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電子足跡:中山道歩き旅 御嵩宿から鵜沼宿
 皇女和宮様使用の太田宿本陣の食器


プロローグ

中山道を御嵩宿-伏見宿-太田宿-うとう峠-鵜沼宿と歩いたページです。御嵩宿からはこれまでの山間の道からほぼ平坦な町中の道に変ります。
この区間はなんと言っても美濃加茂市の太田宿福田本陣で二十二代当主の福田氏に偶然出合い,本陣に残る貴重な什器備品を拝見させて頂いた事です。
皇女和宮様が宿泊した時に使用したお膳や食器類がそのまま保管されており,その華やかさは食器というより美術品を見ている様でした。

うとう峠の登口は分かり難いです。
途中で うとう峠 の入口が分かりずらく,道標を見落としてしまった為そのまま木曽川沿いを歩いてしまいました。うとう峠は翌日再度訪れて歩きました。


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ルート
区間 ルート 歩いた日 GPS移動距離
御嵩駅-新鵜沼駅 御嶽宿-伏見宿-太田宿-うとう峠-鵜沼宿 2018/07/10 21.7km
注:GPS移動距離は うとう峠 を通った場合の距離です。

 
GPSログを
GoogleEarthでツアーする方法
  GPSログに写真がマッピングされた地図が開きます


カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです。)


御嵩宿

御嵩駅は名鉄広見線の終着駅です。乗換線も何もないそこから先には線路が無い駅です。終着駅はそれだけで何となく風情があります。その御嵩駅からスタートです。

今日は快晴の天気予報です。日中は陽射しが強くなるので,日の出前から歩きます。

日の出前の街道筋はまだモノトーンの風景の中で眠っています。

日本のシンドラー 杉原千畝出身地

駅前に御嵩周辺の観光案内の看板があります。
その中に第二次世界大戦中 ユダヤ避難民にビザを発給し続けた日本のシンドラーと言われる杉原千畝は御嵩からほど近い八百津町の出身で,記念館があると書かれていました。
ここが出身地である事は初めて知りました。歩き旅をしているといろいろな発見があります。

伏見宿

伏見宿は元禄7年(1694年)に新しく開発された宿場です。御嵩宿から太田宿の間が3里と長かった事や木曽川の渡しがあった為に新設されたとの事です。木曽川の水運で多くの物資が行き来し賑わっていましたが,現在の宿場内は当時の面影はあまりありません。

顔戸(ごうど)城址付近 可児川(かにかわ)の風景
この歳になっても明鏡止水の心境に至っていないですが,明鏡止水とはこの様な風景かと思いました。


写真左:伏見宿本陣跡
写真右:伏見宿の家並


太田宿

太田宿は現在の美濃加茂市にある宿場です。
木曽川を渡ると太田宿に入ります。勿論当時は舟渡です。渡し場は天明(1781~1789年)以前は現在の中濃大橋の上流付近,天明以後は太田橋の下流付近にあったとの事です。
街道沿いにうだつが上がった古風な建物が見れるよい街並みです。

太田宿脇本陣林家住宅 (国指定重要文化財)


太田宿内の家並


太田宿福田本陣
太田宿福田本陣は文久元年(1861年)10月27日 皇女和宮様が宿泊した本陣です。
現在は和宮様降嫁のときに新築された重厚な本陣門が残っています。

有吉佐和子の小説 ”和宮様御留” には 
「太田の宿には7日目に着いた。ここは尾州徳川家が担当しているだけあって,これまでのどの宿より立派な本陣が用意されていた。宮様のためには上段の間が三室,嗣子にも二室と,至れり尽くせりの準備であった。」
と描かれています。
小説の中にも描かれるくらい立派な本陣であり,最高のもてなしを提供したのだと思います。

小説の記述を裏付ける様に門の所にあった本陣の間取り図には広大な敷地の奥まった場所に,庭に囲まれた上段の間がしつらえてあります。


写真左:太田宿本陣門
写真右:本陣屋敷図


本陣門を見ていた時,男性に声をかけられました。
「興味があるようでしたら,本陣に残っているものをご覧になりますか? 私は本陣22代当主です。」
と声をかけられました。
驚いていると,敷地の奥まった所にある当主の住居に案内して頂いて,居間に所せましと並べられた数々の什器備品を拝見させて頂きました。

これまで,この様な品物を見たことがなかった訳ではありませんが,文久元年(1861年)10月27日に皇女和宮が手に取り食事をした食器がガラスケースに収められる事も無く,その時のままと思える状態で並べられていました。
まるで,そこだけは別の世界と思える様な華やかな光に包まれている様でした。

皇女和宮が使用した食器
160年近く前に作られたとは思えないほど,華やかで落ち着いた柄と色調です。
これはもう食器ではなく美術品と表現した方が適切な感じがします。

結婚というめでたい事なので華やかな食事は当たり前の様に思いますが,政略結婚であり,意にそぐわない結婚であり,当時としては異郷の地の江戸に下る和宮様の悲しみや不安を少しでも癒そうと,華やかな食器を準備し,心づくしの料理を提供した当時の本陣の方達の心遣いなのではないかと感じました。




皇女和宮御献立
これらの料理が写真の食器に盛付けられ,和宮様が召しあがったと思うと歴史ドラマのワンシーンの様な情景が脳裏に浮かびます。


天皇家より下賜された三つ重ねの盃




他にも多くの貴重な品々を拝見させて頂いたのですが,ここでは和宮様降嫁にちなむ品々を掲載するにとどめます。

降嫁に伴う宿場の負担
島崎藤村の小説 ”夜明け前” にも描かれていますが,皇女和宮の降嫁のとき街道筋の宿場やその助郷あるいは周辺諸藩も巻き込んで,狂乱状態とも思える未曾有の事前準備が行われました。

ここ太田宿では以下が調達されました。
人馬: 7856人  280頭
寝具: ふとん=7440枚  枕=1380個
食器: 飯椀=8060人前  汁椀 5210人前  膳=1040人前  皿=2110人前  通い盆=535枚
(太田宿福田本陣の居間に貼られていた資料より。 原典は「和宮様之生涯」 樹下快淳著)

この数量を見ただけでも通常では考えられないくらい,皇女和宮降嫁の行列の規模が大きかったか分かります。

当時,宿場は旅人を宿泊させるという機能は勿論ですが,荷物や通信物を次の宿場に運ぶという機能があり,現代で言えば宿泊業と運送業を兼ね備えた機能が宿場の役割でした。
多くの場合,本陣や脇本陣の当主は幕府・藩からの指示を遂行しそれに伴う折衝も行い,宿場を代表する役割もあったとの事なので,当時の太田宿福田本陣の当主は ”夜明け前” に描かれている主人公青山半蔵の父 吉左衛門の様に東奔西走の準備をして皇女和宮を迎えたという事は想像に難くないです。 

注:写真は福田氏の許可を得て撮影し,掲載許可も頂いています。
 貴重な品々を拝見させて頂き,また快く許可を頂きまして誠に有り難うございました。

注:福田氏が仰るには太田宿中山道会館に連絡をすると福田氏に取り次いで頂けるとの事です。福田氏の都合の良い時であれば本陣に残っている品々を拝見させて頂けるとの事でした。これは福田氏が善意のボランティアでやっている事です。


うとう峠への道

太田宿を過ぎると,日本ラインと呼ばれている木曽川の景勝地沿いの道を歩きます。河岸に露出した岩が連なった木曽川の風景が続いています。

日本ラインの風景


岩屋観音
猿啄(さるばみ)城址がある城山の麓の岩屋観音に続く山道があります。
岩屋観音は中山道を歩く旅人に信仰されていました。とりわけ街道を往来して商売をする商人は中山道は重要な道であったため近江商人が寄進した石碑が多く残っています。

国道21号線脇の登口 木曽川 岩屋観音

個人的な事ですが私は新潟県長岡市に在住しています。
岩屋観音に寄進された石碑の中に

”越後堀之内  宮 忠右ヱ門  同 治兵?” の石碑を偶然見付けました。

越後堀之内(現魚沼市)は長岡市内から南へ30km程の所にある町です。
ここまで歩いて来て,まさか越後堀之内という文字を見るとは思いもよりませんでしたし,昔も同郷の人達が遠くこの地まで足を運んでいたと思うと感慨深いものがあります。

石碑に刻まれた ”宮” という姓と関係があるのかは分かりませんが
堀之内町は歌誌「コスモス」の創刊や宮中歌会始の選者などを勤めた歌人 宮 柊二(しゅうじ 本名肇) が生まれた土地です。堀之内町内には記念館もあります。

うとう峠
実は,うとう峠のルートをカシミール3Dに登録している時にうとう峠のルートが特定出来ませんでした。仕方なくそれらしい道を登録して歩き始めました。
更に悪い事に歩いている時に道標を見落としてしまい,うとう峠への道が分からなく通り過ぎてしまったので木曽川沿いに歩いて,宝積寺付近で踏切を渡ってうとう峠下の合戸(かっこ)池を目指しました。
下に掲載した写真は次の日に車で再度訪れて歩いたときに撮影したものです。

うとう峠入口
廃屋になった建物を越えるとすぐに青い看板の下に小さな道標があります。
道標の方向に行くと小さな川に降りる階段があり,国道21号線の下のトンネルをくぐります。

廃屋になった建物が目印 道路東側の道標 国道21号線下の
トンネルをくぐります

当初中山道は国道21号線の坂祝(さかほぎ)・各務原(かがみがはら)まで木曽川に沿っていました。しかし鵜沼宿までの間が急斜面の崖路だった為に新しく うとう峠 を越える道を開削しました。

現在は ”うぬまの森” として整備されて,森林の中の石畳風の道を歩きます。
歩いたのは7月の暑い日でしたが森林の中は木陰で涼しく快適な道でした。



上記にルートが特定できなかったと書きました。
地形図には”うぬまの森”として整備された遊歩道が複数記載されていて,どれが中山道か分からなかったのが敗因です。

鵜沼宿

うとう峠を越えると合戸(かっこ)池脇を通った後は下り坂です。
坂を下ると鵜沼宿の東の見附があります。鵜沼宿は道をほぼ直角に曲がって宿場内に入ります。
今日は東の見附までで歩きは終りです。新鵜沼駅まで行き電車で御嵩駅に車を取りにいきます。

鵜沼宿遠望
写真中央付近が旧鵜沼宿です。


エピローグ

歩いてから2ヵ月以上経ってこのページを書いていますが,いまだに太田宿本陣の品々をで拝見させて頂いた時の驚きと感動が忘れられません。

旧街道を歩く時はその微妙に曲がった道筋や山間の忘れられた様な細い道,あるいは古い家屋などを見ると懐かしいと思うとともに静かな感動が湧いてきます。
和宮様ゆかりの品々を拝見させて頂いた時は,その美しさ驚くとともに,うまく説明できない感動が襲いました。美術館や博物館でガラスケース越しに見るのとは異なり,人が生活する居間で直接拝見できたという事もありますし,和宮様が直接手に触れた品々がその場所に在る事で,歴史のひとコマがそのまま目の前に現れた様な驚きを感じました。

今 目に見えている物は反射した光が網膜に届き,それを視神経が脳に伝えているに過ぎない訳ですが,人がその時その場で生きた事に思いをはせると,今 目の前にある光景にその当時の人の喜びや悲しみや驚きや感動や愛憎や人の活き活きとした感情が重なります。
そして150年程前に生き,今で言えば15歳のまだ中学生の少女が世の安寧を願って結婚し,時代の波に翻弄されながら享年32の若さで亡くなった和宮様の人生が儚く愛おしいと感じました。


END

2018/09/26 作成

Column


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