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電子足跡:旧東海道歩き旅
 天竜川から浜松宿を越えて新居関所前まで
  浜名湖を越して遠江国の西端まで歩きます


プロローグ
 

このページは旧東海道を天竜川の西側 JR天竜川駅から浜松宿を通り、舞坂宿まで進み、浜名湖を渡った新居まで歩いたときのページです。
浜名湖を越して、新居の関所までは遠江国です。遠江と近江とは、京都からみて近い湖である琵琶湖があるのが近江。遠くの湖である浜名湖が在る場所が遠江という事だそうです。

浜松宿は駅周辺30年ほど前に再開発されアクトシティ浜松周辺は垢ぬけた雰囲気に変貌しています。

舞坂宿の手前の街道筋は700mほどの区間に松並木が残っていて雰囲気の良い道を歩く事ができます。

舞坂宿は浜名湖の東側の舟渡場に発展した宿場です。脇本陣茗荷屋の上段の間が残っていた事から復元された脇本陣の建物が建っており、見学する事ができます。

歩きデータ
都道
府県
区間  通る宿場等 歩いた日 GPS移動距離
静岡 JR天竜川駅-新居駅 浜松宿、東海道松並木、舞坂宿、舞坂宿脇本陣、北雁木(船着場)、浜名湖、弁天島 2022/11/20 21.9㎞



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浜松宿
 

浜松宿の手前、天竜川の西側のJR天竜川駅からスタートです。
浜松の印象は、子供の頃は "鰻の養殖" 、現在では "楽器・音楽の街" という印象が強くどこか垢ぬけた街という感じがします。

道の先にJR浜松駅そばのアクトシティ浜松のビルが良く見えています。
広大な平原に高くそびえるビルはひと際目立ちます。
高いビルがあると、無条件に経済的に発展している地域と感じます。

もし、戦国時代・江戸時代であったら、当時の人達が高くそびえる天守閣を見たらその土地の領主の経済力や軍事力を容易に想像したと思います。
この地は、今年(2023年)、なにかと話題になる浜松城が在る土地です。
残念ながら歩いていた時は街道筋から浜松城を見る事はありませんでした。
おそらく、当時は広重の絵の様に街道筋から浜松城が見えていたのでしょう。

安藤広重 東海道五十三次之内 浜松 冬枯ノ図

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション   https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/50

佐藤本陣跡
JR浜松駅の北側を西に向かって歩いていると浜松市中区で突然進行方向が南に変わります。浜松宿の中心地はJR浜松駅の西側、浜松城跡の南側に在る連尺町、伝馬町付近でした。
本陣の遺構は無く本陣が在った事を示す説明板が建っていました。
遺構はなにも無かったですが、説明板に浜松宿には本陣が6軒在ったと書かれていました。随分と大きな宿場だったと想像できます。


浜松宿から舞坂宿へ


二つ御堂
昔であれば宿場外れという事になるのでしょう。若林町に在ります。
奥州平泉の藤原秀衡とその愛妾によって天治年間(1125年頃)に創建されたと伝えられています。
京に出向いていた秀衡公が大病である事を聞いた愛妾は、京へ上る途中、ここで飛脚より秀衡公死去の知らせ(誤報)を受け、その菩提を弔う為に阿弥陀堂を建てました。一方、京に居た秀衡公は病気が快復し、帰国の途中ここでその話を聞き愛妾への感謝を込めて薬師堂を建てたと云うことです。

藤原秀衡は奥州藤原氏の2代目で、鎌倉幕府から追われ、平泉に逃げた源義経主従を保護した事で知られています。秀衡亡き後、跡を継いだ、3代泰衡が再三にわたる鎌倉幕府からの義経追討命令を受け、泰衡軍が義経主従を討った(衣川の戦い)のが文治5年(1189)の事です。

春日神社
永徳元年(1381)甲州身延山第11世沙門律師日朝上人が、諸国行脚の折り、村民と共に建立したと伝わるそうです。

神社に参拝して、何をおかしなことを言っているのだ。と云われそうですが境内にあった "水神" と刻んである石碑がある場所は、燈篭や階段が途中まで砂に埋もれいました。水神を祀っている場所なので、かつてはこの場所に清水が沸いて池になっていたのかな?或いは奇麗な水が流れ込んでいたのかな?などと想像しました。枯れたとしたらいつ頃枯れたのかな?と信心とは関係ない事を考えてしまいました。

東海道松並木
舞坂宿の手前、JR舞坂駅付近から西に約700m 330本の松並木が続いています。松の特徴なのだと思いますが、微かに爽やかな香りがして、空気がカラッとして乾いている感じの道が続いています。
松並木を歩くと、気持ちが軽くなるのを感じます。




舞坂宿
 

舞坂宿は浜名湖の東側の湖岸に在る宿場です。宿場であると同時に西岸の新居宿に渡る船着き場でもありました。

浜名湖は元々は淡水湖で海とは繋がっていなかったのですが、室町時代に起きた明応地震(南海トラフ地震 1498年)により発生した津波で砂州が決壊し海と繋がりました。決壊した場所は "今切口" と云われています。更にそれ以後も高潮や安政の大地震などで今切口が広がりました。
今切口が切れたことから、この間は舟渡になり、軍事的な要衝となりました。

舞坂宿の家並み


舞坂宿脇本陣 茗荷屋 堀江清兵衛
脇本陣の割に間口は5間と狭いですが、奥行きは15軒とかなりあります。公開されていましたので見学しました。
建物は復元ですが、説明では上段の間は極力当時の部材を活かして復元したと聞きました。



写真左:上段の間


渡船場跡 北雁木
雁木(がんぎ・がんげ)とは階段状になっている船着場の事だそうです。舞坂には3ヶ所あり、南側は主に荷物の積み下ろし、真ん中は主要渡船場で "本雁木" と云われ,写真の北雁木は主に大名や幕府の公用役人が利用した船着場だそうです。ここから西に約1里の新居関所までの船旅でした。



田畑政治ゆかりの地 弁天島
2019年のNHK大河ドラマ 『いだてん ~東京オリンピック噺~ 』で描かれた1964年東京オリンピック招致のキーマン 田畑政治(キャスト 阿部サダヲ)の実家の別荘がここ弁天島にあったそうです。ドラマでも浜名湖で水泳するシーンが描かれていました。


安藤広重 東海道五十三次之内 舞坂今切真景

出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション  https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/51

今日は、浜名湖を弁天島、新弁天と歩いて渡って、東海道本線新居町駅まで行って歩き終わりました。

エピローグ
 

浜名湖を過ぎていよいよ遠江国ともお別れです。明日は箱根関所と並び称される新居関所を越さなければなりません。
おかしな事に、現代では関所には、政治・行政的にはなんの役割も権限も無いと頭ではわかっているのですが、何故か関所を越すのは気が重くなります。例えて云えば、悪い事はしていないのに警察署に行くのが気が重いという感じでしょうか。


END
2023/08/28  作成

Column


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