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電子足跡:旧東海道歩き旅
庄野宿から関宿へ
旧東海道の面影が残る道
プロローグ
このページは三重県 庄野宿から亀山宿 関宿へと歩いたときのページです。伊勢湾から離れ鈴鹿山脈に向かう道です。この区間は、これまで東京からここまで歩いて来た道とは雰囲気が変わります。これまでは太平洋側の大きな都市や工業地帯を歩いてきました。所々往時の面影が残る砂の中の宝石のような所はありましたが、全体としては近代化が進んだ都市のなかの道でした。
庄野宿、亀山宿では往時の宿場の雰囲気が残る家並みがあり、関宿では、往時の宿場そのものの雰囲気でした。
旧東海道のなかでは奇跡的に残った区間という感じがします。
また、庄野宿の "女人堤防"の碑文を読んだときは、一編のドラマを見たような感動を感じました。
さらに、小さな社でしたが、歩き旅をしている者は是非ともお参りしてほしい、健脚の守神 宇気比神社 が鎮座していました。
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歩きデータ
都道 府県 |
区間 | 通る宿場等 | 歩いた日 | GPS移動距離 |
三重 | 関西本線 加佐登駅-関駅 |
庄野宿、女人堤防、石上寺付近の桜並木、亀山宿、亀山城、京口門跡、宇気比神社、太岡寺畷の桜並木 、関宿 | 2023/03/27 | 16.7㎞ |
GPSログをGoogleEarthで ツアーする方法 |
庄野宿
加佐登駅から歩き始め、庄野宿の入口の説明板に、広重の庄野 白雨 が描かれた場所の絵地図がありました。場所は加佐登駅の南側 コンクリート工場が在る、芥川と鈴鹿川が合流する付近です。
工場脇の坂道がそれとなく浮世絵の構図の様に見えました。
安藤広重 東海道五十三次内 庄野 白雨
出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/66
庄野宿の家並みは旧宿場だった場所を本格的に保護している訳では無いようなのですが、往時のままと思える道幅の通りに、ところどころ格子戸の家があったり、防火壁としての"うだつ"がある家が残っていたりして、現代の生活と過去が混在しているような心地よい通りでした。
写真左:庄野宿の家並み
写真右:旧小林家住宅(庄野宿資料館)
庄野宿本陣跡
現在は公民館になっています。沢田兵左衛門が務めていました。
女人堤防碑文
最初に "女人堤防" と読んだとき、堤防を築く為に、多くの女性を人柱にして出来た堤防なのかと思いました。
ところが、説明板を読むと、この地は、鈴鹿川と安楽川の合流点で度々氾濫し、人命が失われる事もあるくらい被害が大きく、神戸藩に何度も築堤を申請するも、堤防を作る事で南側の城下の浸水を恐れた藩主が許すことなく、強いて築堤すれば打ち首の極刑に処せられる。御触れに反して男が築堤すると全員打ち首となり村が存続出来なくなる。
その時、菊女という乙女が、それならば女が築堤しようと絶叫し、それに賛同した、女性200余人が暗夜を選んで築堤し6年後に完成したそうです。この事が藩主に知れ、女性達は一旦は処刑場に送られ、菊女が断頭されそうな刹那、赦免の早馬が来て全員救われたそうです。なおかつ、築堤の功を賞して金一封と絹五疋を与えられたそうです。
それにしても、私も結婚して数10年が経ちますが、若い頃の女性像と現在の女性像では大きく変わりました。女性は他人、とりわけ子供の命を守るという事に関しては、自分の命を投げ出すくらい強い存在だと思う様になっています。
神戸(かんべ)領界石
女人堤防碑と同じ場所に建っています。
"従是東神戸領" と刻まれています。現在の鈴鹿市付近一帯が領地だった様です。明治になって僅か4か月ですが廃藩置県で神戸県が置かれたこともあるそうです。
また、これまで、旧街道を歩いて漢字表記や読みは異なるのですが、かんべ、こうべ、ごうど、と云う地名の所が在りました。旧山陽道 兵庫県 神戸(こうべ)、旧甲州街道 長野県諏訪郡 御射山神戸(みさやまごうど)、中山道 岐阜県可児郡 顔戸(ごうど)です。地名の由来は複数あるようなのですが、神社に所属する住民が住んだ場所という事のようです。
庄野宿から亀山宿へ
女人堤防碑から少し進むと中富田町です。中富田一里塚跡
説明板によると、付近に東百里屋(ともりや)という屋号の家があるそうで、江戸までおよそ100里であったのでこの屋号が付けられたそうです。なお、『ちゃんと歩ける東海道53次 西』には103里目の一里塚と書かれています。亀山領界石
上の一里塚跡と同じ場所に建っています。"従是西亀山領"と刻まれています。
ひろせ道道標
ここより北に広瀬町という地名が在ります。以前は奈良時代の伊勢国府は地名から、ここより南側の鈴鹿市国府町(鈴鹿サーキットのそば)に在ったと云われていたそうですが、発掘調査により、広瀬町に在ったと明らかになったそうです。
日本武尊像
少し休もうと思って、道沿いの井田川駅に行きました。そこに日本武尊像が建っていたので説明板を読みました。
景行天皇の命により日本武尊が熊襲討伐や東征を行ったという神話は多くの方達が一度は耳にした事があると思います。
日本武尊の神話はこのホームページの "由比宿から府中宿へ の草薙" "桑名宿七里の渡しから石薬師宿へ の杖衝坂" でも触れています。
東征からの帰途、岐阜県の伊吹山の荒ぶる神を倒すため伊吹山に入るも、伊吹山の神は大氷雨を降らせた為に病になり、大和国に帰る途中でこの付近で亡くなり、陵墓が造られたそうです。ここから北西に2㎞の所に在る能褒野(のぼの)王塚古墳が日本武尊の墓とされているそうです。
古事記や日本書記のなかの話ですので、史実はどうなのか分かりませんが、私はこれまでに日本神話は断片的に読んだり聞いたりしましたが、日本武尊の墓がこの地に在るという事を初めて知りました。
和田町 石上寺(せきじょうじ)付近
これまで鈴鹿川や安楽川が作った氾濫平野を歩いてきましたが、この付近から鈴鹿山脈から続く尾根の上に旧東海道が続いています。と云っても、標高は100mにも満たない丘の上に道があると云った方が良いかもしれません。その丘に登る坂道は満開の桜並木でした。
石上寺
和田一里塚
上り坂の途中に在ります。亀山市内にはこの和田一里塚と野村一里塚の2基が残っているそうです。
道路の拡幅工事のとき、もとの塚に近接する東側に復元したものだそうです。
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亀山宿
亀山宿は亀山城の城下町でもありました。亀山城は旧東海道の北側に在りました。旧東海道の沿道はアーケードの商店街が続いています。この家並みに本陣や脇本陣が在りました。旧東海道は段丘崖の上に続いています。段丘崖の端から亀山駅方面を見た風景です。
遍照寺 鐘楼門
街道沿いの民家に挟まれて遍照寺の鐘楼門がありました。
本堂は段丘涯の坂の途中にあるので「頭で鐘撞く遍照寺」と云われたそうです。
遍照寺を過ぎた付近から家並みの雰囲気が変わります。
亀山宿は東町と西町からなり、東町は樋口家、西町が若林家が10日あるいは20日ほどの期間で問屋業務を交替しながら担当していたそうです。
旧舘家住宅(枡屋)
亀山城西之丸外堀跡
京口門跡
滝川の東側の崖の上に築かれた門で亀山城の城門のひとつでした。往時は滝川に現在の京口橋はなく、谷の斜面に屈曲した旧東海道が通っていたそうです。
『亀山に過ぎたるもの二つあり。伊勢屋蘇鉄に京口御門』
と謡われるほど壮観な眺めだったそうです。
下のモノクロ写真は説明板に掲載されていた古写真です。
安藤広重 東海道五十三次内 亀山 雪晴
出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/67
京口橋から西を見た風景
亀山宿から関宿へ
野村一里塚
江戸から105里目の一里塚です。塚がある事に気が付かないくらい樹齢400年の椋の巨木が圧倒的な存在感です。
布氣皇舘太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)
主祭神は天照大御神、豊受大神、伊吹戸主神
延喜式には11代天皇の垂仁天皇18年鈴鹿郡布気神社があるそうです。
落針地区 平家落人の村
"ちゃんと歩ける 東海道五十三次" に『平家の落ち武者が住み着いたところ』と書かれています。
家並みはそれ程変わったところはないのですが、表札を見たら、多くの家が同じ苗字だったのでビックリしました。
宇気比神社(うけひじんじゃ)
街道を歩いていたら、路傍に "宇気比神社 健脚の守神は後ろの坂の上正面" と書かれていました。
歩いて旅をする者としてはお参りをしない訳にいかないと思い参拝しました。見晴らしの良い小高い丘の上に鎮座していました。
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鈴鹿川沿いの桜並木
宇気比神社の丘から降りてくると鈴鹿川沿いを歩きます。
この道は東海道で最も長い畷道と云われた太岡寺畷(たいこうじなわて)です。
"畷"とはあぜみち・たんぼ道の事ですが、かつては冷たい伊吹おろしが旅人を悩ませました。
かつては松並木でしたが、現在は満開の桜並木が続いています。
関宿
庄野宿、亀山宿、関宿と歩いてきて、関宿で旧街道の宿場の雰囲気がピークに達します。関宿は鈴鹿峠を控え、古代三関のひとつ鈴鹿関が置かれていました。また伊勢別街道と大和街道の追分があり現代で言えば渋谷のスクランブル交差点のようなイメージなのかなと思います。
それにしても、この家並みがよく残ったと思います。
中山道で云えば奈良井宿・妻籠宿・馬籠宿。北国街道では海野宿,会津西街道では大内宿のような感じですが、それぞれ環境や歴史が異なるので家並みの雰囲気や個性が異なっていると感じます。
食事処 山石
関宿の中間あたりにある 山石さんで名物みそ焼きうどんを頂きました。昔の旅籠と思われる民家を改装して営業しています。店内は落ち着いた雰囲気でゆったりした時間を過ごしながら味わいました。
みそ焼きうどんを頂いてから、関駅の道の駅に行って今日の歩きは終わりです。
エピローグ
冒頭にも書きましたが、今日歩いた道は道全体に旧街道の香りが感じられる良い道でした。『何がどう違うのか?』と問われても、明確に答える事が出来ないのですが、道の雰囲気が違うとしか答えようがないのがもどかしいです。
END
2024/01/25 作成
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