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電子足跡:旧東海道歩き旅
桑名宿七里の渡しから石薬師宿へ
古事記にその名がある杖衝坂を通る道
プロローグ
このページは七里の渡しの伊勢国側の船着き場が在る桑名宿から鈴鹿市の石薬師宿まで歩いたときのページです。まるでワープした様に突然三重県桑名からのスタートです。当時、尾張の宮宿から伊勢国桑名宿までは "七里の渡し" と云われていた海路でした。
弥次さん北さんは、夜 宮宿でドタバタを演じて、一番舟で七里の渡しで伊勢湾を進みました。船の上でもドタバタを演じ賑やかに桑名に着岸しています。
焼蛤で有名な桑名宿の七里の渡し場から歩き始め、朝日町の朝明川(あさけかわ)の手前は満開の桜並木でした。
更に、焼蛤の本場と云われていた富田立場を通り、日本有数の工業地帯四日市コンビナートのそばを通り過ぎ、旧東海道と伊勢神宮に向かう伊勢街道の分かれ道、日永追分を通ります。そして、古事記にも記載されている杖衝坂を登り、石薬師宿に向かう道です。
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現代、海路で伊勢湾を渡るには
現在、宮宿から桑名宿までの定期航路は運航されていませんが、知っている限りですが、以下の2つの方法があります、
1)NPO法人 『堀川まちネット』の方達が臨時航路の許可を受けた上で、不定期ですが年2回 宮宿から桑名宿まで学習会として海路の運行しているとの事です。
2)桑名市に在る 『有限会社おおぜき』 がチャ-ター船を運航しています。乗合ではなく最大24名乗船可能な船を一隻チャーターします。グループで旧東海道を歩く様な場合は検討してみてください。
注:本ページは偶然知り合った四日市で観光ボランティアガイドをなさっている村田三郎さんの助言を得て作成しています。
歩きデータ
都道 府県 |
区間 | 通る宿場等 | 歩いた日 | GPS移動距離 |
三重 | 桑名駅- 加佐登駅 |
七里の渡し跡、桑名宿、朝日町の桜並木、富田立場、四日市宿、日永の追分、杖衝坂、石薬師宿 | 2023/03/25 | 31.2㎞ |
GPSログをGoogleEarthで ツアーする方法 |
桑名宿
揖斐川・長良川河口付近河口付近と云っても伊勢湾にそそぐ河口はここから5㎞ほど下流の長島スパーランドが在る所です。更に写真右側には写っていませんが木曽川が流れています。
写真中央より右側に見える構造物は,建設当時随分と話題になった長良川河口堰です。
七里の渡し跡
現在の七里の渡跡は昭和34年(1959)の伊勢湾台風で甚大な被害を受け、その後、七里の渡の前に防波堤が築かれた為に以前の景観とは異なっています。ですが往時を彷彿とさせる風景です。
渡し場のそばには徳川四天王の一人 本田忠勝(NHKどうする家康のキャストは山田裕貴)の居城である桑名城が在り、蟠龍櫓が描かれています。現在は蟠龍櫓の外観を模した水門統合管理所が建っています。
注:上の絵は桑名市教育委員会が設置した説明板の写真を使用させて頂きました。
安藤広重 東海道五十三次之内 桑名 七里渡口
出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/63
伊勢国 "一の鳥居"
七里の渡しは伊勢国の東の入口なので天明年間(1781~1789)に一の鳥居が建てられました。
現在でも伊勢神宮の式年遷宮に合わせて伊勢神宮宇治橋の鳥居を移して建て替えているそうです。
ちょっとガッカリする話なのですが、伊勢国一の鳥居と云われていますが、建立されたのは天明年間ですので、伊勢参りが庶民に普及して"お陰参り"とも云われるようになり、今で云う観光旅行が盛んになった時期です。神聖な鳥居に対して不遜な事を書きますが、現在でもあるように何かのキッカケで観光地化すると、その土地にモニュメント的な物を建てる事がありますが、その感覚に近い感じなのかなと感じます。ただ、七里の渡しで伊勢湾を越えて来た旅人はこの鳥居を見て、いよいよ伊勢国に来た、伊勢神宮に近づいたと感じたことは確かだと思います。
桑名宿の家並み
桑名といえば "焼き蛤" が名物です。食べてみたいと思ったのですが朝早かったのでお店が閉まっていました。
伊勢湾台風の被害で家が建て替えられたのか古い家はなく、宿場の雰囲気は希薄ですが、どこか普通の家並みとは異なる雰囲気があります。
しるべいし 志類べ以志
桑名の船着き場から南にまっすぐ伸びる旧東海道の春日神社の鳥居の所に建っています。
別名を "迷い子石" とも云い、人が大勢集まる所に建てられました。
迷子になった或いは行方不明になった人の特徴や服装などを書いて貼っておき、それを見て心当たりがある人が、居た場所などを貼っておいたそうです。迷子専用の伝言板という事のようです。
この "しるべいし" は明治18年2月に建立されたもので、現存する"しるべいし" は少なく、よく知られているのは浅草浅草寺境内に在る "浅草迷子しるべ石" があります。
歴史を語る公園
東海道五十三次をモチーフにした公園。道路と堀の間が細長い公園として整備されています。雨模様だったのですが、それが良い風情を醸し出していました。
桑名宿から四日市宿
桑名宿の中心から離れると、普通の町中を歩くのですが、街道筋の家並みは、新しい道の家並みとどこか異なる雰囲気があります。あまり直線的ではない、雑然としているけど、どこか調和を感じる様な、何とも形容のしようがない魅力があります。伊勢両宮常夜灯
員弁川(町屋川)の河岸にあります。文政元年(1818)に東海道の道標として、伊勢神宮への祈願を兼ねて桑名・岐阜の材木商により建立されたそうです。
長島スパーランド
員弁川(町屋川)に架かる町屋橋の上から長島スパーランドが見えました。長島スパーランドは子供達が小さかった頃に家族で行った事があります。家族が集まると今でもその時のジェットコースターに乗ったスリルが話題になる事があります。朝日町の桜並木
伊勢湾岸自動車道の "みえ朝日IC" 付近で旧東海道は朝明(あさけ)川を渡るのですが、その手前の街道沿いは満開の桜並木でした。元々は松並木でしたが、松が枯れたりして樹勢が無くなり、戦後になって桜を植樹したそうです。
富田立場跡
現在の近鉄富田駅付近に富田立場がありました。駅そばの富田中公園で休んでいたら、偶然、四日市で観光ボランティアガイドをなさっている村田三郎さんと知り合いました。
村田さんはガイドをなさりながら、各地の地名語源由来をまとめていらっしゃる方です。知識が豊富で話が尽きることが無かったのですが、その話の中で
『桑名の焼き蛤というけれど、本場はこの富田。』ですとか、『浜で獲れる蛤を、松ぼっくりを集めて焼いていたので材料費は掛からなかった。』などを教えて頂きました。
確かに、東海道中膝栗毛にも、"・・、富田の立場に着いた。ここはまえにもまして焼蛤が名物だ。両側に茶屋が軒をならべ、・・"と書かれています。
更に、公園から見えるマンションを指さして、『広重が描いた 桑名 富田立場之図はあのマンションの所に在りました。』と教えて頂きました。
それで、そのマンションと広重の浮世絵が下の写真です。
安藤広重初代
東海道五十三次(狂歌入東海道)桑名富田立場之図
街道沿いに焼き蛤を商っているお店が並び、駕籠かきや旅人が休んでいる光景が描かれています。東海道中膝栗毛にも弥次さん北さんが茶店で焼蛤を食べる光景が描かれています。
現在では全く面影はありませんが、浮世絵が描かれた場所を正確に知る事ができたのは村田さんのお陰です。有難う御座いました。
また、村田さんからはこのページを公開してから、見て頂いて修正や追記点を指導して頂きました。重ねて有難う御座いました。
道標 左四日市 右いかるが
"左四日市"は良いとして、"右いかるが" が何の事か分からないです。いかるが=斑鳩 であれば奈良に通じる街道と思いますが、四日市付近から奈良に行く道ってなんかおかしいと感じます。
地図を調べました。この道標から北西に1.5㎞ほど離れた所に、鵤(いかるが)と書いて鵤町という地名がありました。
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四日市宿
桑名から南西に進んで行くと、海蔵川を渡ります。その河岸に多度神社と三ツ谷の一里塚跡がありました。
多度神社は私が住む地方では馴染みがない神社です。桑名の多度山に多度大社が鎮座していて、この多度神社は多度大社を勧進した神社との事です。祭神は天照大神の第3子とされる天津彦根命(あまつひこねのみこと)。
写真左:多度神社
写真右:三ツ谷の一里塚跡
三瀧川
更に進むと、三瀧川にさしかかります。三瀧川は安藤広重が描いた浮世絵 東海道五十三次之内 四日市三重川 の事だと一般的には云われていますが、下に書いた様に異論があります。
安藤広重 東海道五十三次之内 四日市三重川
出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/64
前出の村田三郎さんから教えて頂いたのですが、
この浮世絵のタイトルは 『四日市三重川』 と書かれていますが、三重川は間違いで、県名の由来にもなった三重郡がなにかの間違いで使われたそうです。
更にこの場所は旧東海道に架かる三瀧橋ではなく、下流の四日市湊へ渡る板橋だそうです。
この話は『歌川広重 「東海道五十三次之内 四日市三重川」に描かれた場所に関する考察』 廣瀬毅 に詳しいので宜しかったらご覧ください。
安藤広重 東海道五十三次 はどの様に描かれたのか?
更に、村田さんのお話は続き、安藤広重の東海道五十三次の浮世絵は延享4年(1747)から文政元年(1818)に実在した司馬江漢が描いた絵がもとになっているそうです。
一般的には、広重は "八朔御馬進献"(幕府が8月1日朝廷に馬を献上すること) に幕府の命令で同行し、それが東海道五十三次之内の出版につながったと言われています。私も藤川宿のところでその様に書いています。
確かに、八朔御馬進献 に同行した時に見た風景がベースになっているとするのは不自然で、描かれた絵の季節がちぐはぐで、特に蒲原宿を描いた『蒲原夜之雪』は季節は冬ですし、それ以外にも『江尻 三保遠望』は旧東海道沿道からは随分と離れている場所から描いている様に思えます。
こちらは村田さんから送って頂いた司馬江漢が描いた絵と広重の浮世絵の絵です。確かに構図はほぼ同じです。
ですが、絵としてどちらが鑑賞に堪えるかという視点で見ると広重の方が圧倒的に良く描かれていると思います。
史実はどうなのかは分かりませんが、広重がインスパイヤされて描いたのが東海道五十三次の作品と思いたいです。
四日市宿中心部
三瀧川を渡った南詰付近が中心部で本陣や問屋場がありました。
五街道細見の四日市宿のところには1500軒の家が在ったと書かれていますので大きな宿場だった事が伺えます。
四日市宿は天領で現在の中部西小学校に代官所の陣屋が置かれていました。
写真左:問屋場跡付近 現東海道四日市宿資料館
写真右:黒川本陣付近
注:写真左の白い建物はかつては福生医院で、現在は東海道四日市資料館です。資料館の説明板には問屋場だったと書かれていましたが、村田さんがおっしゃるには、問屋場が在ったのは奥に写っているマンション付近でそのマンション付近が四日市宿の縄張りをするときの起点、つまり四日市宿の中心地だったとのお話でした。
道標
文化7年(1810)建立
"すぐ江戸" は "真っ直ぐ行くと江戸"の意
本来の旧街道はこの場所からまっすぐ諏訪神社に道が続いていたのですが、区画整理で道が消滅しています。
諏訪神社
諏訪神社の前の旧東海道は諏訪神社の参道を兼ねていたようで、"表参道 スワマエ"と云うアーケード街になっています。参拝者や旅人で賑わっていたのでしょう。
云うまでもないのですが、四日市は三重県最多の人口をかかえています。市内を歩いていても宿場町らしい風情は無く古民家なども見かけませんでした。また市街からは見えないのですが、旧東海道の東側の海岸線は四日市コンビナートが立地する工業都市です。
諏訪神社を過ぎて近鉄名古屋線を渡る前後でようやく宿場らしい雰囲気の家並みが在りました。
四日市宿から石薬師宿へ
日永(ひなが)付近
駅で云うと四日市あすなろ鉄道の南日永駅付近です。旧東海道は現役の生活道路として健在です。車が多かったのでチョットびっくりしました。
日永神社
地名の由来となった日永神社
主祭神は天照大御神
名残の一本松
説明板によると、日永から泊の集落付近まで家は一軒もなく、その間は道の両側に土手が築かれ、松が植えられていたそうです。道幅は土手も含めて5間(約9m)で、現在の道幅は土手が無くなった道幅とほぼ一致しているそうです。
日永の追分
さて、この追分で江戸から一緒に歩いて来た 弥次さん北さんともお別れです。弥次さん北さんは左に進んで伊勢神宮を目指し、私は右に進んで京を目指します。
日永の追分は間の宿で追分を中心に旅籠が並んでいたそうです。
追分に鳥居が建っていますが、これは伊勢神宮の遥拝所で、安永3年(1774)、江戸に住んでいた、久居(四日市と伊勢の中間付近)出身の渡辺六兵衛が江戸と京を往復するたびに日永の追分に鳥居がないのを遺憾に思い、江戸で伊勢出身の同志を募り追分に鳥居を建立したのが始まりだそうです。さらに私財百両を寄付して以後の改修費に充てたそうです。以後、地元の人達が神宮の式年遷宮毎に鳥居を建て替え続けているそうです。
伊勢神宮を目指して旅を続けていた人達は日永の追分に差し掛かり、遥拝所の鳥居を見ると気分が高揚したのではないかと思います。
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采女(うねめ)付近
内部川を渡たると采女町になります。采女は平安時代初期まで天皇や皇后の食事や身の回りの世話をする女官の役職で、地方の豪族の出身者が多く、容姿端麗で教養が高い女性が任じられたとの事なので、憧れを持たれたのだと思います。その采女の出身地が地名になったのかと思います。
尚、福島県郡山市で采女と書かれた看板を多数見た事がありますし、采女神社もありました。
ここからは、これまでと打って変わり坂道になります。
杖衝坂 古事記にその名が出てくる!
説明板に書いてあったことなのですが、なんとこの坂は古事記に書かれているそうです。
諸説あるようなのですが、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の帰途、伊吹山の荒ぶる神を平定するも、昏倒して、その後回復するも衰弱が激しくこの坂を喘ぎながら杖を突いて登った事に由来するそうです。
中山道の醒井宿を通ったとき、伊吹山の神は大氷雨を降らせ、日本武尊は病にかかり、命からがら伊吹山から逃げ帰って、醒井宿に沸く水を飲んだら高熱がさめたと云うエピソードがありました。
おそらく、伊吹山の戦いで疲労困憊の日本武尊が都に帰る途中のエピソードが醒井宿や杖衝坂に残ったのではないかと思います。
因みに醒井宿と杖衝坂は直線距離で50㎞ほど離れています。
芭蕉句碑
更に、元禄元年(1688)松尾芭蕉が馬に乗って坂を越える途中、あまりの急坂で落馬してしまい、
徒歩(かち)ならば杖つき坂を落馬かな 芭蕉
と詠んだことで知名度が上がったとの事です。ですがこの句には季語が無いように思いますけど、芭蕉が季語を入れ忘れたなどという事は無いでしょうし、俳句に詳しい方がいらしたら教えて下さい。
と書いて一旦公開しましたら、前出の村田さんから、紀行文『笈の小文』に芭蕉自身が季語を抜かしたと書いているとご指摘がありました。
血塚社
坂を登りきった所に在ります。物騒な名前ですが日本武尊の足の出血を封じた事に由来しているそうです。
鈴鹿市に入りました
杖衝坂を下って、国道1号線に合流します。ほどなく鈴鹿市になります。国道1号線の南側1kmほどの所に伊勢国分寺跡が在るのですが訪れませんでした。
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石薬師宿
石薬師宿の手前の旧東海道は国道1号線によって分断されています。地下道があるので地下道を使ってください。小澤本陣跡
石薬師寺
石薬師密寺
安藤広重 東海道五十三次之内 石薬師 石薬師寺
出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/65
宿場外れの家並み
広重の浮世絵には繩手道の向こうに石薬師寺が描かれ、更にその向こうに宿場の家並みが描かれています。ロケーションから推察して、撮影場所の付近から石薬師宿の方を見た構図と思われます。
今日は、石薬師宿をあとにして、関西本線加佐登駅まで歩いて行動終了です。
エピローグ
小雨中を歩き始め、途中から雨は止み一日中曇り空でした。日本有数の工業地帯のなかに続く道で、道路も建物もほとんど変わっていますが、逆に所々に残る旧街道の痕跡を見ると、「よく残っていたな。」と思い、往時の旅人の心情を想像しながら歩きました。驚いたのは杖衝坂です。舗装され路傍の家は建て替わっていますが、古事記にもその名が出てくると知ったときは少なからず驚きました。
END
2024/01/11 作成
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