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電子足跡:旧東海道歩き旅
 三島宿から由比宿へ
   箱根路から一転して駿河湾沿いを歩く道


プロローグ
 

旧東海道を三島宿から沼津宿、原宿、吉原宿、蒲原宿、由比宿と2日間かけて歩いたページです。

 この道は駿河湾沿いに続く道です。ですが街道からは意外と海 を見る事はできませんが、空や空気に海を感じながら歩く事が出来ます。
 三島宿を過ぎると、源頼朝が平家追討の兵をあげたとき、奥州平泉から駆け付けた義経と初めて対面した八幡神社の境内では対面した時に腰かけた石を見る事ができます。
吉原宿付近では富士川の戦いがあった場所も通り、800年以上前の源平合戦に思いを馳せる事ができます。
 また、蒲原宿、由比宿は古民家も残り、宿場の雰囲気を感じる事ができます。


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歩きデータ
都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS移動距離
静岡 三島広小路駅-JR吉原駅 三島宿,八幡宮(頼朝・義経対面石),沼津宿,千本松原,原宿,元吉原,田子の浦 2022/06/02 22.9㎞
静岡 JR吉原駅-JR由比駅 左富士,源平合戦 富士川の戦い,吉原宿,富士川,岩淵間宿,岩淵一里塚,蒲原宿,由比宿 2022/06/04 20.6㎞


GPSログをGoogleEarthで
ツアーする方法

三島宿

東海道中膝栗毛の弥次さん北さんは、三島宿では、箱根から下る道すがら、子供が持っていた "すっぽん" を宿で料理してもらおうと買い取って、道中で知り合った 十吉 と三人連れで三島宿の旅籠で宿泊する事となりました。弥次さん北さんはそれぞれ飯盛女に添い寝をしてもらい夜も更けていきました。
そこに、忘れていたすっぽんが北八の夜着に入り込み、指に噛みつき、大騒ぎ。その騒ぎに、同宿した 十吉 が 弥次さんが布団の下に入れて寝ていた路銀が入った胴巻きから財布を抜き取り夜明け前に出立。
すっぽんに噛みつかれるは、路銀は盗まれるわの、踏んだり蹴ったりの大騒動で三島宿を出立しました。


私は家並みの間から富士山が見える,良く晴れた爽やかな朝から歩き始めました。

宝池一里塚

日本橋から29番目の一里塚です。三島宿を過ぎて、柿田川湧水群のそばの宝池寺に在ります。道路を挟んで隣の玉井寺にも残っています。2つ合わせて伏見一里塚と云われています。
長年、風雨に晒されて原型が損なわれた為,昭和60年に原寸通りに復元されました。
右側の写真は一里塚越しに富士山が見えています。


八幡神社  源頼朝・義経 対面石

有名な話ですが、治承4年(1180)平家追討の軍を起こした源頼朝は、関東・伊豆を平定して、10月、富士川まで進軍した平家を迎え撃つため、この地、黄瀬川八幡に本陣を張りました。
兄頼朝の挙兵を知った義経は奥州平泉から駆け付け、この境内で涙ながらに対面し、平家打倒を誓い合いました。
この時は、後に起こる悲劇は知る由もありません。
対面石は社殿の隣りの奥に在ります。




長沢の松並木


八幡神社から直ぐ黄瀬川の手前に僅かな区間ですが南側に松並木が残っています。
そして、この付近からは富士山が奇麗に見えました。



沼津宿
 

下の地図は沼津市役所観光課が設置した案内板に掲載されていた地図です。
左は現在の地図に沼津城の縄張りをオーバーレイした地図。
右は東海道分間延絵図(東京国立博物館蔵  現代の地図に合わせる為に必要な部分を切り取り南北を合わせる為に回転しています。)
旧東海道は狩野川の北側の川岸に続いている事が分かります。

私の不勉強を晒すようですが、沼津が城下町だったというのは意外でした。

安藤広重 東海道五十三次之内 沼津 黄昏図


出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/32

この浮世絵は、おそらく、狩野川のほとりに続く細道の向こうに沼津宿が見えている風景と思います。


川廓通り
川廓通りは、上の地図のゆるくカーブした通りの名称です。
東側の狩野川と沼津城の堀に挟まれた部分の東海道です。
ここは狩野川の船運の中心地で人々や物資が行きかう場所でした。

"五街道細見"の沼津のところには、
『三枚橋より舟にて江尻へ7里。船賃は一人五疋。東風の吹く時はよし、その外は乗りにくき所なり。』
と書かれています。
ここから船で江尻宿まで行く旅人もいたのでしょう。

三枚橋城外堀跡
現在の御成橋西詰付近です。
三枚橋城と沼津城の関係がいまいち分からないのですが、元々は武田勝頼により三枚橋城が築城され、江戸時代になり一度廃城になったあと、再度築城された城が沼津城という事のようです。かつての外堀は埋め立てられて、城下町だった頃の痕跡は消え失せています。

沼津本陣跡
沼津市本町に本陣・脇本陣が集中していました。
"ちゃんと歩ける東海道53次東"には本陣3軒、脇本陣1軒が記載されています。

写真左:高田本陣跡
写真右:中村脇本陣跡


清水本陣跡


沼津藩領境榜示(りょうさかいぼうじ)
沼津宿の本陣が集まる本町から直線距離で西に1.7㎞ほどの場所が沼津藩の藩境でした。
この榜示杭は明治末期頃に折られて下半分は消失しています。

千本松原の風景

海沿いの旧街道を歩いていても、家並みや防波堤などに遮られて海を見る事が出来ない事が多いです。

今、歩いている道のほんの500m南は、駿河湾です。少し旧街道から離れて、弥次さん北さんも見た景勝地として知られている千本松原の海を見ました。

  この景色見ては休まにやならの坂
     いざたばこにや千本の松
     北八
駄洒落の狂歌だそうですが、現代人の私には何をどう駄洒落たのか見当もつきません。
調べると、近くに "ならの坂" と云う坂があり、"やすまにゃならない" と "ならの坂" をかけているそうですし、
『たばこにや本の松』は "たばこにせん" と をかけているそうです。





原宿
 

広重の浮世絵を見ても分かる様に、原宿はその名の通り、愛鷹山の麓から駿河湾の海岸の平地に開けた宿場です。

写真左:原宿の家並み
写真右:原宿渡邊本陣跡付近
 渡邊本陣は源頼朝の異母弟で義経の同母(常盤御前)の兄の阿野全成の末裔が代々襲名して、問屋/年寄/名主を兼ねたそうです。阿野全成は2022年のNHK大河ドラマ "鎌倉殿の13人" では憎めない感じの僧侶を新納慎也さんが演じています。
さらに、本陣裏手に徳源寺というお寺が在るのですが、徳源寺は源頼朝の富士の巻狩のときに陣を敷いたお寺だそうです。


安藤広重 東海道五十三次之内 原 朝之富士

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/33

原宿付近で撮影した富士山の写真を掲載したいところですが、富士山は雲に隠れてしまいました。

元吉原

吉原宿の手前ですが、吉原宿は鎌倉時代はじめ頃、この付近に見附が置かれ往来する人々を改めてていました。南北朝~戦国時代になると吉原湊が軍事・商業の観点から重要視され宿場・湊町として栄えました。しかし、高波や飛砂の害がひどいため、天文年間(1532~1554)に現在のJR吉原駅の北側の鈴川・今井地区に移転しました。
家は建て替わっていますが、微妙にカーブした道筋が旧街道だったと思わせてくれます。

ところが、元吉原は寛永16年(1639)の大津波で壊滅的な被害を受け、さらに内陸側の現在の岳南鉄道の吉原本町駅付近に移転を余儀なくされました。

今日はJR吉原駅まで歩いて行動は終わりです。
JR吉原駅は 田子の浦港 が直ぐそばに在ります。
田子の浦 と云えば、

  田子の浦ゆうち出でてみれば
    真白にぞ富士の高嶺に雪は降りつつ   山部赤人


それで、そばに在る小高い丘の "富士と港の見える公園" に行ってみました。残念ながら富士山は雲のなかでしたが、頭の中では雪を頂いた雄大な富士山をイメージしました。




中吉原

日にちは変わり、JR吉原駅からスタートです。

左富士
前述の様に吉原宿は移転を繰り返し、元吉原、中吉原、吉原と宿場の場所が変わっています。元々旧東海道は東西にまっすぐに続いていたのですが、上記の理由でこの付近は大きくカーブしています。
西に向かって旅をすると、富士山は右側に見えるのですが、この区間は左側に富士山が見える様になります。
この日は生憎、曇りで富士山を左に見る事は出来ませんでしたが、名残の松が残っていました。


左の写真は富士市文化振興課が建てた説明板に描かれていた地図です。

安藤広重 東海道五十三次之内 吉原 左富士

安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/34

源平合戦 富士川の戦い
良く知られた話ですが、治承4年(1180)、進軍してきた平家を迎え撃つべく源頼朝軍は、この付近に着陣し、水鳥が飛び立つ羽音に驚いた平氏は源氏軍の夜襲来と思い、戦わずして逃げ帰ってしまったと云われている場所がこの付近だとの事です。
現在では、流路も変わり、小さな川が流れているだけでした。

平家越の碑


鳥が西に向かって飛んで行くのを見ました。もしかしたら、治承4年(1180)に水辺から飛び立った水鳥達の後裔かもしれません。営々と続く命です。

吉原宿

朝早かったので人通りは少なかったですが、現在、吉原宿は富士市の中心地になっています。

写真右:本陣跡付近


旧東海道の碑
宿場の中心地を少し過ぎた、市役所が在る付近です。
旧東海道は国道139号線などに分断されています。
旧東海道が通っていた事を記念してこの碑が作られたそうです。
写真の細長い石材2つは、ここから350m程離れた場所の石橋で使われていた石材だそうです。五街道細見には『吉原より富士川まで小さき石橋多くあり、数53といふ。』と書かれています。今では想像も出来ませんが、かつてこの付近は大きな沼地で小さな川が無数に流れていたのだと思います。

富士川

勿論、かつては舟渡でした。渡し場の碑が水神社の境内に建っています。渡船場は3か所あって、その時々で流れが穏やかな所を使ったとの事です。


現代は富士川橋を渡ります。
五街道細見には『東海道第一の早瀬』と記載されています。


河岸には富士山から流れ出た溶岩の露頭が見えます。


北八・弥次さんは三島宿で路銀を盗まれた為、富士川を徒歩渡りで渡っています。

  ゆく水は 矢をいるごとく 岩角に
    あたるをいとふ ふじ川の舟   弥次郎兵衛


左の写真は、すぐそばの 道の駅 富士川楽座 から見えた富士山です。

富士川西岸

富士川橋を渡ると西岸は、身延山地の端を回り込む様に道が続いています。この付近は岩淵、中之郷、小池と続いて蒲原宿に至ります。これまで歩いてきた平地の道から雰囲気が変わり山の麓に続く道になります。


小休本陣 常盤屋
元々は旧東海道は富士川の河岸付近を通っていたのですが、度重なる洪水に見舞われて道の付け替えが行われました。宝永4年には富士山の噴火、それに伴う地震で家並みは壊滅的な被害を受け、高台に移転する事になり、現在残る道筋になったそうです。
岩淵付近は東海道と身延道が交わる場所で間宿として発展し、富士川が川止めになった場合の宿泊地としても機能したと思います。

岩淵の一里塚
街道がほぼ直角に曲がる枡形のような場所に両塚とも残っています。


蒲原宿手前
小高い麓の道を下って蒲原宿に向かいます。確証は無いですが、この坂は "七なん坂" と云われていた坂だと思います。
駿河湾が眼下に広がっています。


安藤広重 東海道五十三次之内 蒲原 夜の雪

安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/35
この浮世絵はどこから見えた風景なのか?という事なのですが、小高い所に雪が積もった東海道を描き、後ろに蒲原宿の家並み、更に背景に山が描かれているので、構図からして "七なん坂" 付近から見えた風景なのかなとも思いますが、そもそも広重はかなり想像逞しく書いているので、そうかどうかは定かではありません。

蒲原宿
 


蒲原宿は所々趣のある家屋が残り風情のある街並みです。

写真左は商家佐野家 なまこ壁と塗り家造りです。


西本陣(平岡本陣)

蒲原宿には本陣が2軒ありました。こちらは西の本陣です。

東海道中膝栗毛には、ちょうど大名行列が到着し配膳やら何やらでごった返す本陣に、路銀が無い北八さんが本陣に紛れ込んで大名行列の一行を装って食事をする場面が描かれています。
東本陣なのか西本陣のどちらに紛れ込んだのかは書かれていません。そもそも創作ですけれど、活き活きとした描写に、もしかしたら現実にあった事か?と思ってしまいます。

旅籠 泉屋(鈴木家)
天保年間(1830~44)に建てられた上旅籠だった建物です。安政大地震でも倒壊をしなかったそうです。現在は2間分がお休み処になっています。



注:安政大地震は安政年間(1854~1859)に発生した複数の地震ですが、その中のひとつは、現在で云うの南海トラフを震源とする地震です。

五十嵐歯科医院(国登録文化財)
大正時代に町家を洋風に増改築した建物で、外観は洋風、内部は和風と云うユニークな建物です。

五十嵐歯科医院の隣の町家


志田家住宅(国登録文化財)
元々は味噌・醤油の醸造を営む商家で、安政の大地震直後に再建された建物だそうです。現在は東海道町民生活歴史館として公開されています。昔建てられた家に入ると太い柱と梁に驚かされますし、何と云うのか、身体に優しい、少し涼しく、しっとりとした空気感を感じます。



説明を聞きながら見学させて頂いたのですが、お話を伺っていたら、お名前は志田威さんとおっしゃり、志田家の後裔の方でした。
更に驚いたのは、志田さんは"東海道町民生活歴史館"や"東海道57次・中山道67次交流館"の館主を務めている方で、"東海道57次"という書籍も出版されている方でした。
"東海道57次"とは、一般的には東海道は53次と云われていますが、豊臣家が滅亡して大坂を完全に掌握した後、山科の髭茶屋追分から大坂に向かう伏見街道を整備して、伏見-淀-枚方-守口の4宿を置き、東海道を大坂まで伸ばして幕府が管轄し57次の街道としたと書かれています。

単に旧東海道の観光案内ではなく、歴史的背景や根拠となる史料なども紹介されていて興味深い書籍です。
私も本ホームページを書くにあたって参考にさせて頂いています。

さて、弥次さん北さんは、路銀が無いので宿場外れの木賃宿に泊まり、夜更けに木賃宿の娘を夜這いしようとするも、簀の子(すのこ)を踏み抜き仏壇の中に転げ落ちるという失態を演じて、宿場を後にしました。

由比宿
 

由比宿は、赤石山脈と云うか、身延山地と云うかが駿河湾に切れ込む、山と海の僅かな平地に出来た宿場です。
本陣跡をはじめ、風情のある建物と宿場の雰囲気が残っています。また、由比は桜えびで有名です。水揚げ港の由比漁港は由比宿のそばです。

下の写真は空き物件の宣伝ではなく、家並みのすぐ裏手は海です、という説明の写真です。


由比本陣跡
母屋などは残っていませんが、写真の本陣門、木塀、馬の水飲み場などが残っています。敷地内には 東海道広重美術館 が在り、広重の作品を展示しています。




正雪紺屋
慶安4年(1651) "慶安の変" と云われる、江戸幕府の転覆を企てた、由比正雪の実家とされる建物です。染物屋を営んでいました。ただ由比正雪の出自には諸説あるので定かではありません。







JR由比駅まで行って今日の歩きは終わりです。
明日は、安藤広重の海から続く断崖の奥に富士山が見える浮世絵で有名な薩埵峠(さったとうげ)を越します。

エピローグ
 

三島宿から由比宿まで2日間かけて歩きました。箱根を越えると、心なし気持ちが軽くなり、どことなく脚も軽い感じがします。私が歩いた日は天気は良かったのですが、生憎 富士山は雲に隠れている時間が多かったです。

八幡神社の "源頼朝・義経 対面石" "富士川の戦い" "頼朝の富士の巻狩"など鎌倉時代初期のエピソードも感じながら歩く事が出来ました。

END


2023/06/25 作成

Column


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