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電子足跡:旧東海道歩き旅
 関宿から鈴鹿峠を越えて水口宿へ


プロローグ
 

このページは旧東海道を三重県関宿から三重と滋賀の県境の鈴鹿峠を越えて土山宿、水口宿へと歩いたときのページです。

関宿は江戸後期から明治にかけて建てられた建物が多く残り、さながら江戸時代そのものの風景です。
鈴鹿峠は東の箱根峠と並び称される難所ですが、歩いた実感としては最後の方の上り坂がキツイ感じはしましたが、難なく峠を越えた印象です。
鈴鹿峠は伊勢国と近江国の国境で、現在でも三重県と滋賀県の県境です。国境を越えて土山宿に向かう緩やかな下り坂は、峠を越した安心感もありゆったりとした気持ちで歩けました。
土山宿も古民家が残り良い風情の家並みでした。昼食で蕎麦をいただいた、"民芸・茶房 うかい屋"は築150~170年の古民家を改装した雰囲気の良いお店でした。
水口宿は"三筋の町"とも云われ、旧街道でも珍しい旧東海道の道筋が三本に分かれている宿場です。

歩きデータ
都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS移動距離
三重/
滋賀
関西本線  関駅-近江鉄道 水口石橋駅 関宿、伊藤本陣、坂下宿、鈴鹿峠、伊勢国・近江国境石、万人講常夜燈、猪鼻立場、田村神社、土山宿、水口宿、三筋の町 2023/03/28 29.3㎞


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関宿
 

関宿は古代からの交通の要衝で、都が大和国 平城京に在ったときは 伊勢国 鈴鹿の関、美濃国 不破の関、越前国 愛発(あらち)の関。古代三関 と云われる関所のなかの、鈴鹿の関が置かれたところです。

江戸からは47番目の宿場で、1.8㎞ほどの街道沿いに、江戸時代から明治時代の民家が200軒も軒を並べています。






写真左:高札場
写真右:関地蔵院


伊藤本陣
現存しているのは、写真の街道に面している部分だけとのことです。下の広重の浮世絵は伊藤本陣を描いたと云われています。


安藤広重 東海道五十三次内 関 本陣早立

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919.
国立国会図書館デジタルコレクション     https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/68


西追分付近
東海道と大和街道の分岐点であり、関宿の西の入口です。
曲がって、大和街道に進むと加太峠を越え伊賀から奈良に行きます。

鈴鹿関について
鈴鹿関の名前は日本書記 壬申の乱(672年)にその名前が見えるそうです。
ですが、その正確な場所がどこなのか、敷地はどのくらいか、或いは構造はどうか? など鈴鹿関の全貌は分かっておらず、現在、調査・研究が進められているそうです。
インターネットに載っている『亀山市史 考古編 第7章 鈴鹿関跡』に詳しいのでご覧ください。

関宿から坂下宿へ

旧東海道は鈴鹿川に沿って続いています。


関町沓掛付近




沓掛地区の東南方向に筆捨山(標高285m)があります。
筆捨山は名勝として知られ、坂下宿の絵は多くが筆捨山を描いているそうです。
広重の浮世絵は谷を挟んで筆捨嶺を見る旅人が描かれているので、この浮世絵は沓掛付近から南東方向を見た構図ではないかと思います。

安藤広重 東海道五十三次内 坂之下 筆捨嶺

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919.
国立国会図書館デジタルコレクション    https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/69


坂下宿
 

五街道細見の坂下宿の記述は、
『坂の下に川ながれて宿は川ばたより続きてありけるを、九ヶ年以前庚寅のとし(慶安三年)うち続き大雨ふり、山くづれ家をうづみ、人多く損じたり。その時より今の宿は坂よりも七八町ばかり下にあり。』と書かれています。
(注:慶安三年=1650年)
大雨による土砂災害が発生して甚大な被害を被り、現在の関町坂下に新しく宿場を再建した事がわかります。

坂下宿家並み
五街道細見には坂下宿には200軒ほどの家が在ったと書かれています。また本陣は3軒在り、そのうち松屋は東海道第一の大家なりとも書かれています。
関宿は350軒と書かれていますので、関宿ほどでは無いにしろそれなりの宿場だったと思われます。
現在では移動販売車が来る様な状態ですので、過疎化が進み、その面影はあまりありません。




坂下宿から土山宿へ 鈴鹿峠を越える道

坂下宿を過ぎると、いよいよ鈴鹿峠への本格的な登り道が始まります。

鈴鹿峠



片山神社
かつては 『鈴鹿明神』『鈴鹿権現』 と呼ばれていました。社殿は露岩の脇に在りました。
この付近から、『鈴鹿坂八丁 二十七曲がり』 が始まり『東の箱根峠、西の鈴鹿峠』と云われた難所です。


鈴鹿峠の石畳


国道1号線の下に続く旧東海道
かつて "二十七曲がり"と云われた道を彷彿とさせる急登です。前を歩いているご夫婦に峠付近で追いついたのでお話を伺ったら、青い服を着た男性は御年80歳だそうです。




松尾芭蕉句碑
 ほっしんの
   初にこゆる 鈴鹿山


貞享2年(1685) 42歳の作



鈴鹿峠


鈴鹿峠最高地点
左の道は高畑山への登山道

三重県伊勢の国  滋賀県近江の国 境石
写真左:三重県側
写真右:滋賀県側 ここから滋賀県甲賀市土山です。


万人講常夜燈
江戸時代の中頃、金毘羅神社の常夜灯として建立。重さ38t 高さ5m44㎝。近隣の山中村、坂下宿、甲賀谷の人達3000人の奉仕で建てられたとの事。

・櫟野(いらの)観音道(大原道)道標
・鈴鹿馬子唄之碑
道標と馬子唄の碑は新名神高速道路の下にありました。
道標は以前は少し離れたところに在ったのですが、道路整備でここに移されたそうです。この付近から南西方向の甲賀に行く道があったそうです。


鈴鹿馬子唄之碑


(ハイ ハイ)
坂は照る照る 鈴鹿は曇る(ハイ ハイ) あいの土山 エー雨が降る (ハイ ハイ)    ※以下、掛け声同様
馬がもの言うた 鈴鹿の坂で お参宮上﨟(おさん女郎)なら エー乗しょと言うた
坂の下では 大竹小竹 宿がとりたや エー小竹屋に
手綱片手の 浮雲ぐらし 馬の鼻唄 エー通り雨
与作思えば 照る日も曇る 関の小万の エー涙雨
関の小万が 亀山通い 月に雪駄が エー二十五足
関の小万の 米かす音は 一里聞こえて エー二里ひびく
馬は戻(い)んだに お主は見えぬ 関の小万が エーとめたやら
昔恋しい 鈴鹿を越えりゃ 関の小万の エー声がする
お伊勢七度 おたがわ八度 関の地蔵は エー月参り
(注:歌詞は https://senshoan.main.jp/minyou/suzuka-word.htm  から引用しました。)

猪鼻立場

国道1号線が脇を通り、集落を通らなかったので僅かな区間ですが雰囲気の良い家並みが残っています。



猪鼻立場を抜けて、一歩 国道1号線に戻ると車が通り過ぎ、現代に引き戻されます。

あいの土山宿
 


鈴鹿馬子唄には
『坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 エー 雨が降る』
と謡われています。

"あいの土山" という事は土山は "間の宿" だったのかと思いましたが、そうではなく、定説は無いそうなのですが複数の説があるそうです。

1.相の土山説
 坂下宿と相対する土山宿という説

2.間の宿説
 土山が本宿に指定される以前は間の宿だった事から、土山宿は、坂下宿ほど繁栄しておらず、"照る"=栄える、"雨が降る"=さびれる と謡った。

3.鈴鹿の坂説
 峠の頂上付近に土山という土盛があったとする説。

4.間の土山、松尾坂説
 坂を鈴鹿の坂でなく、松尾坂とする説。(現在の白川橋上流辺り)
筆者注:土山宿は鈴鹿の坂と松尾坂の間に在ったので"あいの土山"と云われた。

5.藍の土山説
 藍染が盛んで藍草の栽培がおこなわれていたとする説。

6.鮎の土山説
 鮎漁漁が盛んで、鮎の土山が "あいの土山" に変化した。

7.あいのう土山説
 北勢地方では 「間もなく」という意味の「あいのう」という方言があり、「まもなく土山に着く」「まもなく雨が降ってくるだろう」から "あいの土山" と云われた。

と諸説あるそうです。
注:上記の説は後述する 土山宿内の 民芸・茶房 うかい屋 で頂いた資料に記載してあった内容です。

田村神社
下に掲載した広重の浮世絵は土山宿の手前に鎮座する、田村神社の東側を流れる田村川を渡る大名行列です。

安藤広重 東海道五十三次内 土山 春之雨

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919.
国立国会図書館デジタルコレクション   
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/70

写真左:海道橋
写真右:田村川


海道橋は安永4年(1775)に架けられた田村永代板橋を復元した橋。
広重の保永堂版は天保5年(1834)頃に版行されたので、広重の浮世絵は田村永代板橋が描かれている事になります。


田村神社参道
田村神社の主祭神は坂上田村麻呂です。
坂上田村麻呂と云うと現在の東北地方の蝦夷を討伐した事が有名ですが、鈴鹿峠で人々を苦しめていた鬼を退治したという伝説があるそうです。


土山宿
土山宿は往時の面影が色濃く残る宿場です。

写真左:道標
   東海道近江国土山宿
   従是  右京都十五里  左江戸百十里


扇屋


民芸・茶房 うかい屋
元々は旅籠だったのか?商家だったのか? は分かりませんが、築150~170年の古民家をリホームして落ち着いた雰囲気の喫茶・食堂として営業しています。蕎麦を頂きましたが、優しい味でした。
ご主人に 「"あいの土山" なので、間の宿だったのですか?」と質問しましたら、上記の資料を頂きました。諸説ありますが、私としては "藍の土山説" をとりたいと思います。


二階屋本陣跡


問屋宅跡


土山宿本陣跡(土山家住宅)
主屋、離れ(玉座)、土蔵、米蔵が国の登録有形文化財に指定されています。予約制で内部を公開しているそうです。

明治元年九月の明治天皇の東幸(遷都による東京への行幸)の際には、この本陣で満16歳の誕生日を迎えられ、天長節(現代で云う天皇誕生日)が祝われたそうです。


大黒屋本陣・問屋場跡・高札場跡
元々は上記の土山本陣がその始りでしたが、参勤交代が盛んになると土山本陣だけでは対応しきれなくなり、豪商の大黒屋も本陣に指定されたそうです。
世の中が平和になり、人々や物資の通行が活発になる事で地域も経済も発展するという事なのだと思います。


土山宿から水口宿へ


道標 御代参街道起点(ごだいさんかいどう)
ここから、中山道愛知川宿手前の小幡まで約36㎞の街道の始終点です。
春日局が寛永17年(1640)に伊勢神宮から多賀大社(滋賀県犬山郡多賀町)へ参詣したときに整備されたそうです。
江戸中期頃には京の公卿たちの間では年3回、伊勢神宮と多賀大社へ代参の名代を派遣する習慣があり、その際に利用されたことから御代参街道と云われたそうです。


この道標を過ぎて北西に少し行くと、本来の旧東海道は野洲川(旧名は松尾川)を渡る道筋でした。現在はかつての渡し場付近に橋が無いので国道1号線を南西に進みます。
そして、野洲川を渡りますが、覆いがかかった橋の名前は 歌声橋 です。なんか楽しくなる名前です。


茶畑の満開桜
土山町前野付近  土山は土山茶と云われるお茶の名産地です。


大野の東海道松並木
松並木と云うほどの松はありませんでしたが枝ぶりの良い松が残っていました。

土山町徳原付近
ここは間の宿だったのか旅籠跡が多く残っています。
そのなかの近江屋さんの表札に『土山の街並みを愛する会』と書いてありました。街並みの美観を守り、説明板、歌碑、句碑などの設置を行ったりしているそうです。
私は、ただ歩いて写真を写しているだけですが、地元の多くの皆さんの努力があって初めてこの景観が残されていると思うと有難い限りです。


造り酒屋だったのか、酒樽のオブジェが在りました。

水口宿
 

水口宿は三筋の町とも云われ、旧街道の中でも珍しい道筋の宿場です。旧東海道が三筋に分かれて通っています。

注:フリーソフト轍により、GPSデータを国土地理院地形図などに描画した地図です。


元禄3年(1690)に出版された 東海道分間絵図 第5帖 の水口付近の絵図を見ると 三筋に分かれては描かれていないのでそれ以後に三筋に分かれたのだと思います。
想像ですが、岡崎宿は"二十七曲がり"と云われる枡形(道を意図的にクランク状に曲げた道)を多くつくり、道を長くする事で宿場の発展に対処しましたが、水口宿では、旅籠や商家を増やす事ができなくなった為、街道筋を分岐させて敷地を確保したのではないかと思います。

水口町元町
下記に記述する脇本陣や本陣は旧東海道が三筋に分かれる手前にあります。宿場の主要な施設である本陣・脇本陣が元町に在り、町の名前から元々の宿場の中心だったのではないかと思います。

脇本陣跡
正確な築年は分からないとの事なのですが、19世紀前半の建物と推定されています。
建物は一部しか残っていないとの事です。

水口宿本陣跡


桔梗屋文七
明治38年(1905)創業の着物洗いのお店。看板を見ただけではクリーニング店とは思えないです。屋号の"文七"を見たら、落語の『文七元結』を思い出しました。新宿末廣亭で『文七元結』を聞いた時は、生れて初めて笑いながら泣きました。

三筋の通り

江戸口(東側)の方は、最初から三筋に道が分かれる訳ではなく、最初は本陣跡から直ぐ近くの高札場跡で別れます。

そこから100m弱の所で再度別れ三筋の道になります。


私は真ん中の道を歩いて進みました。


高札場跡


三筋の道
水口石橋駅のそばから三筋の道が始まります。
何故か分岐する場所に時計台が設置してありました。





南側通りの銭湯 清水湯
今日は近江鉄道の水口石橋駅まで歩いて行動終了でした。
汗を流そうと思い日帰り温泉施設を検索したら、三筋の南側の道に銭湯が在る事が分かり早速訪れました。
大正時代から営業を続けていて、洗い場には2畳くらいの湯舟がひとつあるだけでした。なんともレトロなお風呂でゆったりした時間を過ごしながら汗を流しました。


エピローグ
 


関宿、土山宿と往時の面影が色濃く残る宿場を通り、箱根と並び称される難所、鈴鹿峠を越しました。鈴鹿峠は思っていたより楽に越すことができました。
鈴鹿峠でお話をしたご夫婦は、静岡県三島にお住まいだそうで、ご主人は80歳になられたそうです。街道歩きのみならず登山もやるそうで、どうりで鈴鹿峠の登り坂を軽々と登って行った訳です。
私もいつまで街道歩きが出来るか分かりませんが、80歳になっても好きな道を歩き続けていられるようになりたいものです。


END

作成 2024/02/07

Column


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