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電子足跡:旧東海道歩き旅
草津宿から小関を越えて京三条大橋へ


プロローグ
 

このページは旧東海道を琵琶湖西側の草津宿から小関を越えて京三条大橋まで歩いたときのページです。

江戸日本橋から歩いて来て、いよいよ最後の歩き、ゴール地点の京三条大橋までの歩きです。
東海道が中山道と合流する草津宿から、琵琶湖から流れ出る瀬田川に架かる瀬田の唐橋を渡り、膳所(ぜぜ)を少し過ぎた所には、木曽義仲と松尾芭蕉の墓所である義仲寺が在ります。そして琵琶湖水運で栄えた大津宿を通ります。
大津宿からは逢坂の関を越える道と小関を越える道の2つがあります。以前、中山道を歩いたときに逢坂の関を越えるルートを歩いたので、今回は小関を越えて京に行きました。

いつもの事ですが、今日でゴールと思うと、ゴールする事の嬉しい気持ち、明日から歩かなくてよいという安堵感、今日で終わりかと思う寂しさ、色々な気持ちが去来します。


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歩きデータ
都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS移動距離
滋賀/京都 JR草津駅-京阪本線三条駅 東海道・中山道追分、草津宿、瀬田の唐橋、膳所、義仲寺(木曽義仲/松尾芭蕉 墓)、大津宿、小関越え、山科、東山、京三条大橋 2023/03/30 25.6㎞


GPSログをGoogleEarthで
ツアーする方法


草津宿
 

昨日出逢った旧中山道の追分からスタートです。
五街道細見には 『町13丁餘 』 家『300軒餘』と書かれています。およそ1.4㎞続く街道筋に300軒の家が建つ宿場だった事が分かります。


 草津宿絵図 ←草津宿街道交流館の前に掲載されていた現代版の絵図が開きます。

草津宿本陣
中山道との追分を曲がるとすぐに草津本陣があります。公開されており、国指定史跡です。
説明板に掲載されていた昭和10年頃に撮影された写真と比べてみると現在の建物は当時と殆ど変わっていない事に驚かされます。


草津脇本陣
現在は "ベーカリー&カフェ 脇本陣"  になっていました。




立木神社
草津宿の江戸口の木戸は中山道との追分から江戸方向に行った、草津川を渡った所にありました。そこから13丁(約1.4㎞)京側に進んだ場所は立木神社付近になるので、ここは草津宿の宿場外れだった事になるのかと思います。
それにしても、桜が満開で良い季節に歩きました。



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草津宿から大津宿へ


矢倉立場
草津川を渡ってすぐの所に立場が在りました。この地は旧東海道の立場でもありましたが、琵琶湖の船湊の矢橋湊へ行く追分でもありました。矢橋湊からは大津へ行く船が出ていて陸路で行くより2里ほど近かったそうです。
広重はこの立場を描いています。

安藤広重 東海道五十三次内 草津 名物立場

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919.
国立国会図書館デジタルコレクション   https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/73


現在この地には瓢泉堂という瓢箪の製造・販売をするお店が建っています。
浮世絵の右端に旅人が2人描かれていますが、この道が琵琶湖の矢橋湊に行く道です。
驚くのは、瓢泉堂の右側に道標が残っているのですが、この道標は広重が描いた浮世絵に描かれている道標ではないかと思います。

道標には『右やばせ道 これより廿五丁 大津へ船渡し』と書かれています。


更に、浮世絵に描かれている様に、この立場には "うばが餅屋" がありました。うばが餅は現在でも製造・販売されています。売店で購入して食べました。歩き疲れた身体に優しい甘さでした。


野路の弁天池の桜


一里山付近の風景


一里山橋の桜


瀬田の唐橋
瀬田の唐橋は琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川に架かる橋です。瀬田川は途中から宇治川と名前が変わり、京都と大坂の府境付近の山崎で桂川と木津川と合流して淀川になり、大阪湾にそそいでいます。



瀬田の唐橋で思い出すのは、俵藤太(たわらのとうた=藤原秀郷) のムカデ退治の逸話と寿永3年(1184)に起きた木曽義仲軍と源範頼・源義経軍の戦いです。

宇治川の戦い
義仲軍と範頼・義経軍の戦いは 宇治川の戦いと云われていますが、主戦場はここ瀬田の唐橋です。
この戦いで朝日将軍と云われていた木曽義仲は敗走し、瀬田の唐橋から少し北の琵琶湖西岸の粟津の浜(大津市)に着いたとき、最期を悟った義仲は愛妾の巴御前に落ち延びるよう説得して別れます。そして義仲は矢が顔面を貫き討ち死にしました。
瀬田の唐橋は京が東から攻められた場合の最後の防衛線で戦略上の要衝の地でもありました。

膳所(ぜぜ)付近
瀬田の唐橋を渡って琵琶湖の西岸に来ました。
膳所とは不思議な地名です。五街道細見に『山王神事の日、此処より御供をそなへ奉る故に、膳所の名あるなり。いま略してぜゞといふ。』との記述があります。

義仲が討ち死にした粟津の浜付近を通って、暫く琵琶湖西岸を北上します。
膳所は琵琶湖に突き出た膳所崎に築かれた日本三大湖城と云われた膳所城の城下町でした。家並みは少しごちゃごちゃした感じがしますが格子状の町割りで、城下町の面影を感じる民家が所々に残っています。


写真左:膳所城城門


和田の浜
琵琶湖に架かる近江大橋のたもとに広がる浜辺で休みました。静かな湖面を見ていると心が落ち着きます。




義仲寺(ぎちゅうじ)


読みは "ぎちゅう" ですが、察しの通り木曽義仲を弔うお寺で義仲の墓があります。
一説には、粟津の浜で今生の別れをした巴御前が後年義仲を葬った塚の近くに草庵を結び義仲を供養した事が寺の始まりとの説があります。

写真左:巴塚(供養塚)
写真右:木曽義仲の墓


義仲の墓と巴塚は隣り合って建っています。


松尾芭蕉の墓
そして、そばには大坂で亡くなり、生前の遺言により義仲寺に葬られた松尾芭蕉のお墓があります。

  旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る  芭蕉
  木曽殿と背中合わせの寒さかな    又玄


元禄2年(1690) おくのほそ道の旅を終えた芭蕉は、その年の末に義仲寺に滞在し、その後幾度となく義仲寺を訪れています。

写真左:翁堂
写真右:芭蕉が使用していた椿の杖


私が訪れたこの日、NHKの番組で "おうみ発630" のロケをしていました。テレビのロケを見るのは初めてです。男女それぞれ1名づつのレポーターの方と義仲寺を説明する方1名、撮影クルーの方達が境内を廻りながら撮影をしていました。
私もミーハーなので撮影の邪魔にならない様に後をついて行ったのですが、撮影クルーの方から『撮影が邪魔になって見学できないですか?』と声をかけて頂きました。私は「説明を聞きながら見学できるのでむしろ好都合です。むしろ私が撮影の邪魔になっていませんか?」と答えて見学を続けさせて頂きました。
時々、TVでロケ風景を見る事がありますが、ロケをする方達がこんなに周りの一般人に気を使って撮影している事が新鮮な驚きでした。


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大津宿
 

いよいよ京までの最後の宿場です。
大津宿は琵琶湖水運の要で、往時も1500軒余りの家がありました。隣の草津宿は300軒ほどですのでかなり大きな町だった事が分かります。旧東海道沿いには往時の賑わいを彷彿とさせる家並みが残っています。

写真左:滋賀県庁庁舎




露国皇太子遭難之地
歴史の授業で習った記憶があります。この場所で明治24年(1891)訪日中のロシア皇太子を警備の警察官が斬りつけた事件がありました。



札の辻
江戸時代、幕府の法令を書いた高札が建てられた四つ辻です。また、この場所は東海道と西近江路の分岐点です。

京に行くには道が2つあります。ひとつはここで南に曲がり逢坂の関を越える道。もうひとつはまっすぐ西に向かい小関を越える道です。"小関"は逢坂の関を越える道が本道で大関と称し、裏道を小関と称した事に由来します。

安藤広重 東海道五十三次内 大津 走井茶店
走井茶店は大津宿の中ではなく、逢坂の関を越える峠道に在りました。

安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919.
国立国会図書館デジタルコレクション  https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/74


大津宿から京三条大橋へ


小関峠越え
以前、中山道を歩いて京都に行ったとき、逢坂の関を越えて行きました。一度歩いた道より、歩いた事がない道の方が興味を誘います。今回は真っすぐ進んで小関を越えて京都に行く事にしました。

 逢坂の関を歩くページはこちらをご覧ください。



石造小関越道標
小関越えの道と園城寺(三井寺)に向かう追分に建っています。説明板によると、

 右面に『左り三井寺 是より半丁』
 正面に『右小関越え 三条五条いまくま 京道』
 左面に『右三井寺』と刻まれています。

石柱に刻まれている三井寺は道標から北に半丁行った西国三十三所観音巡礼の第14番目の札所で 、"いまくま"は第15番札所の京都今熊野観音寺のとの事です。この道は巡礼の道でもありました。




小関越






琵琶湖疏水 第一トンネル出口


逢坂の関ルートとの出合い
大津で別れた逢坂の関ルートと、ここで再度出合います。



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山科付近



写真左:五条別れの道標
  五条/伏見方面に行く近道の道標


東山の登り道
山科を過ぎて東山の山塊を越すといよいよ京です。
疲れた脚には少々つらい登り坂です。


車石広場
平成9年にかつての車道(くるまみち)を再現した広場です。
説明板に書いてあったことですが、かつて東海道は幕末まで車の往来が禁止されていたのですが、大津‐京都 間は例外でした。往時から既に、人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道(くるまみち)は分けれれていて、車道には舗石が敷かれていたそうです。

写真では分かり難いですが、驚くのは、その車石が荷車の重さで削られ深い轍が出来ている事です。人の日々の生活の為に多くの物資が運ばれ、その重さの為に石をも穿って轍になるのは、日々の人の生活の重さと大切さを感じさせてくれます。


粟田口刑場跡
旧街道を歩いていると、多くの場合、宿場外れの街道沿いに刑場跡があります。東京では、鈴ヶ森刑場や小塚原刑場が知られています。粟田口刑場も例外ではなく往来の人達が行きかう場所にありました。
意外だったのは今歩いている道(三条通)の法面を登りかなり高い所に刑場跡が在った事です。現在は深い切通しに道が続いていますが、往時は写真の様に陸橋の高さ位の所に東海道が通っていたという事になります。


蹴上浄水場付近を越えると京都盆地に入り、京都市街が見えてきます。あと少しで京三条大橋ゴールです。



京都市街
 

ウエスティン都ホテルのカーブを曲がるとゴールの三条大橋までほぼ一直線 約1.5㎞です。

写真左:平安神宮
写真右:坂本龍馬・お龍 結婚式場跡


白川の風景


京三条大橋


三条大橋を渡って西岸の擬宝珠をゴール地点にしました。

安藤広重 東海道五十三次 大尾 京師 三条大橋


安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919.
国立国会図書館デジタルコレクション    https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/75


エピローグ
 

東京日本橋から、箱根峠を越え、大井川を渡り、鈴鹿山脈を越え、京三条大橋まで歩きました。およそ500㎞の行程を22日かけた歩き旅でした。


500㎞も歩いて何を言っているのかと思うかも知れませんが、高校生の時に修学旅行で初めて京都を訪れました。同級生の大半は初めて京都を訪れたはずです。
学校に帰ってからクラスで修学旅行の印象や想い出を話す時間があったのですが、少なからずの男子生徒は、自由行動の時に見た鴨川の河岸に多くのアベック(最近はカップルと言いますが、当時はそう言っていました。)が等間隔に並んでデートしていた光景が印象的だったと感想を話しました。担任の女性教師は呆れた顔をしていましたが、高校生で、身体は立派に成長した男子生徒にとっては、京都に代表される、歴史や、建造物や、絵画や、古典文学などより女生徒と付き合う事の方がはるかに関心が高く、その世代では最大の関心事だった事は間違いないです。なんとも健全な身体と精神状態だったのかと、この歳になると思います。


END
作成 2024/03/19


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