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電子足跡:旧東海道歩き旅
 藤川宿から池鯉鮒宿へ
  徳川家康生誕地 岡崎城下を通る道


プロローグ
 

このページは旧東海道を愛知県 藤川宿から池鯉鮒宿(知立)まで歩いたときのページです。
この道は徳川家康が産まれた、岡崎城下を通ります。街道筋からも天守閣を見る事ができました。有名な二十七曲がりの枡形や昔ながらの民家や八丁味噌の醸造所もあって良い風情でした。
また、藤川や池鯉鮒の松並木の中を歩いたり、面白かったのは矢作川の支流の乙川は100mくらいの川幅を徒歩(かち)渡りで歩いて渡った事です。

歩きデータ
都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS移動距離
愛知 名鉄名古屋本線藤川駅―知立駅 藤川宿、藤川の松並木、乙川の徒歩渡り、大岡越前守陣屋跡、岡崎城下、八丁味噌(カクキュー)、池鯉鮒の松並木、池鯉鮒宿 2023/03/21 23.4㎞


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藤川宿
 

季節は巡り、2023年早春です。昨年11月下旬に藤川宿で一旦切り上げて帰宅した歩き旅を藤川宿から再開です。

吉良道道標
藤川駅を出発してすぐ名鉄名古屋本線の踏切の手前の三叉路が吉良道との追分です。三河湾の吉良に通じている道です。風化が進んでいますが、"吉良道" と読み取れます。
吉良は三河湾に面した土地で塩田が有り塩の産地でもある事から吉良道は塩の道とも言われています。

少し脱線しますが、吉良と聞いて思い浮かべるのは 忠臣蔵の吉良上野介ですが、吉良家はその土地に出自を持つ家です。
吉良上野介は忠臣蔵であの様に描かれていますが、実際は名君と慕われていたというインターネットの記事がありました。芝居を面白くする為の脚色だったのではないかという感じがしますし、あのようなキャラクター設定で描かれたら当時は勿論、子孫の方達も肩身が狭いのではないかと思います。


藤川の松並木
吉良道追分を越えて直ぐ、名鉄の踏切付近から愛知県指定文化財に指定されている "藤川の松並木" が始まります。
およそ1㎞にわたり100本ほどの黒松が残っています。




その松並木の中に桜が咲いていました。春を感じます。


藤川宿から岡崎城下

美合新町付近の風景
名電美合駅付近の風景です。藤川の松並木を過ぎても名残の松が残っていました。


乙川は現代も徒歩(かち)渡りです
矢作川の支流の乙川(男川・大平川)は徒歩渡りでした。
ここは旧東海道のなかでもユニークな区間で、少しだけ往時の旅人になった気分が味わえます。
渡るのを少し躊躇しましたが、周辺を見ても渡河禁止の看板もなく、川の中程には簡易的な橋も架かっていたので、歩いて渡りました。
小さな川を歩いて渡った事はありますが、比較的大きな川を歩いて渡ったのは初めての経験です。安全を確保した上で残しておいてもらいたいです。
季節や天候により水量が多い時は安全を優先して、少し上流の大平橋を渡ってください。


秋葉山常夜灯
文化4年(1807)建立


大平町の道標
右面に "東海道" 左面に "つくて道" と刻まれています。
東海道はよいとして "つくて道" とは何か?という事ですが、おそらく ここから北東に直線距離で20㎞ほどの所に愛知県新城市作手 という地名があるのでそこに行く道ではないかと思います。


大岡越前守陣屋跡(西大平藩陣屋跡)
『大岡裁き』で有名な大岡越前守忠相(1677~1751) の領地の陣屋跡です。
大岡越前守忠相は旗本の家柄に生れ、8代将軍吉宗のもとで江戸町奉行として享保の改革を断行する原動力となりました。
ドラマで描かれる大岡裁きがどこまで史実かは分かりませんが、いろは47組の町火消の組織化、江戸防火対策の火除地の確保・瓦葺屋根とする建築基準の整備。目安箱・小石川養生所設置。金銀相場の改訂・通貨改鋳による物価安定策など幕府財政の立て直しを図りました。
寛永元年(1748)72歳の時に1万石の大名になり、この地に陣屋が置かれました。大岡忠相が藩主だったのは3年間で宝暦元年(1751)に亡くなっています。


大平一里塚跡
大岡越前守陣屋跡から直ぐに南塚が残っています。日本橋から80里の一里塚です。

岡崎城下
 

今年(2023)、NHK大河ドラマどうする家康で、なにかと話題になった岡崎城です。松平竹千代(徳川家康)が生れた城としても知られています。現在は大きな都市ですが、江戸時代も東海道随一の繁栄していた城下町・宿場ですが、現在も意外と当時の面影が残る建物や、道標などがありました。

岡崎城下 二十七曲り
多くの場合、城下町や宿場は防衛上の理由から意図的に道筋をクランク状に曲げて(枡形)見通しを悪くしますが岡崎城下はその枡形が27あったと言われています。(注:地図は伝馬町に在った説明板の地図を使わせて頂きました。)

この道筋は家康時代ではなく、家康が江戸に移封されたのち、豊臣家の家臣 田中吉政が城主となってから整備されました。元々東海道は岡崎城下の郊外を通っていたのを城下に引き入れ、27曲りも整備されていきました。枡形が防衛上の理由で設けられたことは良いとして、もう一つの理由は、枡形を多くする事で街道筋を長くして、街道に面して商家や旅籠を多く建てられる様にして経済効果を狙ったとも言われています。

岡崎宿東海道27曲り
ここが岡崎城下の東側の木戸があった場所なのかどうかは分からなかったですが、現在の若宮町に在ります。鏑木門の所に石碑があり27曲がりの由来とルートが刻まれています。


現在は 岡崎げんき館になっている若宮町2丁目の交差点が最初の枡形で交差点に "い" と書かれた標識が立っています。これ以後 各枡形に "ろ" "は"・・・ と続きます。


お茶壷道中碑
現在の伝馬通り2丁目の交差点付近にありました。
寛永9年(1632)に宇治茶を将軍家に献上することが始まり、家光は将軍の権威を示す為に、江戸に向かう茶壷の一行に威厳を持たせ、宿場では100人の人足を出し、お茶壷奉行をはじめ100人以上の行列をもてなすので宿場の負担が大きく、宿場から恐れられたそうです。

"ずいずいずっころばし" の童歌を子供の頃に聞いた方もいらっしゃるかと思います。歌詞の意味は諸説ある様ですが
     ずいずい ずっころばし
     ごまみそ ずい
     ちゃつぼに おわれて
     トッピンシャン
     ぬけたら どんどこしょ
     ・・・・・
『ちゃつぼに おわれて トッピンシャン』は お茶壷道中が来るので、家の中に入り戸をピシャリと閉めてやり過ごすというのが古典的な解釈でした。いつの世も、権威を笠に着る人達は居るという事ですね。

岡崎城下の家並み
街道筋の大半は近代的なビルに変わっていますが、所々 往時の風情を残す建物や道標などが残っています。


写真左:西本陣跡
写真右:東きょうみち・西京いせ道 ・きらみち 道標

写真左:籠田総門角常夜燈
写真右:岡崎藩校允分・允部館跡


岡崎城天守閣
せっかく岡崎に来たので岡崎城を見学しようと思ったのですが、岡崎城に続く道路は見学の車が渋滞していたのを見て、人混みのなかで見学するのも躊躇したので見学せずに城下町を歩きました。
下の写真は街道筋から見えた岡崎城天守閣です。


八丁味噌
八丁味噌は岡崎城から8丁(約870m)離れた八丁村で味噌造りを始めた写真のカクキューが創業したことに始ります。いつしか作られた味噌は地名に由来して八丁味噌と呼ばれるようになったとのことです。


周辺の街道筋にも趣のある家並みが残っていました。


矢作川


安藤広重 東海道五十三次之内 岡崎 矢矧之橋

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/59

矢作橋は、後に豊臣秀吉になる日吉丸と蜂須賀小六(正勝)が出逢った橋としても有名ですが、日吉丸と蜂須賀小六が出逢った時代には矢作川に橋は架けられておらず舟渡だったので、この逸話は創作であるとも言われています。

岡崎城下から池鯉鮒宿へ

矢作川を渡って西岸に来ました。

安城の松並木
国道1号線に沿って歩いて来た道を、安城市尾崎町で斜めに接続する旧東海道に入ります。僅かな区間ですが松並木が残っています。


安城市尾崎町
この熊野神社が鎮座する場所は多くの史跡があります。
写真左:熊野神社
写真右:一里塚跡 日本橋から83番目


鎌倉街道跡
説明板を見てどこが鎌倉街道跡なのか見渡しましたが分からず、仕方がないので説明板の写真のみの掲載です。

予科練の碑
この地は戦時中 第一岡崎海軍航空隊が在った場所で、予科練で海軍航空機搭乗員として訓練を受けた場所です。訓練を受けた多くの若者が航空特攻の搭乗員として戦地に赴いたことは想像に難くありません。
私は戦後の生れですので。戦前の教育が人の価値観や心にどの様に影響したのかは想像するしかありませんが、国の為に死ぬことが名誉な事だとは、どうしても思う事は出来ません。
ただ、年齢を重ね 妻・子供・嫁・孫に恵まれて、人並に生きてきた現在は、もし 家族が謂れ無く生活や生命を脅かされたらと想像すると、その時の自分の感情や行動が想像できる気がします。国を守ると考えると、それを想像する事は出来ませんが、家族を守ると考えると容易にそれを想像する事できます。

本然山永安寺  雲竜の松
尾崎町の史跡群から1㎞ほどの所に在りました。



庄屋の柴田助太夫は、村が助郷役を命じられたとき、村の窮状を訴えて免除を願い出ました。
助太夫は死罪になりましたが、村の助郷役は免除になり、その後も幕末まで免除は続きました。
村人は助太夫に感謝して、彼の旧宅に草庵を建て、後に寺として整えられ、彼の戒名 本然玄性居士と妻の安海永祥大師にちなんで、"本然山 永安寺" と名づけられたとの事です。

来迎寺一里塚 南塚
日本橋から84番目の一里塚です。
両塚ともに残っているのですが、写真は南塚です。

池鯉鮒宿
 

現在は "知立" と漢字表記していますが、江戸時代は "池鯉鮒" と表記していました。地名の由来はこの地に鎮座する知立神社に由来しているそうで、"知立" が本来の表記で、古代は"知立" "智立" と表記していたそうです。
鎌倉期以降になると"智鯉鮒"の表記される様になり、江戸時代には"池鯉鮒"が一般的になったそうです。
何故 "池鯉鮒" に変わったのかという事ですが、知立神社は低い土地に在り、池で獲れる鯉や鮒の産地で、池鯉鮒宿では美味しい鯉や鮒が食べられるという遊び心で池鯉鮒に表記が変わっていったとの事です。
注:上記の記事は 中日新聞 谷川彰英の地名に隠された名古屋の魅力【地名の由来15】「知立」が「池鯉鮒」と書かれたのはなぜ?  を参考に記載しています。

衣浦豊田道路の高架の下の歩道橋を越えるといよいよ池鯉鮒宿が近づいてきます。

池鯉鮒の松並木
高架下から西に500mほど松並木が続いています。


松並木が終わる付近に "万葉の歌碑" と "馬市之碑" が並んで建っていいます。

万葉の歌碑
馬市句碑
  かきつばた 名に八つ橋のなつかしく
     蝶つばめ 馬市たてしあととめて

万葉の歌碑
 引馬野に にほふはりはら いりみだれ
   衣にほはせ たびのしるしに

"引馬野" はこの付近の昔の地名で、二首とも馬に関わる内容を詠っています。

馬市之碑
池鯉鮒宿は街道に沿った細長い宿場で、毎年4月末~5月初めに宿場の東のはずれ付近で馬市が開催されていたそうです。池鯉鮒宿の中心地は現在の知立駅の北側付近なので、東のはずれは、この馬市之碑が在る付近だったのだと思います。

安藤広重 東海道五十三次之内 池鯉鮒 首夏馬市(しゅかうまいち)
広重 も古来から馬市がひらかれていた土地なので、馬市を題材にしたのだと思います。それにしても、草原の緑が初夏の爽やかな気候を上手く表現していると思います。
出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/60

池鯉鮒宿の家並み
現在の本町付近に本陣・脇本陣・問屋場などが集まっていました。残念ながら宿場の面影は希薄でした。




今日は知立駅まで歩いて終わりです。

エピローグ
 

4ヵ月ぶりに歩きました。3月下旬と云っても、私が住んでいる新潟県長岡市は冬は雪に埋まるので散歩もままならない状態です。
久し振りに歩くので脚が少々疲れました。ですが、早春に歩くのは気持ちが良いですし、所々、桜が咲き始めていて、気持ちも晴れやかになります。


END

2023/12/10 作成

Column


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