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電子足跡:旧東海道歩き旅
 掛川宿からJR天竜川駅へ
  天竜川を渡り、東海道中間地点を通る道


プロローグ
 

このページは旧東海道を掛川宿から天竜川を越して、天竜川西岸の旧東海道の中間地点である中野町を歩き、浜松の手前JR天竜川駅まで歩いたページです。
また、宿場の数で云うと袋井宿が真ん中の27番目の宿場です。
その袋井宿の入口には "東海道どまん中茶屋" と名が付いた無料の休憩所が在って、お茶を飲みながら休む事ができました。

掛川宿を越えた原川という場所には田園の中に続く道に400mほどですが松並木が残っています。木陰が嬉しい道です。

更に "三ヶ野坂の七つ道" と云われている道は 南北朝時代、鎌倉時代、江戸時代、明治、大正、昭和(国道1号線)、平成(磐田バイパス) に造られた道が狭い範囲に集まり、とりわけ鎌倉時代、江戸時代の道は趣がある道でした。

歩きデータ
都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS移動距離
静岡 JR掛川駅-天竜川駅 掛川宿、原川の松並木、久努の松並木、袋井宿、見附宿、三ヶ野坂の七つ道、見附宿、鳥人・浮田幸吉の墓、天竜川、中の町(東海道中間地点) 2022/11/19 28.7㎞



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掛川宿
 

JR掛川駅からスタートです。


清水銀行掛川支店

最初に目に入ったのは清水銀行掛川支店の建物とその壁面の大きなレリーフでした。
詳しい事は分かりませんが、建物は昔からある建物ではないようで、景観を保全するために建てられた建物のようです。

壁面のレリーフは掛川城主でもあった山之内一豊と妻千代そして駿馬をモチーフにしたレリーフです。
銀行の建物にこのレリーフがあると、家庭のお金は妻が管理し、銀行に預けると安心です。という宣伝の様に見えてしまいます。


豊臣秀吉により天下統一がなされ、徳川家康は当時は片田舎の湿地帯であった江戸に移封され、秀吉は街道沿いに配下の武将を配置し、天正18年(1590)
掛川には山之内一豊が入城しました。

山之内一豊の妻
多くの方達が知る逸話なので、詳細は省きます。
左の写真は北陸街道を歩いたとき、琵琶湖の北端付近の木之本宿に牛馬市跡の石碑です。そこの説明板に妻 千代が差し出したお金で駿馬を購入した場所であると書かれていました。

下の写真は高知城と城内に在った千代と駿馬の像です。


十九首塚  平将門の乱
平将門とその一門19名を祀る塚です。平将門の関東制覇を反乱軍とみなした朝廷軍は藤原秀郷軍により天慶3年(940)に討伐されます。
藤原秀郷は将門をはじめ一門の首級を持って京に上る途中この地に来ました。一方、京からは検視の勅使が下りこの地で検視を行いました。秀郷は逆賊と云えどもその屍に鞭を打つ事は礼に非ずと思い、この地に懇ろに供養したとの事です。
とすると、千代田区大手町にある将門塚は誰が埋葬されているのだろう?と思ってしまいます。

安藤広重 東海道五十三次内 掛川 秋葉山遠望
天竜浜名湖鉄道の西掛川駅の手前で二瀬川を渡ります。
二瀬川には大池橋が架かっていますが、広重の絵はこの橋のたもとから江戸時代に火伏信仰を集めた秋葉山を望む構図で描かれています。
秋葉山はここから北北西に25㎞ほど離れた885mの山ですが、山頂付近に秋葉神社が鎮座しています。地理院地図には、現在でも西詰に秋葉通という地名が記載されています。

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/47

松並木の道

東海道中膝栗毛では、
掛川宿を過ぎて 『沢田細田を過ぎ、砂川の坂道にかかるころから、木立が両方から生い茂っていて日蔭はひときわ暗く、ときおり往来する人の姿もたえてしまう、陰うつな坂道がつづいている。(中略)つぶやきながら原川を過ぎ、なくりの建場に着く。ここは花茣蓙(はなござ)を生産して商っている。』と描写があります。沢田、細田、原川、なくり(名栗)は今も残っている地名です。その間2.5㎞ほどの距離です。

"日蔭はひときわ暗い" と描かれた街道筋に松並木が残っています。

原川の松並木




久努の松並木
大和ハウス工場付近の松並木です。




久津部一里塚跡
江戸と京都は124里8丁あったと云われているので一里塚は124塚在った事になります。この一里塚は江戸から60里の一里塚です。両塚ともに残っています。ようやくほぼ半分まで歩きました。


七つ森神社
大化の改新(645)以前はここに久努国が在りました。
七つ森神社の由来は田んぼの中に残る七つの塚が由来で、通ってきた日坂宿に出没していた怪鳥を退治する為に朝廷から派遣された7名の武士が、怪鳥の返り討ちに遭い、全員落命し、村民が7名の墓を作ったのが起源だとの事です。
境内には "すだ椎(ブナ科)" の巨木があります。


七つ森神社のそばにも松並木が残っています。



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袋井宿
 

袋井宿は江戸側から数えても、京側から数えても27番目の宿場で旧東海道の真ん中の宿場です。

東海道どまん中茶屋
宿場の入口、江戸口付近に在ります。袋井市が運営している無料の休憩所です。安藤広重が描いた東海道五十三次内 袋井 出茶屋ノ図 をモチーフにして建てられたそうです。囲炉裏が良い雰囲気を出しています。
静岡産のお茶を2杯もご馳走になりました。


写っている女性は茶屋で接待を担当していらした方です。
地元の人達もいらしていて、お茶を飲みながら賑やかにお話していました。女性に街道を歩いてホームページを作っている事を伝えて撮影と掲載許可を貰おうと話しかけたら、地元の方が、『これで、全国区デビューだ!』とおっしゃって笑いあっていました。屈託のない自然な楽しい会話でした。
帰り際に、お茶が美味しかったので「美味しいお茶ですね。」と言ったら、『そういってもらえるのが一番嬉しいです。』とおしゃっていました。少しの間でしたが、江戸時代の旅人の気分を感じる事が出来ました。有難う御座いました。これから袋井宿を通るかたは、是非とも どまん中茶屋 に立ち寄ってください。

安藤広重 東海道五十三次ノ内 袋井 出茶屋ノ図

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/48

袋井宿東本陣跡
袋井宿には3軒の本陣がありました。東本陣、中本陣、西本陣と云われていました。東本陣は田代家が務めていました。

袋井宿高札場
高札場は宿場の西の外れにありました。その高札は説明板になっていて、『袋井宿は沖之川、宇刈川が原野谷川に流れ込む位置に在るため、高さ2mを越える土手に囲まれていた。』と書いてありました。

袋井宿から見附宿へ


木原の一里塚
江戸から数えて61番目の一里塚です。説明板には『本来の一里塚はこの場所から60m東に在ったが、現存はしていない』と書かれていたので、ここに復元されたようです。

郷社 許禰(こね)神社  徳川家康公腰掛石
許禰神社は天災に苦しむ村民が熊野権現お祀った神社です。
境内には関ヶ原の戦いの勝利祈願に訪れた徳川家康が腰かけたとされる石があります。この石に座って、どうするか考えたのかも知れません。
また、この地は武田信玄が西進したとき、この付近に布陣し、家康の家臣の内藤信成が偵察の兵を出したのでこの付近で戦闘になりました。この戦は "木原畷の戦い" と云われています。その後、徳川軍は信玄軍から追撃され、浜松城へ撤退する事になりました。


三ケ野坂の七つ道  時代の交差点
東海道中膝栗毛には "袋井ヨリ見附へ一里半" の段に『三香野橋を渡り、大久保の坂も越え、富士山の全貌をみごとに仰がれる見附の台の宿にはいっていた。』と描かれています。

写真左:東海道中膝栗毛にも記載がある三ヶ野橋
写真右:三ヶ野橋を渡りすぐに松並木が残っています。
        街道歩きをしているグループに会いました。


なんと行っても、三ケ野は複数の時代に造られた道が交差する珍しい場所です。
南北朝時代、鎌倉時代、江戸時代、明治、大正、昭和(国道1号線)、平成(磐田バイパス) とそれぞれの時代に造られた道がこの地点に集中しています。

明治の道
その道を進んで行くと、"明治の道"と書かれた看板がありました。この道は明治になって開削された道という事なのでしょう。

江戸時代の古道
明治の道を進んで行くと、左に曲がり、細い坂道があります。
そこには "江戸の古道" と書かれた道標があります。弥次さん北さんはこの道を歩いて西に進んで行きました。


鎌倉の古道
更に、坂を登りきると "鎌倉の古道" と書かれた石の道標があります。
鎌倉時代の道という事は源頼朝、源義経、或いは元寇を迎え撃つ鎌倉武士達が歩いた道なのかと想像が膨らみます。


大久保の坂
三ケ野坂の七つ道を過ぎ、三ケ野の立場跡を通り、鍋島公大久保陣屋跡付近が東海道中膝栗毛に記述がある大久保坂です。

従是西 見附宿
そして、この榜示杭から西が東海道中膝栗毛に『富士山の全貌をみごとに仰がれる』と書かれた見附宿です。


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見附宿
 

見附宿は何処にある宿場?と思うと思いますが、現代の地名では磐田市にあります。見附宿は川が浸食し残した台地の上に発達した宿場です。
磐田市と云えばジュビロ磐田です。


磐田市富士見町
五街道細見の記載では、台地の高台上という事もあり、『京から下る人、此処にて、初めて富士山を見る故、見附と云えり。』と書かれています。

鳥人・浮田幸吉の墓
鳥人・幸吉 の話は、小学生だった頃、おそらくマンガ雑誌で読んだ記憶が微かに残っています。

幸吉は備前国児島郡(現 岡山県玉野市八浜)に産まれ、7歳で父を亡くし岡山に奉公に出て表具の修行をしていました。
鳥が空を飛ぶことに興味を持ち、鳥の構造を研究して、試行錯誤を繰り返して表具造りの技術で翼を作り天明5年(1785)、岡山市の旭川の橋の欄干から飛び立ちました。風に乗って数m滑空したとも、即座に落下したとも伝わっています。町民の騒ぎとなり、岡山藩士に取り押さえられて、岡山所払いとなりました。所払いになったあと、駿河国駿府に移り木綿を扱う店を開いたそうです。
晩年は不詳で、駿府で再び空を飛んで騒乱の罪で死罪になったとも、ここ遠州国見附宿で妻子を得て平穏に暮らしたとも伝わっています。大見寺(磐田市見附2510-1)には鳥人・幸吉の墓が残っています。(Wikipediaから抜粋)

写真左:鳥人・浮田幸吉の墓  墓には 釈諦玄居士 と刻まれています
写真右:大見寺


旧見付学校
明治になり学制が施行されて、明治8年に建てられた校舎です。
日本最古の木造擬洋風小学校校舎で国の史跡に指定されています。

見付宿脇本陣大三河屋門


脇本陣門を越すと旧東海道は突然南に直角に曲がって磐田駅の方に向かいます。まっすぐ西に進む道は姫街道で浜名湖の北側を通り御油宿まで繋がっています。この道は元々は旧東海道の本道で中世以後、浜名湖の南側の往来が盛んになると徐々に往来が減っていきました。

遠江国分寺跡
右の写真はかつての礎石をくり抜いて作られた手水石です。


天竜川


天竜川の手前、宮之一色という所に松並木が部分的に残っていました。

安藤広重 東海道五十三次の内 見附 天竜川図
勿論、当時天竜川は舟渡しでした。現代はかつての渡し場の少し北側に天竜川橋と新天竜川橋が2つ架かっています。古い方の天竜川橋は歩道が無かったので新天竜川橋を渡りました。

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/49



新天竜川橋からは富士山が顔を出していました。


天竜川西岸


旧東海道中間地点

中の町
天竜川を越えた西岸は "中の町" 現代の漢字表記では "中野町" です。
ここは江戸と京都の距離の中間地点なので "中の町" と云われる様になりました。

東海道中膝栗毛にも『舟をあがって建場の町に入る。ここは江戸へも六十里、京都へも六十里の等分に里程を分けた土地なので、中の町と言う由である。』(現代語訳 東海道中膝栗毛(上) 伊馬春部 岩波書店)と書かれています。日本橋から歩いて来てようやく中間地点に到着しました。


姫街道追分
天竜川を渡って少し進んだ所にあります。
説明板には 『本坂道(姫街道)安間起点』 と書かれていました。
ここからは姫街道を北に進み、見附宿で旧東海道と別れた姫街道に接続しています。


今日は予定ではもう少し歩いて浜松まで行くつもりでしたが、疲れてしまい、挫折してJR天竜川駅まで歩いて行動は終わりです。

エピローグ
 

ようやく天竜川を越えて、旧東海道の中間地点を過ぎました。「まだようやく半分か」という気持ちの方が強いです。

袋井宿の入口に在った "東海道どまん中茶屋" は雰囲気が良かったですし、なんと云っても地元の方達が明るい方達で、一緒にお話が出来たのが良かったです。街道を一人で歩いていると、道を聞いたり、史跡の場所を聞いたりする以外に話をする事は稀で、ややもすると一日中話をしない事もあります。少しの間でしたが、茶屋でお茶を味わい地元の方達が賑やかに話をしている輪に加われたのは良い思い出です。有難うございました。


END

2023/08/20  作成


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