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電子足跡:旧東海道歩き旅
 新居関所から吉田宿へ
 景勝潮見坂を通り、遠江国から三河国に入る道


プロローグ
 

このページは浜名湖の西岸に在る新居関所(=今切関所)を通ります。新居関所はその建物が現存している関所です。関所を越えて、新居宿、白須賀宿、二川宿、吉田宿へと歩きました。吉田宿とは現在の豊橋市の中心地付近に在った宿場です。
この道は、古来から東海道屈指の景勝地と知られていた潮見坂を越して、白須賀宿を過ぎると境川を越します。境川は小さな川ですが、その地名の通り 遠江国と三河国の国境で現在でも静岡県と愛知県の県境です。そして、二川宿の手前では立岩と云われる大きな岩塊が見えます。少し不思議な感じがする風景です。

この日、新居宿を越えた松並木付近から二川宿手前まで、東京からいらして、ご夫婦で東海道を歩いていらしゃる方と知り合い、断続的にご一緒に歩かせて頂いたのですが、歩いた後 2か月半後に信じられない展開が待っていました。何が起こったのかは本文で。

歩きデータ
都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS移動距離
静岡/愛知 JR新居駅-豊橋駅 新居関所、新居宿、潮見坂、白須賀宿、立岩、二川宿、吉田宿 2022/11/21 22.8㎞


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新居宿
 

現代では舞坂宿から弁天島、新弁天を通って歩いて新居宿に行けますが、東海道中膝栗毛に  "舞坂ヨリ新井へ海上一里" の段があるように当時は舞坂宿と新居宿間は一里の船旅でした。

東海道中膝栗毛には船の上で、路銀が尽きて、蛇使いの芸を見せながら金毘羅参りする旅人と乗り合わせ、その蛇が逃げ出し船中は上に下への大騒ぎになるシーンが描かれています。

安藤広重 東海道五十三次之内 荒井 渡船ノ図

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/52

話は少し変わりますが、東海道中膝栗毛に描かれているように、江戸時代の旅は路銀が無くなれば、素人でも蛇使いや大道芸を見せて路銀を稼ぎながら旅を続けられ、大道芸が出来なければ、沿道の住人から、持っている柄杓(ひしゃく)に施しを受けて旅を続けることが出来たそうです。なんとものんびりとした穏やかな時代だったのかと思います。

新居関所跡
上の浮世絵には、右上に新居関所が描かれています。
さらに東海道中膝栗毛にも、船頭が『さあさあ、御関所前でござる。(中略) それそれ、船着場に着きますぞ』と書かれているので新居関所の手前が船着場だった事が分かります。
正式には今切関所と呼ばれ、唯一の現存する関所です。自然災害2度移転をしていますが、現在保存されている建物は安政5年(1858)に再建された建物です。


関所の建物と思って見るせいもあると思いますが、全体的に威圧感がある建物です。
"入り鉄砲に出女"を重点的に調べたのは勿論ですが、新居関所では、江戸に向かう女性も手形が必要だったとの事です。


新居宿の家並み
写真左:旅籠紀伊国屋(資料館)
 大きな旅籠で紀州藩の御用宿だったそうです。
写真右:飯田武兵衛本陣跡


疋田八郎兵衛本陣跡
説明板には飯田武兵衛本陣は小浜、桑名、岸和田藩など約70家、疋田八郎兵衛本陣は徳川御三家など約120家が利用したと書かれていました。

宿泊料金はどの程度?
多くの藩が利用した新居宿の本陣ですが、本陣は宿泊料が決まっていた訳ではなく、大名は宿泊料ではなく謝礼金を支払いました。藩の格により謝礼金は変わったようですが、凡そ1~3両 大きな藩では5両というインターネットの記事がありました。時代により貨幣価値は変わりますが、1両≒10万円とすると、ちょっとした旅館を貸し切りで借りて、上級家臣も宿泊して風呂や食事の提供も受けたとすると少し安いような気がしなくもないです。
別のインターネットの記事では、加賀藩は江戸から金沢に戻るとき半月ほどかかり、費用が5500両(≒5憶5000万円)だったと記録が残っているとの事です。
ちなみに、旅籠は街道筋の相場にもよりますが、1泊2食付きで150~300文くらいで現在の感覚では5000円前後という感じだったようです。

新居宿から白須賀宿へ

新居宿を過ぎると旧東海道は標高差70~80mの遠州灘の海蝕涯の下に続いています。その途中の大倉戸地区には松並木が復元されています。


砂漠に落とした指輪が見つかるような話
松並木のなかを、ご夫婦で歩いていらしゃる方達がいました。ご夫婦とは、前になったり後ろになったりしながら断続的に一緒に歩き、通行止めになっていた場所の迂回路を一緒に探したり、東京の明大前にお住まいで、新幹線で移動しながらご夫婦で旧東海道を歩いていらっしゃるなどのお話を伺い、潮見坂や白須賀宿を歩いて、二川宿手前で別れました。
この出合いは街道を歩いていれば、たまにはある出会いでした。




そして、それから2か月半後の2023年2月2日に私のホームページの甲州街道のページが  文化放送の "大竹まことゴールデンラジオ"  「大竹発見伝 ザ・ゴールデンヒストリー『甲州街道を歩けば』」 で放送されました。
その放送を聞いていらしたリスナーの方から次の日にメールを頂きました。

なんと!メールを頂いた方は、この日にお会いしたご夫婦でした。
放送を聞いて、この日 会ったのは私だと確信されたそうでメールを送って頂きました。メールではじめてお名前を知り、年齢は私より上の方ですが、週5~6回ジムに通い、高尾山にも年数回登るなど健康的な方でした。そして1月には御油宿から宮宿 七里の渡しまで歩き、春には三条大橋まで歩くと書かれていました。ジムに通い身体を鍛えて、ご夫婦で旧街道を歩きを楽しむとは、なんとも穏やかで贅沢な時間をお二人で過ごしていらっしゃるのかと思います。

少しオーバーな表現かも知れませんが、その日偶然お会いして、9㎞くらいの距離を断続的に一緒に歩いた方と連絡が取れるとは思ってもみなかったです。マスコミの影響力とは凄いと思いました。
そしてなにより、たった数時間の出会いから、人と人が繋がる不思議さを感じざるを得ませんでした。

『人生とは邂逅である。』とは文芸評論家の亀井勝一郎氏の言葉ですが、考えてみれば妻との出会いもほんの一瞬の出来事だった訳で、それから何十年も一緒に生活し、子供達が産まれ育ち、孫が産まれ、そして今も同じ時間を過ごす事が出来ている不思議さと奇跡を感じます。

潮見坂
ここまで海蝕涯の下の平坦な道を歩いてきました。"道の駅 潮見坂"の手前で海食崖を登ります。700mの移動の間に80mの高さを登ります。けっこうキツイ登りです。
この坂は西から来ると、初めて太平洋や富士山を見る事ができる坂として知られ古くから景勝地として知られていました。
景勝地と云われていますが、私の写真では少しきつそうな坂、少し高い場所から見た海という感じにしか写っていないのが残念です。


明治天皇御遺蹟地記念碑
潮見坂を登り切った場所にあります。
明治元年(1868)10月1日、明治天皇が京都御所から名前が変わった東京に移られるときに、ここから太平洋を初めて見た場所との事です。
それまで、ほぼ京都御所のなかの世界しか知らなかった明治天皇が初めて太平洋を見て何を思ったのか興味があるところです。



安藤広重 東海道五十三次之内 白須賀 潮見坂ノ図

安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/53

白須賀宿
 

白須賀宿は元々は海岸近くにありましたが、宝永4年(1707)に発生した地震と津波で大きな被害を受け、潮見坂の上の高台に移転しました。宝永4年は現在でも富士山の中腹に大きな噴火口が残る宝永大噴火を思い出します。地震の49日後に宝永大噴火が発生したそうです。

白須賀宿は海蝕涯の上に在るため鉄道が海食崖を越える事が難しく、新居宿から北側に迂回して敷設されたので、特に保存しているという事ではないようですが、宿場の雰囲気が色濃く残っています。


写真左:大村本陣跡


白須賀宿から二川宿へ

境川  遠江国と三河国の国境
白須賀宿を越すとすぐに境川を渡ります。境川という名称から分かるように境川は静岡県と愛知県の県境です。昔は遠江国と三河国の国境でした。

三河国←   →遠江国



昔はもう少し広い川だったのかもしれませんが、戦国時代、こんな狭い川を挟んで武将どうしが敵対していました。

明応6年(1497)今川氏親は北条早雲と同盟を結び遠江国に攻め込み、その後約70年間遠江国を支配下に置きました。
当時弱小だった三河国は松平元康(徳川家康 キャスト:松本潤)を今川家に人質として送り、今川家の支配下になっていました。
永禄3年(1560) 尾張に侵攻した今川義元(キャスト:野村萬斎)が桶狭間の戦いで織田信長(キャスト:岡田准一)に敗れて、均衡が崩れ、三河国の松平元康(徳川家康)は織田信長と同盟を結び三河国の独立を回復しました。そして群雄割拠の戦国時代から 信長→秀吉→家康 と目まぐるしく時代が変わり始めました。

風景が変わりました
三河国に入ってから風景が一変した感じがします。海蝕涯の上の高台で広々とした風景が広がり、高台なので水が豊富ではないので水田が作れないのだだと思いますが、一面キャベツ畑が広がっています。


立岩
キャベツ畑が広がる平原の向こうにひと際目立つ岩塊が見えました。

標高は90mくらいの山です。
地質図を見ると、岩石としてはチャート(かつて海だった場所に堆積した放散虫・海綿動物などが海底に堆積して出来た岩石。非常に硬い)です。
この付近の地質は付加体と云われる構造で、海洋プレートが海溝で大陸プレートに沈み込むとき、海洋プレートの上に堆積した岩石がはぎとられ陸地側に付加された岩石で構成されています。地質年代としては中期-後期ジュラ期と書かれています。中期-後期ジュラ期はおよそ1憶7000万~1憶5000万年前で、海にはアンモナイトが生息して、陸上では恐竜などが闊歩していた時代です。

さらに、北側には熊本-大分-四国-紀伊半島-渥美半島-豊橋-諏訪-関東平野の北側へと1000kmも続く中央構造線と云われる大断層が通っています。西日本は中央構造線を境にして地質の成り立ち、別の云い方をすると日本列島の成り立ちが全く異なっています。
興味がありましたら、産総研の地質図をご覧ください。普段見ている地図とは全く異なった日本地図を見る事ができます。

目の前の、たった標高90mくらいの小さな岩塊から、頭の中で、九州から関東平野まで1000㎞におよぶ大断層を旅し、さらに1憶年以上前まで時間旅行をする事が出来ました。

二川宿
 

広重の浮世絵の二川宿は "猿ケ馬場" と云われた場所が描かれています。

安藤広重  東海道五十三次之内 二川 猿ケ馬場
出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション    https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/54

猿ケ馬場が現在の地名では何処なのか調べましたが分かりませんでした。
"馬場"という地名と絵の風景から広い平原という感じがします。
五街道細見には 『白須賀-猿ケ馬場-境橋-一里山-二タ川』 と書かれています。東海道中膝栗毛の "白須賀ヨリ二川へ一里十六丁" の段には 新居宿から駕籠に乗って進んで来た弥次さん北八さんは潮見坂を過ぎてから "猿ケ馬場"の立場で駕籠かき人足に酒を奢ってから、境川を越えています。
これらの事から "猿ケ馬場" は白須賀宿の西の外れ付近だったのかなと思われます。

二川宿の家並み
二川宿の家並みは風情がある民家が並んでいます。




二川宿本陣・二川宿本陣資料館
東海道中膝栗毛には駕籠を降りた弥次さん北八さんが二川宿本陣の前を通り、『本陣の前には、乗物が沢山ひかえており、御同勢はごったがえし、問屋の主人はなりふりかまわずいそがしそうに駆けずりまわっている。野袴、踏込袴のお侍衆がご御本陣へつめかけるのを見て、・・・』と活気に満ちた宿場の様子が描かれています。


右東海道・伊良胡阿志両神社道道標
明治33年に建てられた道標です。
地図を見ると、左の道を進むと渥美半島を歩き半島先端の伊良湖に続いています。

火打坂
東海道中膝栗毛にも火打坂の地名が出てきます。この付近を弥次さん北八さんが歩いていたとき、比丘尼から煙草の火を貸してほしいと頼まれ、北八さんが『いま火打金を打ってあげやしょう』と言っています。
火打坂の地名もここの岩屋山から産出する火打石に由来しているそうです。
という事を知って、東海道中膝栗毛のこのエピソードを読むと、比丘尼に煙草の火を貸すという話はこの土地で産出する火打石に掛けているのだと思えます。十返舎一九はよく取材して東海道中膝栗毛を書いたのだと思います。


吉田宿
 

吉田宿は現代の地名では豊橋です。

鶴松山壽泉禅寺
豊橋の中心部に近づくとなんの前触れもなく山門が現れます。臨済宗妙心寺派の寺院との事です。


竜宮城の様な造りを何様式と呼ぶのか分かりかねますが、境内には三重塔もあり都市の中にある寺院としては異彩を放つ寺院でした。


東惣門跡 ここにも "どうする家康" が在りました
吉田城本丸の東南の鍛冶町にあります。吉田城は永禄7年(1564)、徳川家康がまだ松平元康と名乗っていたとき、当時今川方だった小原鎮実を攻めて吉田城を攻略しました。攻略後、"どうする家康"では時々海老すくいの宴会芸を披露する酒井忠次(キャスト:大森南朋)が城主になりました。

市内の家並み
市内は開発が進み宿場町の雰囲気はありません。


吉田宿本陣跡
本陣跡は鰻屋さんになっていました。勿論うな重を食べることなく通り過ぎました。


今日はここまで歩いて日が傾きました。

エピローグ
 

新居関所を越えて遠江国から三河国に入りました。風景が変わった感じがしました。

この道はなんと云っても、東京からいらして旧東海道を歩いていらした夫婦にお会いした事が印象に残っています。
そもそも、私が作成しているホームページがラジオに取り上げられるとも思っていませんでしたし、たまたまこの日一緒に歩いたご夫婦が、ラジオ聞いていて、ご夫婦から連絡が来るとは今でも信じられない気持ちです。
せっかくの出会いを大切にしたいと思います。



END

2023/09/05  作成

Column


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