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電子足跡:旧東海道歩き旅
 島田宿から大井川を越して掛川宿へ
   駿河国から遠江国に入る道


プロローグ
 

旧東海道をJR六合駅から島田宿を通り東海道の難所 大井川 を越して金谷宿、掛川宿まで歩いたページです。大井川は駿河国と遠江国の国境(くにざかい)でした。

大井川を渡り金谷宿を越すと山中の道になります。この区間は新しい道路は旧東海道を迂回して敷設されたので、旧東海道の雰囲気が色濃く残った道が尾根づたいに続いています。金谷宿を越えた付近から間宿菊川付近までは江戸時代そのものと思える石畳の道が続いています。
眺望の良い尾根づたいの道からは広大な茶畑が広がり、そして、広重の東海道五十三次 日坂 佐夜ノ中山 に描かれた 夜泣石 があった場所を通ります。

歩きデータ
都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS移動距離
静岡 JR六合駅-JR掛川駅 島田宿,大井川,金谷宿,金谷坂の石畳,菊川坂の石畳,菊川宿,久延寺,夜泣石,小夜の中山,日坂宿,掛川宿 2022/11/17 23.1㎞


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ツアーする方法


島田宿
 

いったい、このホームページを作っている人は何歳なんだろう?と思うかもしれません。
島田宿と聞くと、『♬あなたのリードで島田もゆれる チークダンスの なやましさ ・・・』(芸者ワルツ 作詞:西城八十 、作曲:古賀政男) という歌を思い出します。

女性の日本髪と云えば、島田髷を思い出すくらいポピュラーな髪型です。諸説あるようですが、島田宿は島田髷の発祥地とされています。

島田市街


島田宿獨案内 嘉永7甲寅年(1854)
幕末頃の島田宿の家並み。街道に沿って民家が並び、賑わっていた様子が分かります。
五街道細見の島田宿のところには、町の長さ7丁餘(約763m) 家の数230軒 と記述されています。

街中に掲示されていた、島田市教育委員会  島田宿・金谷宿史跡保存会 だ設置した案内板の画像を使用させて頂きました。

塚本家
九州肥前(長崎県)の大村藩によって建てられた家で、上段の間が現存しているそうです。
大村藩の参勤交代やゆかりのある武家が大井川を渡るとき、川越の準備や手続き代行などを行ったそうです。

大井川

いよいよ大井川に来ました。
説明するまでもないですが、『越すに越されぬ大井川』です。
大井川は駿河国と遠江国の国境でした。

川越遺跡
大井川の東側のかつて川会所、番宿などが在ったところを史跡として保存しています。
右の写真は番宿で川越人足の詰所です。川越人足は1番から10番までの組に分かれそれぞれの番宿で待機していました。


川会所
川の深さや川幅を測り川越料を決定したり、或いは川止めの決定を行ったり、川越業務の管理運営を行っていたところです。


渡し賃
川越人足一人あたりの料金でその日の川の深さで料金が変わり、更に川幅が広いときは2文刻みで料金が加算されたそうです。蓮台(おみこしの台の様なもの)に乗る場合は川札4枚と台札(川札2枚分)の計6枚必要でした。
弥次さん北さんは川止め明けの大井川に着いて、川越人足に蓮台二人で800文(約24,000円)と吹っ掛けられています。
時代により値段は変動したとは思いますが、比較するのも変ですが、現在のバスやタクシー料金と比べても随分と高額な感じがします。

また、当初、川越人足は、島田、金谷で合わせて700名と定められていましたが、幕末には島田、金谷合わせて1300名を超えてていたそうです。

大井川の川留め
川留めは2~3日くらいが一般的だったらしいのですが、最高で28日間川留めが続いた記録が残っているそうです。
28日と云えば、当時の人達であれば江戸と京都を往復できる日にちです。

大井川
写真ではその川幅が伝わらないと思いますが、東岸の渡し場と西岸の渡し場の距離はおよそ1.1㎞あります。


歩いたのは11月中旬ですので水量が少ない季節です。現在では治水が進み水量も昔ほど多くないと思いますが、河原には大きな流木が折り重なり、重機で流木をかたずけていました。大水の時はどれ程の流れになるのか想像すらできないです。


安藤広重 東海道五十三次之内 島田 大井川駿岸
広重の浮世絵も大井川全体を描かず、駿河側の河原のみを描いていて、逆にその広さをより誇張しているような構図です。

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1902623
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/44

現代はかつての渡し場の少し上流に大井川橋が架かっています。そちらを渡って駿河国から遠江国に入ります。


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金谷宿
 

遠江の国に入りました。

安藤広重 東海道五十三次之内 金谷 大井川遠州
島田宿と対をなす様に大井川の西岸(=遠江国)を描いています。

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1902623
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/45


金谷宿側も島田宿側と同じ様に川会所や番宿が在ったのですが、金谷宿側は渡し場の面影はありませんでした。

写真左:金谷宿川越場跡
写真右:かつて川会所、番宿などが在った付近


金谷宿の中心地に入る前に、SLが走る大井川鉄道本線の新金谷駅付近の踏切を渡ります。大井川鉄道本線は金谷駅が始終点の駅です。

金谷宿の家並み
金谷宿は大井川西岸から少し離れた、山に差し掛かる様な場所に立地しています。家並みは緩やかな坂道の両側に続いています。古い建物がある訳ではないのですが、街並みが何処となく宿場町だった頃の雰囲気が残っています。

金谷宿佐塚本陣跡
五街道細見には金谷宿の本陣は "佐塚左二右衛門" と書かれています。
現在は跡地に本屋さんが在りましたが、本屋さんの名前が佐塚書店ですので、子孫の方がいらしゃるのだと思います。
過去帳を見ると先祖の戒名は分かる場合はありますが、俗名が古文書に残っていて先祖の名前が分かるというのはなんか羨ましい感じがします。


金谷宿柏屋本陣跡
柏屋本陣は島田市役所の金谷南支所になっていました。


金谷宿一里塚跡
江戸へ53里の一里塚です。
金谷駅手前の東海道本線と大井川鉄道本線のガード下を潜り抜けます。


大井川西岸の山道

広重の浮世絵を見ても分かる様に大井川の西岸は山塊が迫っています。
ガードを越えると登坂がきつくなってきます。

東海道中膝栗毛では、北八さんは駕籠に乗り、弥次さんは歩いてこの道を進んでいます。

かなや坂
五街道細見の金谷宿のとなりに "かなや坂" と書かれています。
おそらくここから続く登坂が "かなや坂" と云われていたのだと思います。

石畳の道
坂の途中で旧東海道は新道と交差します。この場所から間宿 菊川に行くまで峠を越すのですが、途中アスファルトの道になる所もありますが1.5㎞ほどの間に石畳が残っています。
旧街道で石畳と松並木を見ると一気にテンションが上がります。
かなや坂の石畳


峠の上は舗装されていますが、しばらく平坦な道が続きます。道の両側には茶畑が続いています。

菊川坂の石畳
平坦な道が終わると下り坂になります。一部分と思いますがこの石畳は江戸時代の石畳が残っています。
東海道中膝栗毛では、北八は駕籠に乗ってこの坂道を越します。駕籠が菊川の坂にかかると巡礼が2~3人、巡礼と北八がやり取りしていると駕籠の底が抜けて駕籠から落ちてしまいます。北さんが落ちた場所はこの付近のはずです。

右側の写真に人影が写っています。地元の方達が街道を整備していました。有難い事です。


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間の宿 菊川

一般的に間の宿は宿場と宿場の中程にあり、旅人や馬子・人足の休憩の為に置かれました。普通は宿場間の距離が3~4里(約12~16㎞)くらいのときに間の宿を置きますが、金谷宿と次の宿場の日坂宿の間は1里24町(約6.2km)でしたが、道が険しかったので菊川に間の宿を置いたそうです。


伝説 小夜の中山夜泣石

幾つか似た様な話が伝わっていますが、説明板に記載されていた話はおよそ以下のようです。

 "小夜の中山に住むお石という女が、ここを通りかかったとき、腹が痛くなり、丸石の所で苦しんいると、轟業右衛門という者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っている事を知ると殺して金を奪って逃げ去った。
この時お石は懐妊していて、傷口から子供が生まれたが、女の魂がそばの丸石にのり移り、丸石は夜ごと泣いたそうです。その石は "夜泣石" と云われる様になりました。
一方、傷口から生れた子供は音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者になり、大和の国の刃研師になりました。
そこに、轟業右衛門が刃を研ぎに来て、刃こぼれがあったので、音八が問うと、「昔、小夜の中山で妊婦を切り捨てた時に石にあたった。」と言ったので、母の仇と分かり、仇を討った。との事です。"

下の広重の浮世絵に描かれている様に、夜泣き石は元々は旧東海道の路上に在りましたが、現在は旧東海道沿いの久延寺の境内と、国道1号線の小夜の中山トンネルの手前と2つあります。

写真左:久延寺
写真右:久延寺境内にある夜泣石


久延寺の隣にある 子育飴のお店。
五街道細見には名物として "あめの餅" の記載があります。
久延寺の和尚が赤子を飴で育てたという伝説に基づいて売り始めたのでしょう。弥次さん北さんも名物の白餅に水飴をくるんだ "あめの餅" を食べています。

安藤広重 東海道五十三次之内  日坂 佐夜ノ中山
東海道お道の真ん中に夜泣石が描かれています。

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/46

本来夜泣き石が在った場所は広重の浮世絵の様に坂道の下にありました。
久延寺からは西に1.8㎞ほど離れたところです。
説明板には、『明治元年までこの道の中央にあったが、明治天皇が東京に移るときに道脇に寄せられ、その後明治初年東京で博覧会があったときに出品され、帰途現在の位置に置かれた。』と書かれています。

夜泣石が在った現在の坂道。
車が置いてある手前付近にありました。
けして名所や絶景という訳ではないですが、200年近く前に描かれた浮世絵と同じ場所に立つ事が出来るというのは、ジワリと感動します。
それにしても、江戸時代と地形はそれ程変わっていないと思いますが、広重の浮世絵は随分とデフォルメして描かれているのが分かります。

広大な茶畑が広がっています



金谷宿からここまでの区間には随分と広い茶畑が広がっていました。
以前 静岡で何故こんなに茶葉が栽培されるようになったのかという話を聞いた事があります。
大井川の川越人足と関係があって、明治になると大井川にも橋が架けられ、
千数百人居た川越人足は失業する事になりました。現代で云えば地方の1000人以上従業員が働く企業が倒産した様なものです。
その失業した川越人足達の多くが広大な茶畑を経営する様になったので茶畑が開発されたとの事です。
川越で鍛えた体力が有ったので、茶畑を新たに開墾する事も可能だったのではないかと思います。アントニオ猪木ではないですが『元気があれば、何でも出来る!』、人は何があっても生活していくものだと思いました。という話を知ると、お茶の 香り と ほろ苦さ がより際立つ様に感じます。


広大な茶畑から日坂(にっさか)宿に至る道は山の中の道です。アスファルトで舗装されていますが、江戸時代そのままの道ではないかと思える様な風情がある道です。ここは日坂宿手前の沓掛という地名の場所です。





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日坂(にっさか)宿


日坂宿は山間の小さな盆地のような所にある宿場です。所々にかつて旅籠だった建物が残っています。
天保14年(1843)の記録では、家数168軒、人口750人、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠33軒あったとのことです。

日坂宿本陣 扇屋
本陣門が残っていますが、母屋などの建物はありませんでした。
かつての敷地だったと思われる場所は広場になっています。どこまでが敷地だったのかは分かりませんが随分と広い敷地だったと想像できます。

写真左:脇本陣黒田屋跡


写真左:旅籠萬屋
写真右:旅籠川坂屋
  格の高い旅籠で、 檜を使い上段の間があるそうです。


掛川宿
 

晩秋の日暮れは早いです。午後4時半頃には掛川宿の手前で日が沈んでしまいました。

写真左:掛川市鳴滝 馬頭観音の夕暮れ


掛川市街に入った頃には、夜のとばりが下り、居酒屋さんの灯りに惹かれて 『ちょっと一杯』という気持ちをこらえて掛川駅まで歩いて今日の行動は終わりです。長距離歩いた事がある方は分かると思いますが、歩き終わるとキンキンに冷えたビールが無性に飲みたくなります。


掛川宿は次のページにも掲載します。


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エピローグ
 

旧東海道の難所 大井川 を越しました。越したと云っても現代では橋を渡っただけですので難所という感じは全くしません。

何故、大井川に橋が架けられなかったのか? という事なのですが、勿論、学校で習う様に江戸幕府の防衛上の理由もあった訳ですが、それであれば舟渡にしても目的を達する事が出来るにもかかわらずそれもしませんでした。

インターネットの記述を読むと、
ひとつの理由は1㎞ほどの川幅で急流だった為に架橋が難しく、架橋しても急流の為メンテナンス費用が掛かる、或いは大水のときは橋が流される為その都度莫大な費用が必要だった。ですがこの理由であれば舟渡にしてもよさそうです。

もう一つは、時代にもよりますが、川越人足は島田・金谷を合わせて700名~1300名存在し、天保14年(1843)には島田宿6727名、金谷宿4271名の人々が暮らしていたそうです。
この地域に住んでいる人達の1割ほどが川越人足だったという事であり、川越人足の家族およびその人達の衣食住も考えると、この地域の一大産業だった事になります。橋を架ける、舟渡にするという事はこの産業が無くなるという事であり、川越人足の失業問題や地域の経済失速が大きな課題で橋を架けたり舟渡にしなかった大きな理由と書かれていました。
複数の理由があって橋を架けなかったのだと思いますが、学校で習う様な防衛上の理由だけでは無かったようです。

本文中にも書きましたが、明治になって架橋された後、失業した川越人足達が茶畑を経営する様になり、お茶がこの地域の一大産業になった事は示唆に富む話だと感じます。

END

2023/07/30 作成


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