軽井沢もここまで来ると洋風な避暑地という印象が薄れてきます。しかし街道筋にカラマツ林が無くなるので浅間山がドーンと言う感じで見える様になります。
中軽井沢と言うか沓掛宿は残念ながら宿場の雰囲気は薄れています。それでも路傍には石仏が有ったり,本陣跡には現代風の立派な民家が建っていますが表札に ”本陣” と掲げてありました。

写真左:沓掛宿手前から見える浅間山
写真右:古宿付近の石仏


追分宿

追分宿は小諸,上田,長野市丹波島を通り善光寺に行く善光寺街道(北国街道)との追分に発達した宿場です。
標高は1000m程で軽井沢の避暑地のイメージはありませんが,この季節でも爽やかな風が吹き抜け歩き易かったです。

宿場内は地域全体で景観を保全しているようで,道もアスファルトではなく石畳を模した舗装材料が使われていて,これまで見て来た軽井沢宿・沓掛宿と異なり宿場の景観を良く残している街並みです。

出梁造り(だしばりつくり)
出梁造りは二階の床の梁をせり出して二階の床部分を庇の様にした構造の家屋です。これまで歩いて来た宿場ではあまり見られませんでした。
出梁造りの家屋を見ると中山道を歩いている,特に木曾路に近づいているという感じが強く湧いてきます。
近畿圏の家屋は”袖うだつ”がある家屋が街の景観を印象付けいますが,中山道も長野県内では出梁造りが街道の景観を印象付けています。

堀辰雄文学記念館
昭和初期に活躍した堀辰雄が折に触れ訪れ,軽井沢宿のつるや旅館にも滞在して執筆活動をしていますが,昭和19年 40歳になって軽井沢に移住して終の棲家となった土地です。軽井沢を舞台にした作品を多く残し,最近では宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」のモチーフになった作品の作者として知られました。
残念な事に私は宮崎駿監督の映画も堀辰雄の「風立ちぬ」も見てはいませんが,「風立ちぬ」というタイトルだけで軽井沢をイメージできます。

写真左:出梁造りの民家 追分宿本陣跡付近
写真右:堀辰雄文学記念館 移築された追分宿本陣裏門が入口になっています。


分去れの道標(わかされのみちしるべ)
追分宿の京口側にある善光寺街道(北国街道)と中山道の追分にある道標です。
右に進めば善光寺に行き,更には日本海に続いています。左に進めば中山道を進み京へ続いています。

ところで道標の文字が ”中山道” ではなく ”中道” になっています。
幕府の命令で ”仙” を ”山” に統一したのは1716年(正徳6年/享保元年)との事ですので,この道標はそれ以前に建てられたという事なのでしょう。

分去れ=追分
私はこれまで道が分岐する所を ”追分” と言うと思っていましたが,”分去れ” とも言う事を初めて知りました。
”分去れ” と言うと ”別れ” を連想してしまいます。
江差追分などの追分節と言われる民謡が哀愁のある節回しなのは,現代の様に電話やメールも無い時代に道を分かれる事は一生の別れを意味したという事なのでしょう。
追分は一期一会の出会いと別れの場所だったと思い至りました。

写真左:中山道と善光寺街道(北国街道)追分  左:中山道  右:善光寺街道
写真右:別去れの道標  ”従是中道” と読み取れます 


小田井宿


御代田(みよた)一里塚
御代田駅手前数100mの所に御代田一里塚が残っています。
街道筋に案内板があるので案内板の方向に歩いて行くと畑の中にあります。現在の中山道より少し離れた畑の中にあった為に良く保存されています。

昼食はドライフルーツとナッツでした
御代田一里塚を見た後に御代田駅周辺で昼食を食べようと思ったのですが街道筋の食堂は休み。ひとけの無い場所で行動食のドライフルーツとナッツを食べて昼食の代わりにしました。
旧街道を歩いていると意外と食堂が無い事があります。食堂が人通りの少ない旧街道から新道の方に移転しているのかもしれません。その為にも行動食を携行した方が良いです。

小田井宿の風景
小田井宿は部落の入口に ”中山道小田井宿”とあえて ”跡” と書いてあったのであまり宿場の遺構は無いのかと思い通過しました。
幾つか宿場だった頃の建物が現存しており,問屋だった安川家住宅は出梁造りに格子戸の立派な造りで往時の雰囲気が伝わってきます。
説明板によれば1843年(天保十四年)の中山道宿村大概帳には109軒の家があり,319人が住み,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠5軒,問屋場2ヶ所あったとの事です。

写真左:問屋跡 (安川家住宅)
写真右:”宿” の雰囲気は薄くなりましたが,代わりに ”塾” になっていました。オヤジの駄洒落です。


岩村田宿

五街道細見(岸井良衛 青蛙房)の小田井宿の部分には ”岩村田まで家なし” と書かれています。
現代では家が途切れる事はないですが,岩村田市街に入ると突然出現する大きな市街に驚きます。

岩村田藩1万5千石の城下町としての側面と商業の町としての側面も併せ持つ宿場だったとの事です。
岩村田藩の城は市内を流れる湯川の西岸にある王城公園が城跡です。
wikipediaによると天保14年(1843年)宿内の家屋数は350軒,うち旅籠8軒で宿内人口は1637人だったと事です。

本日の宿泊
今日は岩村田市内のインターネットで予約した佐久ホテルです。名前にホテルと付いていたので食事付のビジネスホテルかと思っていました。
宿泊してから分かった事ですが創業は室町時代だとの事でとんでもない老舗旅館でした。

夕暮れ,駐車場の車のフロントガラスに反射した夕日が植木の小枝を通って掛け軸に射し込み,そよ風で小枝が揺れると掛け軸に射し込んだ影も揺れるという何とも優雅な床の間でした。
勿論,揺れる影を眺めながらビールを飲みました。


日にちは変わり岩村田宿からスタートです。岩村田の市街地を南下してから大きく西に曲がって進むと市街地も寂しくなり田園の中山道を歩きます。すそ野を伸ばした雄大な浅間山が望めるようになります。


塩名田宿

塩名田宿は中山道の道筋で唯一 千曲川を渡る場所の東側に,千曲川の川止めに備えて新設された宿場です。
家屋数150軒と小さな宿場ですが本陣2軒,脇本陣1軒がありました。2軒の本陣のうち丸山本陣は問屋も兼ねていて改築されながら現在でも生活の場となっているとの事です。

宿場は東から下宿・中宿・河原宿に分かれていたとの事ですが,千曲川の河川敷にある河原宿は当時の雰囲気を良く残しています。

写真左:丸山本陣
写真右:河原宿全景屋根のむこうに千曲川に架かる中津橋が見える


写真左:河原宿に下る坂道
写真右:河原宿の風景


千曲川は新潟県上越市高田を流れている?
ところで,五街道細見(岸井良衛 青蛙房)の塩名田宿のところに「千曲川・七十七軒 (中略) 此の川越後高田に登り海へ入る」と記載されています。
”越後高田”が現在の新潟県上越市の事だとしたらこれは大きな間違いで,千曲川は長野県飯山市付近で流れを北東に変えて新潟県に入り信濃川と名前を変えて十日町市から長岡市を通り新潟市で日本海にそそいでいます。
塩名田宿では77間の川幅だった河は大河となって日本海に流れ込んでいます。

塩名田宿の千曲川 長岡市の信濃川 新潟市の信濃川河口

八幡宿

千曲川を渡り少し歩くと八幡宿になります。塩名田宿から八幡宿は 27丁 約2.9㎞ で中山道の中では最も距離が短かったとの事です。

レトロなバス停
八幡宿と名前が示すように宿内には佐久八幡神社が鎮座しています。
その八幡神社の参道手前に何ともレトロなバス停がありました。文字が消えかかっていますが ”八幡神社前停留所” と書かれています。中には文字が汚れて読めないような広告が壁面いっぱいに掲げられています。



宿内には幾つか古い家屋や路傍にひっそりと石仏が在ったり,何も飾らない現代の宿場の風景です。
八幡宿本陣は 皇女和宮 が宿泊した場所です。

写真右:八幡宿遠景
写真左:八幡宿本陣跡


百沢集落の家並
八幡宿と望月宿の丁度中間くらいの所に百沢という集落があります。
古い家が並んでいるだけと言ってしまえば身もふたもないのですが趣きのある家が並ぶ街道筋です。


祝言道祖神
その百沢集落のはずれに ”祝言道祖神” と言われている道祖神があります。
説明板によれば 長野県安曇野地方に多く見られる道祖神は主尊が日本神話の神々で着衣も神々の装束で造像されるのが通例ですが,この祝言道祖神は宮廷貴族風の装束で酒を酌み交わす華麗な祝言像で類例の無い珍しいものだとの事です。

右の道祖神は板鼻宿で見た双体道祖神です。こちらは素朴な感じがしますが,祝言道祖神は華麗な感じがします。



望月宿

百沢集落を過ぎるとまもなく ”元禄の道標” を右に入り瓜生坂を越えて望月宿に向かいます。

実は事前準備でカシミール3Dにルートを入力している時に,この区間の道が不鮮明でルートの特定は厄介でした。
江戸から来た場合,本来の中山道は 元禄の道標 から 望月トンネルの入り口に続く道路のそばを通っていたらしいのですが現在は通行不可になっています。

また,瓜生坂の百万遍念仏塔から京側に進む道がどの道なのか分からず往生しました。
下記の瓜生坂の項を読んでもらえれば分かりますが,百万遍念仏塔のそばに下に降りる細い道が続いており,それが旧中山道です。地理院地形図を拡大してみると確かに小道が記載されています。

元禄の道標
百沢集落を越えて国道142号線を渡り布施川沿いの県道150号線を進むと直ぐに”元禄の道標”があります。
江戸側から来た場合は右方向に入る山道が旧中山道です。

道標の文字は風化が激しくて文字は読み取れませんでした


瓜生坂
元禄の道標から道なりに緩い坂を登り切ると百万遍念仏塔があります。
百万遍念仏塔のすぐそばの道路脇に ”中山道 道はここから土手を斜めにくだっていた。” との看板あり。

  瓜生坂の百万遍念仏塔


その斜めにくだる道がこちらです。 道路脇の地元の人しか通らない様な未舗装の小道です。
それでも路傍には石仏が見守っていて,ここが旧街道だった事を思い起こさせてくれます。


坂を下って行くと望月宿の家並が見えてきます。

あまりにもディープな道を進んで行くので人家が見えるとホットします。

望月宿内の風景


宿に入ると古い建物が点在しています。
望月宿,綺麗な地名です。望月宿は平安時代の頃から駒の里と言われて旧暦八月の満月の日に朝廷に名馬を納めた事が地名の由来とされています。

写真左:大和屋(真山家住宅)
 重要文化財に指定されています。明和3年(1766年)に旅籠として建てられた建物は重厚な出梁造りで太い胴差に突き出た出梁や板戸が印象的です。

写真右:山城屋 
 現在でも旅館として営業を続けている旅籠。骨組みは残したまま内部は改装してあるとの事です。



井出野屋旅館  別名 那須ホテル???
大正時代に建てられた木造3階建ての旅館というだけではなく,1976年(昭和51年)に公開された映画 犬神家の一族 で主演の石坂浩二が扮する金田一耕助が宿泊した ”那須ホテル” として使用された旅館です。

茂田井間の宿

茂田井間の宿は2軒の蔵元の白壁が宿場内の景観を決定付けていて,これまで歩いて来た中山道沿いの景観とは趣を異にしています。
白壁の坂道は映画のワンシーンを見るような美しい街並みです。

茂田井間の宿遠景
茂田井間の宿の手前の坂道から宿場内を望んだだけで山間のこじんまりと集まる集落が何か特別な場所と思わせる雰囲気が放たれています。


元禄2年(1689年)に名主市郎衛門が酒造りを始め,現在では大澤酒造と武重本家酒造の2軒の蔵元が営業しています。

武重本家酒造付近  銘柄は牧水,御園竹など
大澤酒造付近  銘柄は勢起,明鏡止水など


間の宿とは

間の宿は旅籠を持たない休憩を目的とした宿場でした。宿場と宿場の距離が長い場合など自然発生的に発達した場合が多いとの事です。宿泊施設を持たないのは幕府が本宿を保護する為に本宿以外の宿泊を禁止した為との事です。

芦田宿

芦田宿は慶長の初め頃に新駅の設置を願い出て設置された宿との事で,北佐久地域では最古の宿場と言われているそうです。残念ながら往時の建物は建て替わっていて宿場の雰囲気はあまりありません。

芦田宿本陣跡 土屋家住宅
その中でも本陣跡の土屋家住宅の門は白壁の立派な構えで,多くの残されている木造の門とは印象が全く異なります。

笠取峠の松並木
芦田宿を過ぎて少し進むと,笠取峠手前の坂道に約1kmにわたって赤松の松並木が続いています。
これまで中山道を歩いて来て,大規模に松並木が残っていたのはここが初めてではないかと思います。
笠取峠に向かう坂道なのですが松並木が在るおかげで陽射しが遮られて坂道をあまり苦も無く登れました。

松並木が途切れる所に ”従是東小諸領”の石碑があります。元は笠取峠にあったもののレプリカだそうです。
松並木は幕府から小諸藩に赤松数100本下付されたものを植林して,その後も小諸藩が松並木を保護してきたのだそうです。

写真左:松並木
写真右:従是東小諸領の石碑


笠取峠
笠取峠はそれ程急登という訳ではありません。芦田宿から峠までの標高差は200m程です。
松並木がある場所以外はアスファルトの道路ですので旧街道の峠道の雰囲気はありません。
振り返ると浅間山が見えます,たぶん見納めと思いながら振り返りながら歩きました。

峠を越えると直ぐに ”峠の茶屋” が営業しています。冷たい甘酒を美味しく頂きました。
お店の方に聞いたら,「昔は多くのお客さんが来てくれたけれど,道が良くなりすぎて皆さん通り過ぎてしまうので営業は大変です。」との事でした。

写真左:浅間山遠景
写真右:峠の茶屋


長久保宿

珍しいL字型の宿場
当初,長久保宿は現在の場所より西側の依田川沿いにあったとの事ですが,洪水により流された為に寛永8年(1631年)に現在の段丘上の現在地に移ったとの事です。
当初は東西に延びる竪(たて)町が作られ,宿場の規模が大きくなるとともに南北に延びる横町が形成されました。その結果あまり見ないL字型の宿場町が形成されたとの事です。

長久保宿に入ると坂道に沿って軒が階段状に並んで何とも言えない宿場の雰囲気を醸し出しています。
往時を偲ぶ家屋も残っている良い宿場町です。


写真右:竪町の東側から見た街並み
写真左:丸木屋  旅籠を改修して地域交流センターとして開放。板葺きの屋根に重しの石が当時の姿をよく伝えている。


一福処 濱屋
出梁造りの旅籠を改修整備して歴史資料館として公開しています。

入口に続く土間  囲炉裏が懐かしい板間


写真左:長久保宿本陣跡  御殿と表門が現存している
写真右:釜鳴屋の本うだつ 近畿圏の影響を感じる本うだつ


本日の宿


民宿みや について
冒頭に和田宿内の宿泊施設に電話したら2軒とも営業していなかったと書きました。
長久保宿を越えて和田宿に向かう手前の依田川と大門川が合流する落合から中山道は右に進みますが左に進んで1km弱の所に民宿みやが営業しています。 

民宿みやはご夫婦で切り盛りしている様ですが,多くの街道歩きの方達が利用するようでパンフレットには「和田峠歩きをサポートします。」とか「歩いて疲れたらお電話下さい。車で迎えに行きます。」とも書かれています。

私が宿泊した部屋は15畳ほどの広い部屋で,あまりにも広かったので怪訝な表情をしたのだと思いますが,奥さんが言うには「予約された後に何人か予約の電話が有ったのですが相部屋になるのでみんなお断りしました。他の部屋は工事関係の方達でいっぱいですので・・・。」との事でした。有り難い心使いでした。

料理は野菜をたっぷりと使った夕食で新鮮であまりにも美味しかったので普段は小さい缶ビールしか飲みませんが大びんのビールを二本も飲んでしまいました。
お世話になりました。有り難かったです。
で,勝手に民宿みやを応援させて頂きます。

民宿みや
住所:〒386-0601 長野県小県郡長和町大門岩井635
電話:0268-68-0302
E-mail: magu@rose.ocn.ne.jp


END

2018/06/29 作成

Column


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