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電子足跡:旧東海道歩き旅
水口宿から草津宿へ
中山道に出会う道
プロローグ
このページは旧東海道を滋賀県水口宿から琵琶湖のそば草津宿まで歩いたときのページです。鈴鹿峠を越して、琵琶湖に向かう緩やかな下り道です。所々、街道筋に古民家が残り往時の賑わいを彷彿とさせる道でしたし、季節柄、街道筋に桜が咲き誇りなんとも心地よい道でした。
そして、草津宿では旧中山道との追分に出会いいよいよ京が近づいたと感じる道です。
歩きデータ
都道 府県 |
区間 | 通る宿場等 | 歩いた日 | GPS移動距離 |
滋賀 | 近江鉄道 水口石橋駅-JR草津駅 | 水口宿、横田の渡し跡、夏見の里、天井川(大沙川・由良谷川)、 石部宿、旧和中散本舗、目川の里、東海道・中山道追分、草津宿 | 2023/03/29 | 23.2㎞ |
GPSログをGoogleEarthで ツアーする方法 |
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水口宿
水口宿は三筋の町とも云われ、旧東海道の道筋が三筋に分かれています。その京側の三筋に別れる場所を背にして西に進みます。江戸時代水口は徳川幕府の直轄地で、水口宿は水口城の城下町でもあります。wikipediaの情報によると、水口城は戦略的な城ではなく、3代将軍家光が寛永11年(1634)、京都への上洛のときの宿舎として、二条城を模して豪華な御殿として建てられたそうです。ですが、将軍が宿舎と使用したのは1回だけだったそうです。家光という将軍がどの様な人だったのかは分かりませんが、『売り家と唐様で書く三代目』って感じがするエピソードです。
近江鉄道を渡ると、街道筋は枡形(道を意図的にクランク状に曲げた道)を数回曲ります。所々、古民家が残り良い風情です。
安藤広重 東海道五十三次内 水口 名物干瓢
出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/71
水口宿から石部宿へ
横田渡し跡
水口宿を過ぎ田園風景の中を歩いて来ると冠木門と燈籠が見えてきます。横田渡し跡です。近くで見ると燈籠がやけに大きい事に気が付きます。
文政5年(1822)に地元や京都・大坂を中心にした万人講中の人々の寄進によって建てられ、高さは10.5mあり、火を灯す火袋は大人が通れるほどとの事です。旧東海道最大級の燈籠です。
京都に行くには、野洲川(この付近では横田川と云われていた)を渡る事になります。江戸時代は軍事的な理由から通年の架橋は許可されず、3月から9月は4艘の船による渡しで、10月から2月は土橋を架けて通行していました。
現在は少し下流の横田橋を渡って西岸に行きます。
大沙川(おおすなかわ)
タイトルは大沙川なのに、なんでトンネルの写真なの?と思うかもしれません。
大沙川は天井川で、トンネルの上に川が流れています。
トンネルが掘られたのは明治17年ですので、それ以前は土手を登って、渡河していました。
弘法杉
土手の上に大きな杉があります。樹齢750年と云われています。複数の伝説が伝わっていますが、弘法大師(空海)が食事をしたあと杉箸を差しておいたら芽が出たという伝説が伝わっています。
夏見の里
美しい語感の里です。かつては立場で何軒かの茶店がありました。そのなかの "いなりや" という茶店は安藤広重によって 藤の棚の店として紹介されています。浮世絵は説明板に掲載されていた絵を使わせて頂きました。
由良谷川
由良谷川も天井川です。
私が住んでいる新潟県長岡市周辺には天井川は無いので、道路の上を川が流れている風景は違和感もありますが、新鮮に感じます。
家棟川周辺
家棟川はかつては天井川です。河川改修が行われたのか、こちらは地面より下を流れています。土手に桜が植えられていて桜と古い家並みとのコラボレーションが良い風情でした。
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石部宿
京を発つと一日目の宿泊が石部宿になる事が一般的だったので随分と賑わった宿場だったそうです。全盛期には62軒の旅籠と216軒の商家があったそうです。
写真左:小島本陣跡
石部宿から草津宿へ
石部宿を過ぎると鈴鹿山脈から続く山並みも低くなり、眺望が開けます。近江富士(三上山)
栗東市六地蔵付近
六角家住宅 旧和中散本舗
六地蔵は間の宿でその家並みの中に在ります。
六角家は和中散という道中薬を売る商家でした。屋号は "ぜさいや" " で公家・大名の休憩所も務めたそうです。
手原付近
五街道細見に "もとの名をば手孕(てばらみ)と文字にも書きける由、・・"と書いてあります。由来は、この村の者が他国へ行くときに、若く奇麗な妻を友人に預け、友人は女の腹に手を置いて友人の妻を守っていたところ、"手"を産んだことから手孕という様になり、略して 手ばら と云うようになったと書かれています。肩かえの松
旅人や歩荷がこの松の木の下で休憩して、荷物を担う肩をかえた事から"肩かえの松"と云われたそうです。
手原醤油店舗
創業寛政2年(1790)
趣のある古民家です。子細は分かりませんが現在もお住まいの様子でした。
目川付近
目川ひょうたん 俊健
目川はひょうたんの特産地で、ここはひょうたんを展示販売しているそうです。見学は無料だそうです。
田楽発祥の地
この地は立場で、茶屋がありました。その中の伊勢屋では菜飯と田楽を提供して、独特の風味で旧東海道の名物になったそうです。
写真左:元伊勢屋跡
写真右:京いせや跡
安藤広重 東海道五十三次内 石部 目川ノ里
表題は 石部 目川ノ里になっています。目川という地名は石部宿から12㎞くらい離れているこの場所です。12㎞離れていて石部宿と云うのは少し無理があると感じます。むしろ草津宿に近いです。描かれているのは上に書いた田楽発祥の地 伊勢屋 との事なので、当時、田楽がかなり人気だったのだと思いますのであえて目川を描いたのだと思います。浮世絵を良く見ると、暖簾に "いせや"と書かれています。
出典:安藤広重 画 ほか『東海道五十三駅風景続画』,岩波書店,1919. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1902623/1/72
目川を過ぎると草津川に沿って道が続いています。
草津川は天井川です。
草津川の下を走る国道1号線。
この坂を登り、草津川の土手を歩きます。
草津川は公園として整備されて河岸に桜が植えられています。
この坂の下に、"東海道・草津宿入口 草津宿橋 旧渡し場経由" と書かれた道案内板がありました。五街道細見の草津川のところには、『橋あり、長さ26間、常はなし。』と書かれていますので、季節によっては舟渡しだったのかも知れません。
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草津宿
草津宿江戸口
ここが草津宿の東側の入口。道標を兼ねた常夜灯があります。『右金勝寺志がらき 左東海道いせ道』 と刻まれています。
旧東海道・中山道 追分
左の道が中山道、右の坂道が旧東海道。
江戸 日本橋で、それぞれ中山道と東海道から京に向かった旅人は、この地で再び出会います。
追分の道標
"右東海道いせみち 左中山道美のじ" と彫られています。
エピローグ
この道は琵琶湖へ向かう緩やかな下り坂なので身体の負担も少なく、ゆったりとした気持ちで歩けました。街全体で旧街道の雰囲気を保護している訳ではないようなのですが、所々古民家が残り、風情の良い家並みが気持ちを穏やかにしてくれました。
草津宿では、旧中山道との追分に出会い、まだ京に着いていないのにちょっとした達成感をかんじました。
END
作成 2024/03/04
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