Link


電子足跡:中山道歩き旅
 草津宿から京都三条大橋


プロローグ

いよいよ当面の目的地 京都三条大橋までの歩きです。
あと一日で目標を達成できると思うとどこからともなく高揚感が湧いてきます。
長い日本の歴史の中心地,多くの人達が行き交い,そこで生まれた数々のドラマ。想像するだけで楽しくなってきます。

注:草津宿は中山道と東海道の結節点です。草津宿から三条大橋の区間は "東海道" と表記した方が良いのかとも思いますが資料によってはこの区間を中山道と書いている資料もありますので中山道と表記させて頂きます。


Amazonでショッピング 楽天市場でショッピング 楽天トラベルで予約
   


歩いた日       :2017年5月14日
天気      :晴れ
ルート          :滋賀県草津宿-瀬田唐橋-膳所-大津宿-逢坂-山科-京都三条大橋
GPSでの移動距離:27.4km
 (途中GPSログの収集を忘れた為その部分は直線で補間しています)

↑GPSログと写真がマッピング
された地図が開きます
GPSログを GoogleEarthで
ツアーする方法

↑ 再生ボタン  をクリックすると、街道筋を
空撮した様な動画が再生されます。
*左の GPS Log をGoogleEarthProでツアーして動画化した映像です。



カシミール3D 国土地理院
(カシミール3DによりGPSデータを国土地理院地形図に描画しそのイメージデータを加工したものです。)

草津宿

草津宿は旧東海道と中山道の追分の宿であり,更に琵琶湖の水運の矢橋湊に通じる矢橋街道との分岐点でもありました。本陣2,脇本陣2,旅籠70軒超え,町家500軒以上の大きな宿場町でした。

東海道・中山道道標
JR草津駅からしばらくアーケードの商店街を進みます。
天井川である草津川に1886年(明治19年)に掘削されたトンネルを越えると直ぐに大きな道標が目に飛び込みます。1816年(文化13年)に建立された高さ4.4mの東海道と中山道の追分に建つ道標です。

 "右 東海道いせみち"  "左 中山道美のぢ"   の文字が刻まれています。

旧東海道・中山道追分
左側の道 草津川(天井川)と
掘削された草津川トンネル

右側の道は 旧東海道 です。

写真左:旧東海道・中山道追分道標
写真右:草津川トンネルと道標の写真(昭和39年) 
 草津川トンネルの説明板に掲載されていた写真。写真右上にこの道標が写っています。


草津宿本陣
白い漆喰の壁が印象的な重厚な本陣です。
1949年(昭和24年)に国の史跡に指定されました。草津市民センター前の説明板に掲載されていた昭和10年頃に撮影された写真と比べても造りが殆ど変わっていない事が分かります。
見学も出来きますが朝早かったので閉館中でした。

写真左:現在の草津本陣
写真右:昭和10年頃の草津本陣


矢橋街道追分・矢倉立場
説明板によると,現在 瓢箪(ヒョウタン)製造を行っている瓢泉堂が建っている場所が矢橋街道追分・矢倉立場が場所でした。
瓢泉堂の左の道が中山道,右が矢橋街道です。 道標には "右やばせ道 これより廿五丁 大津へ舟わたし" と刻まれています。
当時は草津宿名物"うばが餅"を売る店が建っており,歌川広重の "東海道五十三次 草津" はまさにこの地で"うばが餅"を食べている光景を描いています。

写真左:矢橋街道追分 瓢泉堂
写真右:東海道五十三次 草津  歌川広重


矢橋街道道標
広重の浮世絵をよく見ると右側のT字路の部分にこの道標が描かれているのが見えます。

瀬田川


瀬田唐橋  俵藤太秀郷むかで退治

俵籐太秀郷は平将門の乱を平定した事で有名な藤原秀郷の別名です。
瀬田唐橋は琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川に架かる橋です。
西詰に"俵藤太秀郷むかで退治"の故事が書かれた説明板があります。子供の頃に聞いた昔話のかすかな記憶が蘇ります。

「三上山(近江富士)を七巻半もトグロを巻く大ムカデが琵琶湖の魚を食い尽くし人々が困っていると,大蛇に姿を変えた竜宮の主が瀬田唐橋に横たわっていると,人々は恐れをなして通行できずにいると,秀郷は大蛇を恐れる事無く易々と大蛇の背を越えて行ったので,この勇者なら大ムカデを退治してくれると思い,事情を話して大ムカデの退治を頼みます。
秀郷は矢じりに唾をつけた弓矢で射抜いて大ムカデを退治して,退治した後瀬田橋の下の竜宮に招かれお土産にを沢山貰って帰ったと言う話です。」

こじつけっぽいですが、現代にこの話を聞くと,森林の養分が水生資源を育てるという話なのかなと感じます。琵琶湖の幸を得たいのなら周辺の森林を大切にしなさいという寓話の様な気がします。

写真左:瀬田唐橋
写真中:瀬田唐橋から琵琶湖を望む
写真右:三上山(近江富士) 野洲付近で撮影


膳所城下

瀬田唐橋を渡り左に曲がると石山寺に行きます。石山寺を参拝したいところですが先を急ぎます。

膳所城址は現在は地続きになっていますが,元々は琵琶湖に石垣を築きそこに本丸・北の丸・二の丸を築城し,膳所の浮き城と言われていました。
膳所城下は商店街と住宅地が混然一体となった生活を感じさせる少し狭い道を進みます。
ところで関西出身者以外で "膳所" という地名を "ぜぜ" と読める人は少ないと思います。難読地名です。

写真左:膳所商店街
写真中:旧家
写真右:本丸町交差点から城址を望む


義仲寺

木曽(源)義仲・松尾芭蕉墓所
義仲寺(ぎちゅうじ)はその名の通り "木曽(源)義仲" を葬った地に 後年 妻である巴御前が草庵を結んで供養したのが始まりとの事です。その名の通り義仲は木曽が本拠地です。
そして時は経ち 遺言により義仲寺に葬られた 松尾芭蕉の墓所 でもあります。

旧東海道沿いの小さなお寺ですが義仲公墓(木曽塚),巴塚,そして芭蕉の墓が並び史料館には芭蕉ゆかりの品が並び,更に奥まった場所に建つ翁堂の天井画は近年注目を集める伊藤若冲が描いた四季花卉の図が描かれています。

写真左:義仲寺山門
写真右:境内風景


元禄2年おくのほそ道の旅から帰った松尾芭蕉は幾度となく義仲寺に滞在し境内の無名庵で句会を開く活動をするなど晩年の松尾芭蕉と義仲寺の深い関係が伝えられています。

  木曽殿と背中合わせの寒さかな   又玄(ゆうげん 芭蕉の門人)
  義仲の寝覚めの山か月悲し     芭蕉 (今庄 燧ヶ城址で詠んだ句)
  木曽の情雪や生えぬく春の草    芭蕉 (義仲寺 無名庵で詠んだ句)

松尾芭蕉は弟子の酒堂(しゅどう)と之道(しどう)の争いの調停のため大阪に行き,体調を崩した芭蕉は1694年(元禄7年)10月12日に御堂筋の花屋仁左衛門の座敷で亡くなっていますが,義仲寺に葬ってほしいと遺言し,門人達により川船で淀川を上り13日に義仲寺に入り14日に義仲寺で葬儀が行われてこの地に葬られました。

写真左:木曽義仲墓
写真右:松尾芭蕉墓


芭蕉直筆の短冊  レプリカ
右から

 ふる池や 蛙飛び込む水の音
 先たのむ 椎の木も有り夏木立
 からさきの 松は花よりおぼろにて
 野を横に むま引むけよほととぎす
 初しぐれ 猿も小蓑をほしげ也


写真左:松尾芭蕉 椿の杖 松尾芭蕉が使ったものと伝えられる 椿の杖
写真右:翁堂の天井絵と松尾芭蕉座像
天井絵は伊藤若冲筆の四季花卉の図

注:1856年(安政3年)に類焼し安政5年に再建。現在の絵は1888年(明治21年)に穂積永機が類焼したものに似た絵を奉納したものとの事。 (パンフレットより)

注:義仲寺の受付で写真撮影は可能である事を確認して撮影致しました。

大津宿

大津宿は県庁所在地である事もあり近代的な街に変貌しています。それでも所々往時の面影を残す町家があり新旧混然一体となった独特の雰囲気を感じます。
大津宿の道路元標がある札ノ辻を南に曲がった京町付近は琵琶湖から逢坂峠に向かう道が緩い登りになっています。路面電車も走る広々とした道です。少し小高くなった場所まで来ると開放感を感じる街並みが続いています。

写真左:森野すだれ店
写真右:ロシヤ皇太子遭難の地
1891年(明治24年)訪日中のロシア皇太子を警備の警官が切りつけた事件があった場所です。

死刑を主張し司法に介入する政府に対して,無期刑として司法の独立を守った事件として知られています。

宿場内の風景


街道歩きツアーの皆さん
北陸街道を歩いている時は街道を歩いている方にあった事はありません。
中山道,東海道を歩いていると個人で歩いている方やツアーで歩いている方達に出会います。

この写真を写した後,リーダーの方に呼び止められてどこから歩いて来たのか尋ねられました。「新潟県長岡市から北陸街道・中山道を歩いて今日は三条大橋まで行く予定です。」と答えたら,ツアーの皆さんから拍手が湧きました。短い時間でしたが同じ趣味の方達に出会えて嬉しかったです。

逢坂

案内板によると地名の由来は,日本書記に神功皇后と対立した忍熊王が神功皇后の将軍武内宿禰と忍熊王がこの地で遭遇した事によると書かれています。 
由来はともかく,逢坂は古来より和歌や源氏物語にも登場する地名です。"逢坂" という漢字の通り,人との出会い,とりわけ恋人と会う場所のイメージが膨らむロマンチックな地名です。

 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関   蝉丸

 夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ   清少納言

 名にしおはば 逢坂山の さねかずら 人にしられで くるよしもがな  三条右大臣

浅学な私にとっては和歌より "坊主めくり" で有名な "蝉丸" が逢坂山に庵をあんでおり芸能の神様として蝉丸神社が下社,上社,分社と三社鎮座しています。
現代では国道1号線,名神高速道路,京阪電気鉄道京津線が通り車が行きかう道路に変貌しています。峠を越えて京都側の数百mの旧道沿いの家並が当時を偲ばせるのみです。

写真左:大津側から逢坂峠を見る
写真中:蝉丸神社上社
写真右:逢坂の関址・常夜燈


写真左:東海道五十三次 大津宿 広重 案内板の画像を掲載しました
写真中:旧道の風景
写真右:京都側から逢坂峠を見る


京都

逢坂の関を越えるといよいよ京都です。
この道は所々古風な道標が立ち道そのものの雰囲気もさることながら,人里離れた逢坂峠から少しづつ雅な古都京都に近づいて行く高揚感を感じる道です。

伏見街道追分
名神高速道路の高架をくぐると山科盆地に入ります。直ぐに東海道と伏見街道の追分があります。地名も追分町です。

写真左:伏見街道追分
写真右:髭茶屋道標
東面: みきハ 京ミち
南面: ひだりハふしミみち
と刻んであります。
左に行くと伏見・宇治に行く伏見街道
右が東海道で京都に行きます。

写真 緑色の標識に "京都市|大津市" と書いてあります。旧東海道が現代の県境になっています。

写真左:逢坂峠方向を望む
写真右:京都方向を望む


山科盆地北西端の道
天智天皇陵の参道入口を越えると,道が判り難いのですが国道143号線と斜めに接続した細い住宅街の道になります。山科盆地の北西端の麓を通る道が続きます。なんて事ない道ですがどことなく懐かしい感じがします。


京都市街
国道143号線(三条通り)に合流して東山ドライブウェイの入口付近で峠を越えるといよいよ京都盆地に入ります。地下鉄東西線 蹴上駅付近から京都市街が見え始めます。

道を下り ウェスティン都ホテル京都 付近で西に曲がると後は三条大橋まで一直線です。
比べるのも躊躇する比喩ですが,この時の気分はまるでマラソンランナーが競技場のトラックに入った時の様な高揚感と疲労感と達成感が入り混じった様な気持ちではないかと思います。

写真左:地下鉄東西線 蹴上駅付近
写真右:仏光寺本廟


写真左:平安神宮大鳥居
写真右:白川橋より白河下流方向を望む


京都三条大橋
太陽が西に傾くなか三条大橋ゴールです。
体は疲れているのに言いようもない高揚感が感情を支配しています。

鴨川の水面が西日を受けてキラキラ輝いています。
京都は修学旅行で訪れてから何回か訪れていますが,歩いて訪れるのは格別の感慨があります。

エピローグ

変則的な歩き方でしたが中山道を完全踏破しました。
京都三条大橋へは私が在住する新潟県長岡市から長岡街道-北国街道-北陸街道-中山道と歩いて京都三条大橋まで到達しました。

北陸街道の歩きが終わった後,日本橋からスタートして中山道を歩いてみたくなりましたので,2017年11月,2018年6月,2018年7月の3回に分けて中山道を歩きました。2018年7月13日に北陸街道と中山道の結節点である鳥居本宿まで到達しましたので変則的ですが中山道は歩き終わりました。

まさに山あり川あり谷あり,時には豪雨に見舞われた日もありましたが,終わると全て楽しい思い出に変ります。


END

2018/8/24 一部内容修正
2017/7/29 作成

Column


広告

広告

広告