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電子足跡:旧東海道歩き旅
 池鯉鮒宿から宮宿へ
  桶狭間古戦場を通り
   有松絞染の家並みを歩き七里の渡し場まで


プロローグ
 

このページは旧東海道を愛知県 池鯉鮒宿から桶狭間古戦場を通り、古い家並みが残る有松絞染で有名な有松の家並みを歩き、宮宿の七里の渡しの船着き場まで歩いたときのページです。

この区間は、桶狭間の戦いに関係する城や砦が点在して歴史的にも興味深いですし、有松の家並みは趣のある古風な商家が残り弥次さん北さんが店先で有松絞染を選んでいるのではないか?と思える様な雰囲気の良い家並みでした。

歩きデータ
都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS移動距離
愛知 名鉄知立駅-神宮前駅 池鯉鮒宿、境川(尾張・三河国境)、桶狭間古戦場、有松、鳴海宿、宮宿、七里の渡し場、熱田神宮 2023/03/22 22.0㎞


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ツアーする方法



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池鯉鮒宿
 

池鯉鮒宿は現在は知立と表記していますが、鎌倉時代頃か智鯉鮒→池鯉鮒と変化して江戸時代は池鯉鮒が一般的な表記に変化したそうです。元々は知立神社が鎮座しているので知立の表記が本来の表記で、鯉や鮒が獲れたので、洒落て池鯉鮒に変わったそうです。
注:上記の記事は 中日新聞 谷川彰英の地名に隠された名古屋の魅力【地名の由来15】「知立」が「池鯉鮒」と書かれたのはなぜ? を参考に記載しています。

知立古城跡

桶狭間の合戦後織田軍により落城し、後に刈谷城主水野忠重が御屋形を建て、上洛などの休憩所として利用されていましたが、元禄期の地震で倒壊してそののち再建はされなかったとのことです。


知立古城跡を過ぎると直ぐに、地名の由来となった知立神社のそばを通るのですが、気が付かずに通り過ぎてしまいました。

池鯉鮒宿から鳴海宿へ

境川 尾張・三河国境
境川は、現在は愛知県刈谷市と豊明市の市境です。
かつては三河国と尾張国の国境の川でした。
NHK大河ドラマ どうする家康 では織田と徳川の同盟が決まり、若き日の信長・家康が国境を決めるとき、境川という地名が出ていました。その川がこの川です。


名鉄名古屋本線 前後駅付近
街道沿いの桜が咲き始め春を感じます。


桶狭間古戦場伝説地
説明するまでもないくらい有名な古戦場です。
ただ、桶狭間の正確な場所は特定されておらず、現在の豊明市の『桶狭間古戦場伝説地』と名古屋市緑区の『桶狭間古戦場公園』などがあります。
私が訪れた『桶狭間古戦場伝説地』は旧東海道を西に向かって進んでいると、案内板があるので南に曲がるとすぐに着きます。


桶狭間古戦場伝説地
永禄3年(1560)5月19日に戦国時代が大きく動き出す、織田信長軍と今川義元軍の戦があったとされる場所です。


今川義元の墓
以前は塚が建っていたのですが、明治9年に有松の住人により墓が建てられたとの事です。


桶狭間の戦いについて

注:カシミール3DによりGPSログを国土地理院地形図に描画してそのイメージデータを加工したものです   注:標高を強調して高低差を分かり易くしています。

細部は諸説ありますが、凡そ以下の様な概要でした。
また上記の地図をご覧頂けるとわかりますが、桶狭間周辺の地形は三方ヶ原や関ヶ原の様な平原ではなく、標高差 数10mの起伏に富んだ地形でした。

永禄3年5月12日(1560年6月12日)、2万5000の軍勢を率いた今川軍は駿府を出陣し18日に沓掛城に入城。対する織田軍4000あまりで鳴海城を取り囲む様に築いた三砦のひとつ、善照寺砦に布陣。その間僅か直線距離で6㎞ほどです。
織田信長は今川義元が布陣している場所を探らせると共に、今川軍2万5000の軍勢は織田軍の砦を攻める為に1万、後方の守りに1万を分散させた為、義元の周りには5000の兵となっていました。
更に、義元周辺の5000の兵を分散させる為に織田軍は300の兵をおとりにして、義元周辺の兵をそちらに引き寄せました。織田方の砦を2つ攻め落としたことに満足した義元は桶狭間の桶狭間山で休憩していましたが、その場所を信長が知り雨に紛れて桶狭間山に兵を進め、手薄になった今川軍に攻めかかって義元の首級を上げました。

有松  有松絞染の家並み

有松は有松絞染で有名です。
弥次さん北さんも有松で有松染めの店をひやかす光景が描かれています。さらに安藤広重も東海道五十三次の鳴海の浮世絵では鳴海宿の風景を描かずに、有松の家並みを描いています。

有松は伝統的な染物の町なので、家並みも景観を守っているようで雰囲気の良い家並みが1㎞以上続いています。










安藤広重 東海道五十三次之内 鳴海 名物有松絞

出展:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/61


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鳴海宿
 

鳴海宿は江戸から40番目の宿場で隣の宮宿へは1里半くらいと近い宿場です。
上記に記載しましたが、桶狭間の戦いで鳴海城を取り囲む様に織田信長が築いた善照寺砦は鳴海宿のすぐ北側ですし、中島砦は鳴海宿の東側に在りました。またNHK大河ドラマ どうする家康 で描かれましたが、松平元康(徳川家康)が兵糧入れを行った大高城は南西に2㎞ほどの所に在りました。

平部町常夜灯
鳴海宿の東の入口に文化3年(1806)に建てられた常夜灯です。

瑞泉寺
応永3年(1396)創建。山門は愛知県の文化財に指定。

鳴海宿の家並み
説明板が見当たらなかったので正しいかは分かりませんが、写真の阪野家電店が在る所が本陣跡らしいです。


鳴海宿から宮宿へ


笠寺一里塚

天白川を渡って名古屋市白雲町にあります。東塚しか残っていませんが、塚の形が良く残り、塚木が立派です。

笠寺観音
正式には笠覆寺と云います。
名古屋城の東南にあり尾張四観音のひとつです。創建は聖武天皇の天平5年(733)と古い創建です。
東海道を歩いていると突然立派な山門が現れたのビックリしました。

笠寺観音・笠覆寺とは珍しい名称です。
雨ざらしでびしょぬれだった観音様を見た若い女性が、自分がかぶっていた笠を観音様にかぶせてやり、それを見ていた京からやって来ていた青年貴族の藤原兼平が見て、その女性と結婚したという逸話があります。
その女性は玉照姫と呼ばれる様になり。夫婦は巡り合わせに深く感謝して、この地にお堂を建て、笠をかぶせた観音さまをお祀りしたそうです。それで笠をかぶった寺=笠覆寺と名付けられたそうです。
現在でも縁結びの寺として信仰を集めているそうです。




周辺には古風な民家も幾つか在ってこの周辺だけ時が止まっているかの様でした。



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宮宿
 

説明するまでも無いのですが、宮宿は熱田神宮の門前町であると同時に対岸の桑名宿に渡る七里の渡しの乗船場でもありました。

八丁畷(はっちょうなわて)と松田橋遺構
天正3年(1575)織田信長が領内の道を整備した際に浜の道(熱田から笠寺)を整備し、後に旧東海道の一部になりました。

源太夫社と美濃路(又は佐屋路)追分
説明板によると、この場所には源太夫社(上知我麻神社)が鎮座していましたが、戦後熱田神宮境内に遷座されたそうです。跡地には別の地にあった ほうろく地蔵 が祀られました。
また、この交差点は東海道と美濃路(佐屋街道)との追分でした。
道標には以下の様に刻まれているそうです。
 東面: 北 さやつしま  同 みのち 道
 南面: 寛政二年庚戌歳
 西面: 東 江戸かいとう  北なこやきそ道
 北面: 南 京いせ七里の渡し  是より北あつた御本社弐丁

写真左:道標
写真右:ほうろく地蔵


宮宿付近の家並み
写真右:熱田荘 明治29年(1896)築の料亭 魚半


七里の渡し船着場跡
「ようやくここまで歩いて来たか!」と思いました。歩いて旅をするのは楽しいですが、けして快適な旅という訳ではなく、暑い・寒い・脚が痛い とそれなりに辛い事もあります。当時の旅人も宮宿に着くと、明日は船旅で歩かなくてよいと思って安堵したのではないかと思います。

ここから先 桑名まで7里の船旅でした。遠浅の海なので干潮の時は沖合を航行するので10里ほどの航海になったそうです。



五街道細見には 宮より桑名までの船駄賃 乗合一人 54文 と書かれています。時代により貨幣価値は変わりますが、落語の時そばでは蕎麦が16文なので意外と渡し賃は安かった感じがします。
また、海路は海難事故もあったり、風待ちや船酔いを嫌った旅人は佐屋街道を通って桑名へ行く人もいたそうです。

伊勢湾沿岸は現在では土砂の堆積や埋め立てが進んで当時の航路は陸になっています。現在の伊勢湾岸自動車道は当時の七里の渡しの航路に近い付近を通っているそうです。

熱田神宮
七里の渡し船着場跡まで歩いてから、熱田神宮を参拝しました。物凄く広い境内なので驚きました。東京で云えば明治神宮の様な感じです。


安藤広重 東海道五十三次之内 宮 熱田神事

出展:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919.
国立国会図書館デジタルコレクション    https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/62


エピローグ
 

この道は 授業でも習い、多くの小説・ドラマで描かれた桶狭間古戦場に行った事が第一印象で残っています。
現在のその地は、何も知らなければ樹木が多い公園としか見えませんでしたが、頭の中ではこれまでに見た映画やドラマのシーンが思い出されて、当時の様子のイメージが膨らんできました。

宮宿から対岸の桑名宿までは海路で七里の渡しと云われていました。現在は七里の渡しに代わる定期船便は運航されていないので、私は次の日は佐屋街道を歩いて桑名宿に向かいました。

現代版 七里の渡し
Facebookでフォローさせて頂いている渡辺茂さんが宮宿から桑名宿まで船で渡った写真を投稿しています。
LINKをクリックして、現代版 七里の渡し の写真をご覧ください。
注:投稿写真はPCの大きな画面で見ると迫力が違います。
12枚目の外洋に近づいた船の揺れの動画は船酔いしそうな雰囲気です!

この運行は、NPO法人 『堀川まちネット』の方達が臨時航路の許可を受けた上で、不定期ですが年2回 宮宿から桑名宿まで学習会として海路の運行しているとの事です。私も何時か参加したいと思います。


END
2023/12/24 作成


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