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電子足跡:旧東海道歩き旅
吉田宿(豊橋)から藤川宿へ
天然記念物 御油の松並木を通る道
プロローグ
このページは旧東海道を吉田宿(豊橋)から藤川宿まで歩いたときのページです。この道はなんと云っても、天然記念物に指定されている 御油の松並木 を通る事です。御油の松並木は御油宿の西端から赤坂宿までの間に約600mの両側に300本ほどの松並木が続いています。
この松並木は 東海道中膝栗毛 では 弥次さんが狐に化かされたと思い込む場面の舞台になりました。
また、赤坂宿では 安藤広重が描いた、東海道五十三次之内 赤阪宿 旅舎招婦ノ図 で描かれた旅籠鯉屋(現 大橋屋)が現存して見学が出来ます。
滑稽本や浮世絵に描かれた世界が現代にそのまま残っていると思える道です。
更に、間の宿だった本宿(もとじゅく)には、作曲家でシンセサイザー奏者の冨田勲の実家の病院がありました。
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歩きデータ
都道 府県 |
区間 | 通る宿場等 | 歩いた日 | GPS移動距離 |
愛知 | JR豊橋駅-名電藤川駅 | 吉田宿、豊橋、姫街道追分、御油宿、御油の松並木、赤坂宿、大橋屋(旧旅籠鯉屋)、本宿(間の宿)、冨田勲実家(富田病院)、藤川宿 | 2022/11/22 | 24.4㎞ |
GPSログをGoogleEarthで ツアーする方法 |
吉田宿
吉田宿は現在の豊橋市の中心部、豊川の南岸に在った宿場です。豊川稲荷
豊川で思い出すのが豊川の北岸に鎮座する豊川稲荷です。
豊川は日本列島を東西に貫く大断層帯である中央構造線の上を流れています。そして中央構造線に沿って大きな神社・仏閣が鎮座しています。
本州だけでも、東側から茨城県鹿島神宮・香取神社、長野県諏訪大社、愛知県豊川稲荷、三重県伊勢神宮、和歌山県 高野山などです。豊川稲荷は旧東海道の道筋からは離れていますが訪れてみました。境内が広く、稲荷神社だけあって狐の石像が所せましと置いてある一画がありました。
吉田宿に戻ります。
西惣門
現在豊橋公園になっている所に吉田城の本丸が在りました。西惣門は西側の門という事です。近代的なビルや道路の中にポツンと残っていました。
豊橋
市の名称になっていますが豊川に架かる橋が豊橋です。
広重の絵には豊川を背景に吉田城が描かれタイトルには豊川橋と書かれています。ですが五街道細見には吉田橋と書かれています。
安藤広重 東海道五十三次之内 吉田 豊川橋
安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/55
吉田宿から御油宿へ
子だが橋碑
説明板には、別名を "子断が橋" とも云い、付近の菟足神社には、春の大祭の初日に街道を通る若い女性を生贄にする習慣がありました。
ある年、平井村の人の前を故郷の祭礼と父母に逢う喜びを胸に秘めた若い女性が春の大祭の初日に暁の街道を通ってきました。見ると我が娘。『我が子だが、止むを得ん』と涙をのみ生贄に捧げたという事です。哀れな話です。
小坂井駅付近の家並み
名鉄豊川線
国府町付近の家並み
御油の姫街道追分
御油宿の手前 国府駅と御油駅の中間くらいの所が姫街道追分です。
もし見附宿の姫街道追分を姫街道側に進んでいれば,この場所で東海道に出会いました。
ただ、姫街道追分 は複数あって西から,この御油の追分、吉田宿の追分、浜松宿の追分、安間の追分、見附宿の追分とあるそうです。Facebookでフォローさせて頂いている方から教えて頂きました。
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御油宿
御油宿は音羽川の西岸に在る江戸から35番目の宿場です。
隣の赤坂宿とは御油の松並木を挟んで約1.7㎞しか離れていません。
五街道細見には『この宿遊女あり。』と書かれているのでかつては遊郭が在ったのでしょう。
音羽川に架かる御油橋から見た御油宿
御油宿の家並み
安藤広重 東海道五十三次之内 御油 旅人留女
東海道中膝栗毛の 『御油より赤坂へ十六丁 』の段の冒頭には、『旅籠屋からは留女が、お白粉を濃くぬりたくった面(つら)も白々と、目だけ光らせて、強引に袖を取ってはなさない。弥次郎は、やっとのことで振り切って、先に進む。』と書かれています。
広重の浮世絵は,まさにその留女が旅人を引き留める場面が描かれています。
東海道中膝栗毛が出版されたのは享和2年(1802)~文化11年(1814)で、安藤広重の東海道五十三次が描かれたのは天保5年(1834)頃とされているので、安藤広重は東海道中膝栗毛の御油の記述を下地にして描いたのかもしれないと感じます。
出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/56
御油の松並木
現代では御油宿そのものより 昭和19年に国の天然記念物に指定された 御油の松並木 が有名です。約300本の松がおよそ600mにわたり残っています。
この松並木は東海道中膝栗毛の 『御油より赤坂へ十六丁 』の段では、御油宿でとっぷりと日が暮れるも、北八が先に行ってしまったので御油宿に泊まるもままならず、茶屋のお婆さんから、『この松並木は寂しい所で、悪い狐が出て、旅人をよく化かす』と聞いて薄暗くなったこの松並木を歩き始めました。そこに北八が弥次さんを待っていました。しかし弥次さんはその北八は狐が化けていると思い、北八が持っていた餅は馬糞と言いはり、挙句の果てに北八を縛り上げて先を歩かせながら赤坂宿まで行きました。赤坂宿でもドタバタが繰り返されましたが長くなるので省略します。
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赤坂宿
御油宿と赤坂宿は御油の松並木を挟んで16丁(約1.75km)しか離れていませんでした。二つの宿場で荷物や通信物を次の宿場に運ぶ継立業務を分担していた時期もあったようです。写真左:本陣跡 本陣は4軒あったそうです。
写真右:高札場
大橋屋(旧旅籠 鯉屋)
建物は文化6年(1809)赤坂宿の大火以後に建てられたと考えられています。
注:資料によっては正徳5年(1716)の建築と書かれているものある。
当時の部材をなるべく再利用しながら伝統的な工法で補修されて公開されています。
如何にも古いと感じさせる木材と木組み
しばらく、江戸時代の旅人になった気分で旅籠の中をご覧ください。
安藤広重 東海道五十三次之内 赤阪宿 旅舎招婦ノ図
広重が描いた赤坂宿の旅籠はこの大橋屋(旧旅籠鯉屋)だと言われています。
描かれているソテツを模して庭にソテツが植えられています。
出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/57
脇本陣(輪違屋)跡
赤坂宿には本陣が4軒在りました。
脇本陣が何軒あったのかは分かりませんが、この脇本陣は上記の大橋屋の隣に在りました。
本宿(もとじゅく) 間宿
本宿は法蔵寺の門前町として栄え、江戸時代には間の宿として機能しました。
東海道中膝栗毛には『この里は麻の編み袋、早縄(人を捕らえたときに手早く縛るように携えている縄)などを商うので、北八は みほとけの誓ひと見えて法蔵寺なみあみぶくろはここのめいぶつ』と洒落ています。
法蔵寺
説明板に書いてあった事ですが、法蔵寺は徳川家康が子供の頃、手習いに励んだ寺と云われ、御草紙掛松は、家康の手植えの松と云われ、手習いのおり草紙を掛けた松とされています。と聞くと何となく有難く感じますが、手習いの草紙を松に掛けるって、今で云えば教科書を松に掛けたという事で、なんか、手習いが嫌で教科書を松に掛けたの?と勘ぐってしまいます。
写真左:法蔵寺山門
写真右:御草紙掛松(4代目)
旧アイチ味噌溜 (現 日本レトルトフーズKK)
法蔵寺から少し行くと本宿駅が在りますが、その手前に古民家が在ったので写真を写していました。すると女性が隣の家から出て来て説明をして頂きました。
写していた建物は元々は "旧アイチ味噌溜" の建物(岡崎市重要建造物指定)で味噌を醸造していたとの事でした。現在は息子さんが社業を継いでレトルト食品を製造する会社にしたと仰っていました。
つまり、説明して頂いた女性は先代社長の奥さんという事でした。
確かに、古民家の裏手には大きな工場が在りました。
突然ですが、
皆さんこのレコードジャケットに見覚えありませんか?
その女性との別れ際に
『すぐそこに、冨田病院って在るんだけど、冨田勲の実家なの。富田勲って知っている?』
「知っているもなにも、レコードを持っています。今でも聞く事があります。」と言って、慌てて戻って写した富田病院の写真です。
(注:私は今でもアナログレーコードで音楽を聴く事があります。)
若い世代の方に解説します
冨田勲:
昭和7年(1932)生まれ、平成28年(2016)没の作曲家、編曲家でシンセサイザーを使った作曲、演奏の日本の草分け的存在です。
父親が紡績会社の嘱託医だった為、東京で生れ、中国や山口県などで育ち、昭和14年(1939)に帰国し、父親の故郷のこの本宿村の、実家の元・代官屋敷(現 郷土資料展示室)で生活して本宿村立本宿尋常小学校に通いました。上京後、学生時代から作曲家として活動をはじめています。シンセサイザーと出逢った事で、その後の活動の中心になりました。上のジャケットの "展覧会の絵" は1975年ビルボード/キャッシュボックスで全米クラシックチャートで1位になりました。
冨田勲が育った元代官屋敷(現 郷土資料展示室)
冨田病院と同じ場所にあります。
そして、坂本龍一、細野晴臣、高橋幸宏で結成したYMO(Yellow Magic Orchestra)や喜多郎らに影響を与えて、現在ではシンセサイザー、キーボードなど電子楽器で演奏する事は当たり前になっていますが、冨田勲がその道を切り開きました。
本宿から藤川宿へ
この区間は特に史跡などは無いのですが、僅かに残った松や微妙に曲がっている道筋など、新しい道には無い魅力があります。advertisement
藤川宿
藤川宿には復元された宿場の出入り口である棒鼻を通って入ります。棒鼻とは一般的には木戸や見附(出入りする人々を監視)の事ですが、藤川宿では棒鼻と言っていたのだと思います。
安藤広重 東海道五十三次之内 藤川 棒華ノ図
広重の浮世絵は上の棒鼻を描いています。幕府は毎年 八朔(8月1日)に馬を朝廷に献上する事になっていたので、御幣を立てた馬の行列を宿場の役人や旅人が土下座して出迎えているところです。
広重はこの "八朔御馬進献" に幕府の命令で同行し、それが東海道五十三次之内の出版につながったと言われています。
出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/58
市場町格子造りの家並み
市場町は本陣が在った藤川宿の中心からは東に500mほど離れた場所です。往時は馬荷役、助郷人(宿場周辺の集落に課した労働課役)の手配などを担っていた所です。かつては倉町と云われ50年ほど前には30棟ほどの蔵が残っていたそうです。
説明板によると藤川宿は中世は山綱川の北側にあり、戦国時代末期に現在の地に移ったそうです。
寛永15年(1648)に幕府から人馬の増加をを命じられるも、宿場は困窮しており応じる事ができないほどだったそうです。
そこで、山中郷市場村68戸を藤川の東側、現在の市場町に移住させる事にしたとの事です。
藤川宿本陣跡
本陣の後裔の方が土地を岡崎市に寄贈して公園として整備されています。
本陣跡の公園から名鉄藤川駅方面を望む。
名鉄名古屋本線が見えています。家並みに隠れていますが山綱川が流れています。
旧東海道は山綱川より高い所に敷設されている事が分かります。
他の街道でも、多くの場合河川より少し高い所に旧街道が通っている事が多いので、当時の人達が如何に河川の洪水・増水を恐れていたのかが分かります。
今日は藤川宿まで歩いて行動は終了です。
そして今回の歩き旅も藤川宿で一旦終了して帰宅しました。次は春先に歩きます。
エピローグ
この道は何と云っても、東海道中膝栗毛に描かれた 御油の松並木 を歩いた事。
赤坂宿で安藤広重が描いた旅籠鯉屋(現 大橋屋)が現存していてその建物に入ってひと時を過ごした事。
そして、本宿で女性と知り合い 旧アイチ味噌溜 の建物の説明をして頂き、別れ際に、まさか今でもその音楽をアナログレコードで聞く事がある冨田勲の実家が旧東海道の本宿に在る事を知った事。
これに尽きます。
END
2023/10/24 作成
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